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史記 / 三代世表

太史公曰:五帝、三代之記,尚矣。自殷以前諸侯不可得而譜,周以來乃頗可著。孔子因史文次春秋,紀元年,正時日月,蓋其詳哉。至於序尚書則略,無年月;或頗有,然多闕,不可錄。故疑則傳疑,蓋其慎也。余讀諜記,黃帝以來皆有年數。稽其曆譜諜終始五德之傳,古文咸不同,乖異。夫子之弗論次其年月,豈虛哉!於是以五帝繫諜、尚書集世紀黃帝以來訖共和爲世表。從禹至桀十七世,從黃帝至桀二十世。殷湯代夏氏,從黃帝至湯十七世。從湯至紂二十九世,從黃帝至紂四十六世。周武王代殷,從黃帝至武王十九世。張夫子問褚先生曰:「詩言契、后稷皆無父而生。今案諸傳記咸言有父,父皆黃帝子也,得無與詩謬乎?」褚先生曰:「不然。詩言契生於卵,后稷人迹者,欲見其有天命精誠之意耳。鬼神不能自成,須人而生,柰何無父而生乎!一言有父,一言無父,信以傳信,疑以傳疑,故兩言之。堯知契、稷皆賢人,天之所生,故封之契七十里,後十餘世至湯,王天下。堯知后稷子孫之後王也,故益封之百里,其後世且千歲,至文王而有天下。詩傳曰:『湯之先爲契,無父而生。契母與姊妹浴於玄丘水,有燕銜卵墮之,契母得,故含之,誤吞之,卽生契。

新字:太史公曰:五帝、三代之記,尚矣。自殷以前諸侯不可得而譜,周以来乃頗可著。孔子因史文次春秋,紀元年,正時日月,蓋其詳哉。至於序尚書則略,無年月;或頗有,然多闕,不可録。故疑則伝疑,蓋其慎也。余読諜記,黄帝以来皆有年数。稽其暦譜諜終始五徳之伝,古文咸不同,乖異。夫子之弗論次其年月,豈虚哉!於是以五帝繋諜、尚書集世紀黄帝以来訖共和為世表。従禹至桀十七世,従黄帝至桀二十世。殷湯代夏氏,従黄帝至湯十七世。従湯至紂二十九世,従黄帝至紂四十六世。周武王代殷,従黄帝至武王十九世。張夫子問褚先生曰:「詩言契、后稷皆無父而生。今案諸伝記咸言有父,父皆黄帝子也,得無与詩謬乎?」褚先生曰:「不然。詩言契生於卵,后稷人迹者,欲見其有天命精誠之意耳。鬼神不能自成,須人而生,柰何無父而生乎!一言有父,一言無父,信以伝信,疑以伝疑,故両言之。堯知契、稷皆賢人,天之所生,故封之契七十里,後十余世至湯,王天下。堯知后稷子孫之後王也,故益封之百里,其後世且千歳,至文王而有天下。詩伝曰:『湯之先為契,無父而生。契母与姊妹浴於玄丘水,有燕銜卵堕之,契母得,故含之,誤呑之,即生契。

書き下し

太史公曰く、五帝・三代の記は尚し。殷より以前は諸侯得て譜すべからず、周以来は乃ち頗る著すべし。孔子、史文に因りて春秋を次し、元年を紀し、時日月を正す、蓋し其れ詳らかなるかな。尚書を序するに至りては則ち略にして、年月無し。或いは頗る有れども、然れども多く闕けて、録すべからず。故に疑はしきは則ち疑はしきを伝ふ、蓋し其の慎みなり。余、諜記を読むに、黄帝以来皆年数有り。其の暦譜諜の終始五徳の伝を稽ふるに、古文咸同じからず、乖異す。夫子の其の年月を論次せざる、豈に虚ならんや。是に於いて五帝繋諜・尚書を以て世紀の黄帝以来共和に訖るまでを集めて世表を為る。禹より桀に至るまで十七世、黄帝より桀に至るまで二十世。殷湯、夏氏に代はる、黄帝より湯に至るまで十七世。湯より紂に至るまで二十九世、黄帝より紂に至るまで四十六世。周の武王、殷に代はる、黄帝より武王に至るまで十九世。張夫子、褚先生に問ひて曰く、「詩に言ふ、契・后稷は皆父無くして生まると。今諸の伝記を案ずるに咸父有りと言ひ、父は皆黄帝の子なり。詩と謬ること無きを得んや」と。褚先生曰く、「然らず。詩に契は卵に生まれ、后稷は人の迹よりすと言ふは、其の天命精誠の意有るを見さんと欲するのみ。鬼神は自ら成る能はず、人を須ちて生まる、奈何ぞ父無くして生まれんや。一は父有りと言ひ、一は父無しと言ふ、信は以て信を伝へ、疑は以て疑を伝ふ、故に両つながら之を言ふ。堯、契・稷の皆賢人にして天の生む所なるを知る、故に契を七十里に封じ、後十余世にして湯に至り、天下に王たり。堯、后稷の子孫の後に王たるを知るなり、故に益して之を百里に封じ、其の後世且に千歳ならんとして、文王に至りて天下を有つ。詩伝に曰く、『湯の先は契為り、父無くして生まる。契の母、姉妹と玄丘の水に浴す、燕の卵を銜へて之を堕とす有り、契の母得て、故に之を含み、誤りて之を呑み、即ち契を生む。

現代語訳

太史公は言う。五帝と夏・殷・周の三代の記録は、はるかに古い。殷より前は諸侯の系譜を立てることができず、周以降になってようやくかなり書き記せるようになる。孔子は史官の記録にもとづいて『春秋』を編み、各君主の元年を記し、季節・日・月を正した。まことに詳しいものである。ところが『尚書』に序をつけるにあたっては簡略で、年月がない。あるものもあるが欠けているところが多く、記録として採れない。だから疑わしいものは疑わしいまま伝えた。これは孔子の慎重さである。わたしが系譜の記録(諜記)を読むと、黄帝以来すべてに年数がついている。その暦譜や系譜、五徳の循環の説を調べると、古い文献はどれも一致せず、食い違っている。孔子がその年月を順序立てて論じなかったのは、まことに理由のないことではなかったのだ。そこで『五帝繋諜』と『尚書』を用いて、黄帝以来、共和の時代(前841年)までの世代の記録を集め、世表を作った。禹から桀まで十七世、黄帝から桀まで二十世。殷の湯王が夏氏に代わった。黄帝から湯まで十七世。湯から紂まで二十九世、黄帝から紂まで四十六世。周の武王が殷に代わった。黄帝から武王まで十九世である。(以下は褚少孫の補筆)張夫子が褚先生に問うた。「『詩経』は、契(殷の祖)と后稷(周の祖)はどちらも父なしに生まれたと言っている。ところがいま諸々の伝記を調べると、みな父があり、その父はどちらも黄帝の子孫だと言っている。これは『詩経』と食い違ってはいませんか。」褚先生は言った。「そうではない。『詩経』が契は卵から生まれ、后稷は巨人の足跡を踏んで生まれたと言うのは、彼らに天命と精誠が宿っていたことを示したいからにすぎない。鬼神は自分だけで形をなすことはできず、人を待って生まれる。どうして父なしに生まれようか。一方は父があると言い、一方は父がないと言う。確かなことは確かなこととして伝え、疑わしいことは疑わしいこととして伝える。だから両方を記すのだ。堯は契と后稷がどちらも賢人で、天が生んだ者だと知っていた。だから契を七十里の地に封じ、その後十余世を経て湯に至り、天下の王となった。堯は后稷の子孫が後に王となることを知っていた。だからさらに加えて百里の地に封じ、その後千年近くを経て文王に至り天下を得た。『詩伝』にこうある。『湯の祖先は契で、父なしに生まれた。契の母が姉妹と玄丘の水で水浴びをしていると、燕が卵をくわえてきて落とした。契の母がそれを拾い、口に含んだところ誤って呑みこみ、そのまま契を生んだ。

解説

「三代世表」の序文と、その後に付けられた問答の前半です。司馬遷は、殷より前の系譜は確かめようがなく、孔子も『尚書』には年月を付けなかったと述べ、「疑はしきは疑はしきを伝ふ」という孔子の慎重さを自らの方針として掲げています。古い文献の年数が互いに食い違うことを確かめたうえで、あえて年ではなく世代の数で表を作ったのです。後半の張夫子と褚先生の問答は、前漢の褚少孫による補筆です。『詩経』の「父なくして生まれた」という神話と、系譜書の「黄帝の子孫」という記述の矛盾を、どちらも捨てずに併記すると答えています。分からないことを分からないと書く勇気は、報告書や調査にもそのまま通じます。都合よく埋めた数字は、後で必ず信用を損ないます。

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