師導古典を学びたいすべての人に

史記 / 封禅書

及至秦始皇并天下,至海上,則方士言之不可勝數。始皇自以為至海上而恐不及矣,使人乃齎童男女入海求之。船交海中,皆以風為解,曰未能至,望見之焉。其明年,始皇復游海上,至瑯邪,過恒山,從上黨歸。後三年,游碣石,考入海方士,從上郡歸。後五年,始皇南至湘山,遂登會稽,并海上,冀遇海中三神山之奇藥。不得,還至沙丘崩。二世元年,東巡碣石,并海南,歷泰山,至會稽,皆禮祠之,而刻勒始皇所立石書旁,以章始皇之功德。其秋,諸侯畔秦。三年而二世弒死。始皇封禪之後十二歲,秦亡。諸儒生疾秦焚詩書,誅僇文學,百姓怨其法,天下畔之,皆訛曰:「始皇上泰山,為暴風雨所擊,不得封禪。」此豈所謂無其德而用事者邪?昔三代之君皆在河洛之間,故嵩高為中嶽,而四嶽各如其方,四瀆咸在山東。至秦稱帝,都咸陽,則五嶽、四瀆皆并在東方。自五帝以至秦,軼興軼衰,名山大川或在諸侯,或在天子,其禮損益世殊,不可勝記。及秦并天下,令祠官所常奉天地名山大川鬼神可得而序也。於是自殽以東,名山五,大川祠二。曰太室。太室,嵩高也。恒山,泰山,會稽,湘山。水曰濟,曰淮。春以脯酒為歲祠,因泮凍,秋涸凍,冬塞禱祠。

新字:及至秦始皇并天下,至海上,則方士言之不可勝数。始皇自以為至海上而恐不及矣,使人乃齎童男女入海求之。船交海中,皆以風為解,曰未能至,望見之焉。其明年,始皇復游海上,至瑯邪,過恒山,従上党帰。後三年,游碣石,考入海方士,従上郡帰。後五年,始皇南至湘山,遂登会稽,并海上,冀遇海中三神山之奇薬。不得,還至沙丘崩。二世元年,東巡碣石,并海南,歴泰山,至会稽,皆礼祠之,而刻勒始皇所立石書旁,以章始皇之功徳。其秋,諸侯畔秦。三年而二世弒死。始皇封禅之後十二歳,秦亡。諸儒生疾秦焚詩書,誅僇文学,百姓怨其法,天下畔之,皆訛曰:「始皇上泰山,為暴風雨所撃,不得封禅。」此豈所謂無其徳而用事者邪?昔三代之君皆在河洛之間,故嵩高為中嶽,而四嶽各如其方,四瀆咸在山東。至秦称帝,都咸陽,則五嶽、四瀆皆并在東方。自五帝以至秦,軼興軼衰,名山大川或在諸侯,或在天子,其礼損益世殊,不可勝記。及秦并天下,令祠官所常奉天地名山大川鬼神可得而序也。於是自殽以東,名山五,大川祠二。曰太室。太室,嵩高也。恒山,泰山,会稽,湘山。水曰済,曰淮。春以脯酒為歳祠,因泮凍,秋涸凍,冬塞祷祠。

書き下し

秦の始皇天下を并するに至るに及び、海上に至れば、則ち方士之を言ふこと勝げて数ふ可からず。始皇自ら以為へらく海上に至りて及ばざらんことを恐ると、人をして乃ち童男女を齎して海に入りて之を求めしむ。船交々海中にあるも、皆風を以て解と為し、曰く未だ至る能はざるも、之を望見すと。其の明年、始皇復た海上に游び、瑯邪に至り、恒山を過ぎ、上党より帰る。後三年、碣石に游び、海に入る方士を考へ、上郡より帰る。後五年、始皇南のかた湘山に至り、遂に会稽に登り、海上に并ひ、海中の三神山の奇薬に遇はんことを冀ふ。得ず、還りて沙丘に至りて崩ず。二世元年、東のかた碣石を巡り、海に并ひて南し、泰山を歴て会稽に至り、皆之を礼祠し、而して始皇の立つる所の石書の旁に刻勒し、以て始皇の功徳を章らかにす。其の秋、諸侯秦に畔く。三年にして二世弑されて死す。始皇封禅の後十二歳にして秦亡ぶ。諸儒生、秦の詩書を焚き、文学を誅僇するを疾み、百姓は其の法を怨み、天下之に畔き、皆訛りて曰く、「始皇泰山に上り、暴風雨の撃つ所と為り、封禅するを得ず」と。此れ豈に所謂其の徳無くして事を用ふる者か。昔、三代の君は皆河・洛の間に在り、故に嵩高を中岳と為し、而して四岳各々其の方の如く、四瀆咸な山東に在り。秦の帝と称し、咸陽に都するに至りて、則ち五岳・四瀆皆并せて東方に在り。五帝より以て秦に至るまで、軼いに興り軼いに衰へ、名山大川或いは諸侯に在り、或いは天子に在り、其の礼の損益は世々殊にして、勝げて記す可からず。秦の天下を并するに及びて、祠官をして常に奉ずる所の天地・名山大川・鬼神を得て序づ可からしむ。是に於て殽より以東、名山五、大川の祠二。曰く太室、太室は嵩高なり。恒山、泰山、会稽、湘山。水は済と曰ひ、淮と曰ふ。春は脯酒を以て歳祠と為し、因りて凍を泮き、秋は凍を涸し、冬は塞禱して祠る。

現代語訳

秦の始皇帝が天下を統一して海辺に来ると、方士たちが三神山のことを口々に言うのは数えきれないほどだった。始皇帝は、自分が海辺まで来ても(神山に)たどり着けないのではないかと恐れ、そこで人に童男童女を連れて海に入らせ、これを探させた。船は次々に海に出たが、みな風のせいにして、まだたどり着けないが遠くに見えたと言った。その翌年、始皇帝は再び海辺に遊び、瑯邪に至り、恒山を通って上党から帰った。三年後には碣石(けっせき)に遊び、海に入った方士たちを取り調べ、上郡から帰った。五年後、始皇帝は南の湘山に至り、会稽山に登り、海沿いを進んで、海中の三神山の霊薬にめぐり合うことを願った。しかし得られず、帰る途中の沙丘で死んだ。二世皇帝の元年、東の碣石を巡り、海沿いに南下し、泰山を経て会稽に至り、いずれにおいても祭りを行い、始皇帝が立てた石碑の傍らに文字を刻んで、始皇帝の功徳を明らかにした。その秋、諸侯が秦に背いた。三年後、二世皇帝は殺された。始皇帝が封禅を行ってから十二年で秦は滅んだ。儒生たちは秦が詩書を焼き、学者を殺したことを憎み、民はその法を怨み、天下は秦に背いた。そしてみな「始皇帝は泰山に登ったが、暴風雨に打たれて封禅できなかった」と偽りを言いふらした。これこそ、いわゆる「徳がないのに儀式を行った者」ではないだろうか。昔、三代(夏・殷・周)の君主はみな黄河と洛水の間に都を置いたので、嵩高山を中岳とし、四岳はそれぞれの方角にあり、四瀆(四大河)はみな華山より東にあった。秦が帝を称して咸陽に都を置くと、五岳・四瀆はすべて東方にあることになった。五帝から秦に至るまで、王朝は代わる代わる興っては衰え、名山大川はあるときは諸侯の領内にあり、あるときは天子の領内にあって、その祭礼の増減は時代ごとに異なり、すべてを記すことはできない。秦が天下を統一すると、祭祀官に命じて、常に祭るべき天地・名山大川・鬼神を整理させた。こうして殽山(こうざん)より東では、名山五つ、大河の祠二つとした。すなわち太室(太室とは嵩高山である)・恒山・泰山・会稽山・湘山、川は済水と淮水である。春には干し肉と酒を供えて年の祭とし、あわせて氷が解けるのを祈り、秋には水が凍り涸れるのを祈り、冬には禱りに応えてくれたお礼の祭を行う。

解説

始皇帝が不老不死の薬を求めて何度も海辺を巡り、童男童女を海に送り出しながら、ついに沙丘で死ぬまでが描かれます。方士たちは失敗をいつも「風のせい」にしていました。封禅から十二年で秦は滅び、恨みを抱く儒生や民は「始皇帝は暴風雨で封禅できなかった」という噂を広めます。司馬遷はこれを「徳がないのに儀式を行った者」の例として、冒頭の問いに結びつけています。後半は、秦が全国の名山大川の祭祀を整理した制度の記録で、都が西の咸陽に移ったため五岳四瀆がすべて東方に位置するようになったと指摘しています。成果が出ない理由を毎回外部要因に求める報告を受け入れ続けると、組織の判断力はじわじわと損なわれていきます。

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る