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史記 / 十二諸侯年表

太史公讀春秋歷譜諜,至周厲王,未嘗不廢書而嘆也。曰:鳴呼,師摯見之矣!紂為象箸而箕子唏。周道缺,詩人本之衽席,關雎作。仁義陵遲,鹿鳴刺焉。及至厲王,以惡聞其過,公卿懼誅而禍作,厲王遂奔于彘,亂自京師始,而共和行政焉。是後或力政,彊乘弱,興師不請天子。然挾王室之義,以討伐為會盟主,政由五伯,諸侯恣行,淫侈不軌,賊臣篡子滋起矣。齊、晉、秦、楚其在成周微甚,封或百里或五十里。晉阻三河,齊負東海,楚介江淮,秦因雍州之固,四海迭興,更為伯主,文武所褒大封,皆威而服焉。是以孔子明王道,干七十餘君,莫能用,故西觀周室,論史記舊聞,興於魯而次春秋,上記隱,下至哀之獲麟,約其辭文,去其煩重,以制義法,王道備,人事浹。七十子之徒口受其傳指,為有所刺譏褒諱挹損之文辭不可以書見也。魯君子左丘明懼弟子人人異端,各安其意,失其真,故因孔子史記具論其語,成左氏春秋。鐸椒為楚威王傅,為王不能盡觀春秋,采取成敗,卒四十章,為鐸氏微。趙孝成王時,其相虞卿上采春秋,下觀近勢,亦著八篇,為虞氏春秋。

新字:太史公読春秋歴譜諜,至周厲王,未嘗不廃書而嘆也。曰:鳴呼,師摯見之矣!紂為象箸而箕子唏。周道欠,詩人本之衽席,関雎作。仁義陵遅,鹿鳴刺焉。及至厲王,以悪聞其過,公卿懼誅而禍作,厲王遂奔于彘,乱自京師始,而共和行政焉。是後或力政,彊乗弱,興師不請天子。然挟王室之義,以討伐為会盟主,政由五伯,諸侯恣行,淫侈不軌,賊臣篡子滋起矣。斉、晋、秦、楚其在成周微甚,封或百里或五十里。晋阻三河,斉負東海,楚介江淮,秦因雍州之固,四海迭興,更為伯主,文武所褒大封,皆威而服焉。是以孔子明王道,干七十余君,莫能用,故西観周室,論史記旧聞,興於魯而次春秋,上記隠,下至哀之獲麟,約其辞文,去其煩重,以制義法,王道備,人事浹。七十子之徒口受其伝指,為有所刺譏褒諱挹損之文辞不可以書見也。魯君子左丘明懼弟子人人異端,各安其意,失其真,故因孔子史記具論其語,成左氏春秋。鐸椒為楚威王傅,為王不能尽観春秋,采取成敗,卒四十章,為鐸氏微。趙孝成王時,其相虞卿上采春秋,下観近勢,亦著八篇,為虞氏春秋。

書き下し

太史公、春秋の歴譜諜を読み、周の厲王に至りて、未だ嘗て書を廃して嘆ぜずんばあらざるなり。曰く、嗚呼、師摯之を見たり。紂、象箸を為りて箕子唏く。周道欠けて、詩人之を衽席に本づけ、関雎作る。仁義陵遅して、鹿鳴刺る。厲王に至るに及びて、其の過ちを聞くを悪むを以て、公卿誅を懼れて禍作り、厲王遂に彘に奔り、乱京師より始まりて、共和政を行ふ。是の後或いは力政し、彊は弱に乗じ、師を興すに天子に請はず。然れども王室の義を挟み、討伐を以て会盟の主と為り、政は五伯に由り、諸侯恣に行ひ、淫侈にして軌あらず、賊臣篡子滋々起こる。斉・晋・秦・楚は其の成周に在りては微なること甚だしく、封は或いは百里、或いは五十里。晋は三河に阻り、斉は東海を負ひ、楚は江淮を介とし、秦は雍州の固めに因り、四海迭ひに興り、更々伯主と為る、文武の褒め大いに封ずる所も、皆威して服す。是を以て孔子、王道を明らかにし、七十余君に干むれども、能く用ふる莫し。故に西のかた周室を観、史記の旧聞を論じ、魯に興りて春秋を次す。上は隠を記し、下は哀の獲麟に至る。其の辞文を約し、其の煩重を去り、以て義法を制す。王道備はり、人事浹し。七十子の徒、口づから其の伝指を受く、刺譏褒諱挹損する所の文辞有りて書を以て見すべからざるが為なり。魯の君子左丘明、弟子の人人端を異にし、各々其の意に安んじて、其の真を失はんことを懼る、故に孔子の史記に因りて具さに其の語を論じ、左氏春秋を成す。鐸椒、楚の威王の傅為り、王の尽くは春秋を観る能はざるが為に、成敗を采取し、卒て四十章、鐸氏微と為す。趙の孝成王の時、其の相虞卿、上は春秋を采り、下は近勢を観、亦八篇を著し、虞氏春秋と為す。

現代語訳

太史公は『春秋』の暦譜や系譜を読み、周の厲王のところに至ると、いつも書物を置いて嘆息せずにはいられなかった。そして言った。ああ、楽師の摯(師摯)はこれを見通していたのだ。紂王が象牙の箸を作ると、箕子は嘆いた(贅沢の行き着く先を悟ったからである)。周の道が欠けると、詩人は寝所の事(夫婦の道)にことよせて「関雎」の詩を作った。仁義が衰えると、「鹿鳴」の詩で風刺した。厲王の代になると、王が自分の過ちを聞くのを嫌ったため、公卿は誅殺を恐れて禍乱が起き、厲王はついに彘に逃れ、乱は都から始まって、共和の政治(王不在の執政)が行われた。その後は力づくの政治がはびこり、強者は弱者につけこみ、兵を起こすのに天子の許しを求めなくなった。それでも王室を尊ぶという大義を掲げ、討伐によって会盟の盟主となり、政治は五人の覇者に握られた。諸侯は好き勝手にふるまい、放縦で法を守らず、君を殺す臣や位を奪う子がますます現れた。斉・晋・秦・楚は、成周(周の東都)の時代にはごく小さく、封地は百里や五十里にすぎなかった。だが晋は三河(河東・河内・河南)を要害とし、斉は東の海を背にし、楚は長江と淮水を境とし、秦は雍州の堅固な地形に拠って、四方がかわるがわる興り、次々に覇者となった。周の文王・武王が褒賞として大きく封じた国々も、みなその威勢に屈した。そこで孔子は王道を明らかにしようと七十余人の君主に仕官を求めたが、用いる者はなかった。そこで西のかた周王室の記録を見、史官の記録や古い伝聞を論じ、魯を起点として『春秋』を編んだ。上は隠公から記し、下は哀公の時の麒麟捕獲に至る。言葉を簡潔にし、煩雑な重複を除いて、義の規範を定めた。これにより王道が備わり、人の世の事柄が行き渡った。七十人の弟子たちはその伝える趣旨を口伝えで受けた。風刺・批判・賞賛・遠慮・抑制・削減といった表現には、書物に記して示せないものがあったからである。魯の君子左丘明は、弟子たちが人それぞれ異なる解釈をし、各自の考えに安住して真意を失うことを恐れた。そこで孔子の史記にもとづいて詳しくその言葉を論じ、『左氏春秋』を作った。鐸椒は楚の威王の守り役であったが、王が『春秋』を全部読むことができないため、成功と失敗の事例を抜き出して全四十章とし、『鐸氏微』とした。趙の孝成王の時、宰相の虞卿は、上は『春秋』から採り、下は近年の情勢を観察して、やはり八篇を著し、『虞氏春秋』とした。

解説

「十二諸侯年表」の序文前半です。司馬遷は周の厲王の失政から筆を起こし、王が過ちを聞くのを嫌ったことが、共和の執政と覇者の時代の出発点だったと見ています。続いて孔子が『春秋』を編み、左丘明が『左氏春秋』を著し、さらに鐸椒や虞卿が要約や応用の書を作ったという、春秋学の系譜をたどります。この年表が共和元年から始まるのは、ここから確かな年代が追えるからです。現代への教訓として際立つのは冒頭の一句でしょう。上に立つ者が耳の痛い話を嫌うと、部下は口を閉ざし、やがて組織そのものが崩れます。また、古典を全部読めない王のために要点を抜き出した鐸椒の仕事は、今でいう経営者向けの要約資料にあたり、知識を使える形に届ける工夫の古い例です。

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