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史記 / 封禅書

櫟陽雨金,秦獻公自以為得金瑞,故作畦畤櫟陽而祀白帝。其後百二十歲而秦滅周,周之九鼎入于秦。或曰宋太丘社亡,而鼎沒于泗水彭城下。其後百一十五年而秦并天下。秦始皇既并天下而帝,或曰:「黃帝得土德,黃龍地螾見。夏得木德,青龍止於郊,草木暢茂。殷得金德,銀自山溢。周得火德,有赤烏之符。今秦變周,水德之時。昔秦文公出獵,獲黑龍,此其水德之瑞。」於是秦更命河曰「德水」,以冬十月為年首,色上黑,度以六為名,音上大呂,事統上法。即帝位三年,東巡郡縣,祠騶嶧山,頌秦功業。於是徵從齊魯之儒生博士七十人,至乎泰山下。諸儒生或議曰:「古者封禪為蒲車,惡傷山之土石草木;埽地而祭,席用葅稭,言其易遵也。」始皇聞此議各乖異,難施用,由此絀儒生。而遂除車道,上自泰山陽至巔,立石頌秦始皇帝德,明其得封也。從陰道下,禪於梁父。其禮頗采太祝之祀雍上帝所用,而封藏皆祕之,世不得而記也。始皇之上泰山,中阪遇暴風雨,休於大樹下。諸儒生既絀,不得與用於封事之禮,聞始皇遇風雨,則譏之。於是始皇遂東遊海上,行禮祠名山大川及八神,求僊人羨門之屬。八神將自古而有之,或曰太公以來作之。

新字:櫟陽雨金,秦献公自以為得金瑞,故作畦畤櫟陽而祀白帝。其後百二十歳而秦滅周,周之九鼎入于秦。或曰宋太丘社亡,而鼎没于泗水彭城下。其後百一十五年而秦并天下。秦始皇既并天下而帝,或曰:「黄帝得土徳,黄竜地螾見。夏得木徳,青竜止於郊,草木暢茂。殷得金徳,銀自山溢。周得火徳,有赤烏之符。今秦変周,水徳之時。昔秦文公出猟,獲黒竜,此其水徳之瑞。」於是秦更命河曰「徳水」,以冬十月為年首,色上黒,度以六為名,音上大呂,事統上法。即帝位三年,東巡郡県,祠騶嶧山,頌秦功業。於是徴従斉魯之儒生博士七十人,至乎泰山下。諸儒生或議曰:「古者封禅為蒲車,悪傷山之土石草木;埽地而祭,席用葅稭,言其易遵也。」始皇聞此議各乖異,難施用,由此絀儒生。而遂除車道,上自泰山陽至巔,立石頌秦始皇帝徳,明其得封也。従陰道下,禅於梁父。其礼頗采太祝之祀雍上帝所用,而封蔵皆秘之,世不得而記也。始皇之上泰山,中阪遇暴風雨,休於大樹下。諸儒生既絀,不得与用於封事之礼,聞始皇遇風雨,則譏之。於是始皇遂東遊海上,行礼祠名山大川及八神,求僊人羨門之属。八神将自古而有之,或曰太公以来作之。

書き下し

櫟陽に金雨る。秦の献公自ら以為へらく金瑞を得たりと、故に畦畤を櫟陽に作りて白帝を祀る。其の後百二十歳にして秦、周を滅し、周の九鼎、秦に入る。或ひと曰く、宋の太丘の社亡びて、鼎、泗水の彭城の下に没すと。其の後百一十五年にして秦、天下を并す。秦の始皇既に天下を并せて帝たり。或ひと曰く、「黄帝は土徳を得て、黄龍・地螾見はる。夏は木徳を得て、青龍郊に止まり、草木暢茂す。殷は金徳を得て、銀山より溢る。周は火徳を得て、赤烏の符有り。今秦は周に変る、水徳の時なり。昔秦の文公出でて猟し、黒龍を獲たり、此れ其の水徳の瑞なり」と。是に於て秦、更めて河に命じて「徳水」と曰ひ、冬十月を以て年首と為し、色は黒を上び、度は六を以て名と為し、音は大呂を上び、事は法を上ぶに統ぶ。帝位に即きて三年、東のかた郡県を巡り、騶の嶧山に祠り、秦の功業を頌す。是に於て斉・魯の儒生・博士七十人を徴し従へて、泰山の下に至る。諸儒生或いは議して曰く、「古は封禅に蒲車を為る、山の土石草木を傷つくるを悪むなり。地を埽ひて祭り、席には葅稭を用ふ、其の遵ひ易きを言ふなり」と。始皇、此の議の各々乖異し、施用し難きを聞き、此に由りて儒生を絀く。而して遂に車道を除き、泰山の陽より上りて巓に至り、石を立てて秦の始皇帝の徳を頌し、其の封を得たるを明らかにす。陰道より下り、梁父に禅す。其の礼は頗る太祝の雍の上帝を祀るに用ふる所を采り、而して封蔵は皆之を秘し、世得て記さざるなり。始皇の泰山に上るや、中阪にして暴風雨に遇ひ、大樹の下に休む。諸儒生既に絀けられ、封事の礼に与り用ひらるるを得ず、始皇の風雨に遇ふを聞き、則ち之を譏る。是に於て始皇遂に東のかた海上に遊び、名山大川及び八神を礼祠し、僊人羨門の属を求む。八神は将に古より之有らんとす、或ひと曰く太公以来之を作ると。

現代語訳

櫟陽(やくよう)に金が雨のように降った。秦の献公は金の瑞祥を得たと考え、そこで櫟陽に畦畤(けいじ)を作って白帝を祭った。その百二十年後に秦は周を滅ぼし、周の九鼎は秦に入った。ある人は、宋の太丘の社が滅びたとき、鼎は泗水の彭城のあたりに沈んだとも言う。その百十五年後に秦は天下を統一した。秦の始皇帝は天下を統一して皇帝となった。ある者は言った。「黄帝は土徳を得て、黄龍と大みみずが現れました。夏は木徳を得て、青龍が郊外に止まり、草木がよく茂りました。殷は金徳を得て、銀が山からあふれ出ました。周は火徳を得て、赤い烏のしるしがありました。今、秦は周に代わりました。今は水徳の時。昔、秦の文公が狩りに出て黒い龍を得たのが、その水徳の瑞祥です」。そこで秦は黄河の名を改めて「徳水」とし、冬の十月を年の初めとし、色は黒を尊び、度量の単位は六を基準とし、音律は大呂を尊び、政治は法を尊ぶことで統一した。帝位について三年目、東方の郡県を巡り、騶(すう)の嶧山(えきざん)で祭りを行い、秦の功業を称える碑を立てた。そして斉・魯の儒生や博士七十人を召して従え、泰山の麓に至った。儒生たちのある者は議論して言った。「古の封禅では蒲で車輪を包んだ車を用いました。山の土や石、草木を傷つけるのを嫌ったためでした。地面を掃き清めて祭り、敷物には藁や草を用いました。これは誰でも従いやすいようにという意味です」。始皇帝はこれらの議論がそれぞれ食い違っていて実行しにくいと聞き、これを理由に儒生たちを退けた。そして車の通る道を開き、泰山の南側から登って頂上に至り、石碑を立てて秦の始皇帝の徳を称え、封を行ったことを明らかにした。北側の道から下り、梁父で禅を行った。その礼は、太祝(祭祀官)が雍で上帝を祭るときに用いるやり方を多く取り入れたが、封じて納めたもの(祭文など)はすべて秘密にされ、世間では記録することができなかった。始皇帝が泰山に登る途中、坂の中ほどで暴風雨に遭い、大きな木の下で休んだ。儒生たちは退けられて封禅の儀礼に加われなかったので、始皇帝が風雨に遭ったと聞くと、これをあざけった。こうして始皇帝はそのまま東の海辺に遊び、名山大川と八神を祭り、仙人の羨門(せんもん)らを探し求めた。八神は古くからあったもので、一説には太公(呂尚)以来作られたものだという。

解説

秦の始皇帝の封禅です。まず五行の徳が王朝ごとに移り変わるという「五徳終始説」が語られ、秦は周の火徳に勝つ水徳だとして、黄河を「徳水」と改め、黒を尊び、六を基準とし、法を重んじる体制を整えました。泰山では儒生たちの議論がまとまらないのを理由に彼らを退け、自分の流儀で封禅を強行します。ところが登山の途中で暴風雨に遭い、締め出された儒生たちがそれをあざけったという話が添えられています。司馬遷は、始皇帝の封禅が学者の知恵を退けた独断であり、しかもその内容は秘密にされたことを淡々と記しています。専門家の意見がばらばらだと、決める側はつい全員を退けて自分で決めたくなります。しかし締め出された人は、失敗を待つ批判者に変わってしまうものです。

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