史記 / 孝武本紀
入壽宮侍祠神語,究觀方士祠官之言,於是退而論次。自古以來用事於鬼神者,具見其表裏。後有君子,得以覽焉。至若俎豆珪幣之詳,獻酬之禮,則有司存焉。
新字:入寿宮侍祠神語,究観方士祠官之言,於是退而論次。自古以来用事於鬼神者,具見其表裏。後有君子,得以覧焉。至若俎豆珪幣之詳,献酬之礼,則有司存焉。
書き下し
寿宮に入りて侍して神語を祠り、方士祠官の言を究観し、是に於て退きて論次す。古より以来鬼神に事を用ゐる者、具に其の表裏を見はす。後に君子有らば、得て以て覧ん。俎豆珪幣の詳、献酬の礼の若きに至りては、則ち有司存す。
現代語訳
(太史公は続けて言う。)私は寿宮に入って神のお告げの祭祀に侍り、方士や祭祀の役人たちの言うことをつぶさに観察した。そこで退いてから、これを順序立てて論じ記した。昔から鬼神を祀ることに携わってきた者たちの、表と裏とを詳しく示したつもりである。後世の君子がこれを読んでくれればよい。祭器や供え物の玉・絹の細かなこと、酒をささげる礼の作法などについては、担当の役人の記録が残っている。
解説
孝武本紀の結びとなる司馬遷の評です。司馬遷は、寿宮で神のお告げを祀る場に侍り、方士や祭祀の役人の言葉をつぶさに見たうえで、それを順序立てて記したと述べます。そして「鬼神に事を用ゐる者、具に其の表裏を見はす」、つまり鬼神の祭祀に携わる人々の表の顔と裏の実態をともに書いたのだと言い、後世の君子の判断に委ねました。祭器や作法の細部は役人の記録に任せ、自分が書くべきはその裏にある人間の姿だという立場です。この巻は、武帝の不老不死への執着と、それにつけ込む方士たちの姿を、当事者として見た歴史家が記録したものと読むことができます。権力の中枢にいる者の過ちを、直接批判するのではなく、事実を積み重ねて後世に判断を委ねるという書き方に、司馬遷の歴史家としての覚悟がうかがえます。
関連する章句
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史記 孝武本紀而して公孫卿の神を候ふ者は、猶ほ大人の跡を以て解と為し、其の効無し。天子益々方士の怪迂の語に怠厭す、然れども終に羈縻して絶たず、其の真に遇はんことを冀ふ。此より後、方士の神を祠ることを言ふ者弥々衆し、然れども其の効睹るべし。太史公曰く、余巡りて天地諸神名山川を祭りて封禅するに従ふ。
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史記 太史公自序且つ士賢能にして用ひられざるは、国を有つ者の恥なり。主上明聖にして徳布聞せざるは、有司の過ちなり。且つ余嘗て其の官を掌る。明聖盛徳を廃して載せず、功臣世家賢大夫の業を滅して述べず、先人の言ふ所を墮とさば、罪焉より大なるは莫し。余の所謂故事を述べ、其の世伝を整斉するは、所謂作るに非ざるなり。而るに君之を春秋に比するは、謬りなり」と。是に於いて其の文を論次す。
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史記 封禅書石閭とは、泰山の下の阯の南方に在り。方士多く此れ僊人の閭なりと言ふ、故に上親ら禅す。其の後五年、復た泰山に至りて封を修む。還りて過ぎて恒山を祭る。今の天子の興す所の祠は、太一・后土、三年に親ら郊祠し、漢家の封禅を建て、五年に一たび封を修む。薄忌の太一及び三一・冥羊・馬行・赤星の五つは、寛舒の祠官、歳時を以て礼を致す。凡そ六祠、皆太祝之を領す。八神の諸神、明年・凡山の他の名祠の如きに至りては、行きて過ぐれば則ち祠り、行きて去れば則ち已む。方士の興す所の祠は、各々自ら主り、其の人終れば則ち已み、祠官は主らず。他の祠は皆其の故の如し。今上封禅して、其の後十二歳にして還り、五岳・四瀆に遍し。而して方士の神人を候祠し、海に入りて蓬萊を求むるも、終に験有る無し。而して公孫卿の神を候ふ者は、猶ほ大人の跡を以て解と為し、効有る無し。天子益々方士の怪迂の語に怠厭す。然れども羈縻して絶たず、其の真に遇はんことを冀ふ。此より後、方士の神祠を言ふ者弥々衆く、然れども其の効は睹る可し。太史公曰く、余、巡りて天地の諸神・名山川を祭りて封禅するに従ふ。寿宮に入りて神語に侍祠し、方士・祠官の意を究観す。是に於て退きて古より以来鬼神に事を用ふる者を論次し、具さに其の表裏を見はす。後に君子有らば、得て以て覧ん。俎豆・珪幣の詳、献酬の礼の若きに至りては、則ち有司存す。
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史記 孝武本紀孝武皇帝は、孝景の中子なり。母を王太后と曰ふ。孝景の四年、皇子を以て膠東王と為る。孝景の七年、栗太子廃せられて臨江王と為り、膠東王を以て太子と為す。孝景十六年にして崩じ、太子即位して、孝武皇帝と為る。孝武皇帝初めて即位し、尤も鬼神の祀を敬ふ。漢興りて已に六十余歳なり、天下乂安し、薦紳の属皆天子の封禅して正度を改めんことを望む。而して上儒術に郷ひ、賢良を招く、趙綰・王臧等文学を以て公卿と為り、古を議して明堂を城南に立て、以て諸侯を朝せしめんと欲す。巡狩封禅改暦服色の事を草して未だ就らず。会々竇太后黄老の言を治め、儒術を好まず、人をして微かに趙綰等の姦利の事を得しめ、綰・臧を召案す、綰・臧自殺し、諸々の興し為す所の者皆廃す。竇太后崩ず。其の明年、上文学の士公孫弘等を徴す。上初めて雍に至り、五畤に郊見す。後常に三歳に一たび郊す。是の時上神君を求め、之を上林の中の蹄氏観に舎す。神君は、長陵の女子なり、子の死せしを以て悲哀し、故に神を先後の宛若に見はす。宛若之を其の室に祠る、民多く往きて祠る。平原君往きて祠る、其の後子孫以て尊顕す。武帝の即位するに及び、則ち厚礼して之を内中に置きて祠る、其の言を聞くも、其の人を見ずと云ふ。是の時にして李少君も亦祠竈・穀道・卻老の方を以て上に見ゆ、上之を尊ぶ。少君は、故の深沢侯の入れて以て方を主らしむるものなり。其の年及び生長する所を匿し、常に自ら七十と謂ひ、能く物を使ひ、老を卻くと。其の游ぶに方を以て遍く諸侯にす。妻子無し。人其の能く物を使ひ及び死せざるを聞き、更々之に饋遺す、常に金銭帛衣食を余す。人皆以為へらく産業を治めずして饒給すと、又其の何所の人なるかを知らず、愈々信じ、争ひて之に事ふ。少君資(もと)より方を好み、善く巧発奇中を為す。
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史記 太史公自序太史公曰く、「先人言へる有り、『周公卒してより五百歳にして孔子有り、孔子卒して後今に至るまで五百歳、能く明世を紹ぎ、易伝を正し、春秋を継ぎ、詩書礼楽の際に本づく者有らんか』と。意斯に在るか、意斯に在るか。小子何ぞ敢へて譲らんや」と。
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