史記 / 孝武本紀
卿曰:「僊者非有求人主,人主求之。其道非少寬假,神不來。言神事,事如迂誕,積以歲乃可致。」於是郡國各除道,繕治宮觀名山神祠所,以望幸矣。其年,既滅南越,上有嬖臣李延年以好音見。上善之,下公卿議,曰:「民閒祠尚有鼓舞之樂,今郊祠而無樂,豈稱乎?」公卿曰:「古者祀天地皆有樂,而神祇可得而禮。」或曰:「泰帝使素女鼓五十弦瑟,悲,帝禁不止,故破其瑟為二十五弦。」於是塞南越,禱祠泰一、后土,始用樂舞,益召歌兒,作二十五弦及箜篌瑟自此起。其來年冬,上議曰:「古者先振兵澤旅,然後封禪。」乃遂北巡朔方,勒兵十餘萬,還祭黃帝冢橋山,澤兵須如。上曰:「吾聞黃帝不死,今有冢,何也?」或對曰:「黃帝已僊上天,群臣葬其衣冠。」即至甘泉,為且用事泰山,先類祠泰一。自得寶鼎,上與公卿諸生議封禪。封禪用希曠絕,莫知其儀禮,而群儒采封禪尚書、周官、王制之望祀射牛事。齊人丁公年九十餘,曰:「封者,合不死之名也。秦皇帝不得上封。陛下必欲上,稍上即無風雨,遂上封矣。」上於是乃令諸儒習射牛,草封禪儀。數年,至且行。
新字:卿曰:「僊者非有求人主,人主求之。其道非少寛仮,神不来。言神事,事如迂誕,積以歳乃可致。」於是郡国各除道,繕治宮観名山神祠所,以望幸矣。其年,既滅南越,上有嬖臣李延年以好音見。上善之,下公卿議,曰:「民閒祠尚有鼓舞之楽,今郊祠而無楽,豈称乎?」公卿曰:「古者祀天地皆有楽,而神祇可得而礼。」或曰:「泰帝使素女鼓五十弦瑟,悲,帝禁不止,故破其瑟為二十五弦。」於是塞南越,祷祠泰一、后土,始用楽舞,益召歌児,作二十五弦及箜篌瑟自此起。其来年冬,上議曰:「古者先振兵沢旅,然後封禅。」乃遂北巡朔方,勒兵十余万,還祭黄帝冢橋山,沢兵須如。上曰:「吾聞黄帝不死,今有冢,何也?」或対曰:「黄帝已僊上天,群臣葬其衣冠。」即至甘泉,為且用事泰山,先類祠泰一。自得宝鼎,上与公卿諸生議封禅。封禅用希曠絶,莫知其儀礼,而群儒采封禅尚書、周官、王制之望祀射牛事。斉人丁公年九十余,曰:「封者,合不死之名也。秦皇帝不得上封。陛下必欲上,稍上即無風雨,遂上封矣。」上於是乃令諸儒習射牛,草封禅儀。数年,至且行。
書き下し
卿曰く、「僊者は人主に求むること有るに非ず、人主之を求む。其の道少しく寛仮するに非ずんば、神来たらず。神の事を言ふに、事迂誕なるが如し、積むに歳を以てすれば乃ち致すべし。」と。是に於て郡国各々道を除し、宮観名山神祠の所を繕治し、以て幸を望む。其の年、既に南越を滅ぼし、上に嬖臣李延年有り好音を以て見ゆ。上之を善しとし、公卿に下して議せしめて、曰く、「民間の祠すら尚ほ鼓舞の楽有り、今郊祠して楽無し、豈に称はんや。」と。公卿曰く、「古者天地を祀るに皆楽有り、而して神祇得て礼すべし。」と。或るひと曰く、「泰帝素女をして五十弦の瑟を鼓せしむ、悲し、帝禁ずるも止まず、故に其の瑟を破りて二十五弦と為す。」と。是に於て南越を塞(かへりまう)し、泰一・后土に禱祠し、始めて楽舞を用ゐ、益々歌児を召し、二十五弦及び箜篌瑟を作ること此より起こる。其の来年冬、上議して曰く、「古者先づ兵を振ひ旅を沢(と)き、然る後に封禅す。」と。乃ち遂に北のかた朔方を巡り、兵十余万を勒し、還りて黄帝の冢を橋山に祭り、兵を須如に沢く。上曰く、「吾聞く黄帝は死せずと、今冢有るは、何ぞや。」と。或るひと対へて曰く、「黄帝已に僊して天に上る、群臣其の衣冠を葬る。」と。即ち甘泉に至り、且に事を泰山に用ゐんとするが為に、先づ泰一を類祠す。宝鼎を得てより、上公卿諸生と封禅を議す。封禅用ゐること希曠にして絶え、其の儀礼を知る莫し、而して群儒封禅・尚書・周官・王制の望祀射牛の事を采る。斉人丁公年九十余、曰く、「封は、不死の名に合ふ。秦の皇帝上りて封ずるを得ず。陛下必ず上らんと欲せば、稍く上れば即ち風雨無く、遂に上りて封ぜん。」と。上是に於て乃ち諸儒をして射牛を習はしめ、封禅の儀を草せしむ。数年にして、且に行はんとするに至る。
現代語訳
公孫卿は言った。「仙人は君主に何かを求めているのではなく、君主のほうが仙人を求めているのだ。その道は少しゆとりを持って待たなければ、神は来ない。神のことを言えば、話はまわりくどく、でたらめのように聞こえるが、年月を重ねれば招き寄せることができる」。そこで郡や国はそれぞれ道を整え、宮殿や高楼、名山の神の祠を修理して、天子の行幸を待ち望んだ。その年、南越を滅ぼした。主上には寵臣の李延年がいて、音楽の才能で気に入られていた。主上は李延年の音楽をよしとし、大臣たちに議論させて言った。「民間の祭りでさえ太鼓や舞の音楽があるのに、いま郊祀に音楽がないのは、ふさわしいだろうか」。大臣たちは言った。「昔は天地を祀るのに皆音楽があり、それによって天地の神々を礼をもって迎えることができた」。ある者は言った。「泰帝は素女に五十弦の瑟(おおごと)を弾かせたが、音があまりに悲しく、帝が止めさせようとしても止まなかったので、その瑟を割って二十五弦にした」。そこで南越を平定したお礼の祭りを行い、泰一と后土に祈りを捧げ、初めて音楽と舞を用い、さらに歌い手の子どもを召し集めた。二十五弦の瑟や箜篌(くご、竪琴の一種)の瑟を作ることは、ここから始まった。その翌年の冬、主上は議して言った。「昔はまず兵を奮い立たせて軍を解散し、そのうえで封禅を行った」。そこでついに北の朔方を巡行し、兵十余万を整列させて閲兵し、帰りに橋山で黄帝の墓を祀り、須如で兵を解散した。主上は言った。「黄帝は死ななかったと聞いているのに、いま墓があるのはなぜか」。ある者が答えた。「黄帝はすでに仙人となって天に昇ったので、群臣がその衣服と冠を葬ったのだ」。そこで甘泉宮に着くと、泰山で封禅を行おうとして、まず泰一に祈りを捧げる類祭を行った。宝鼎を得てから、主上は大臣や儒者たちと封禅について議論した。しかし封禅はめったに行われず長く途絶えていたので、誰もその儀礼を知らず、儒者たちは封禅書・尚書・周官・王制などから、山川を望み祀る儀礼や、天子自ら牛を射る儀式などを拾い集めた。斉の人丁公は九十余歳で、こう言った。「封とは、不死という名にかなうものだ。秦の始皇帝は泰山に登って封を行うことができなかった。陛下がどうしても登りたいとお考えなら、少しずつ登っていけば風雨もなく、ついに登って封を行えるだろう」。主上はそこで儒者たちに牛を射る儀式を習わせ、封禅の儀礼の案を作らせた。数年して、いよいよ実行しようとするところまで来た。
解説
関連する章句
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史記 封禅書公卿言ふ、「皇帝始めて太一を雲陽に郊見し、有司、瑄玉・嘉牲を奉じて薦饗す。是の夜美光有り、昼に及びて黄気上りて天に属す」と。太史公・祠官寛舒等曰く、「神霊の休、祐福の兆祥なり。宜しく此の地の光域に因りて太畤の壇を立てて以て応を明らかにすべし。太祝をして領せしめ、秋及び臘の間に祠り、三歳に天子一たび郊見せん」と。其の秋、南越を伐たんが為に、太一に告禱す。牡荊を以て幡に日月・北斗・登龍を画き、以て太一三星に象り、太一の鋒と為し、命じて「霊旗」と曰ふ。兵の為に禱れば、則ち太史奉じて以て伐つ所の国を指す。而して五利将軍の使、敢て海に入らず、泰山に之きて祠る。上、人をして随ひて験せしむるに、実に見る所毋し。五利妄りに其の師を見ると言ひ、其の方尽きて、多く讎はず。上乃ち五利を誅す。其の冬、公孫卿、神を河南に候ひ、僊人の跡を緱氏の城上に見、物有りて雉の如く、城上を往来すと言ふ。天子親ら緱氏城に幸して跡を視る。卿に問ふ、「文成・五利に効ふこと毋きを得んや」と。卿曰く、「僊者は人主に求むること有るに非ず、人主の者之を求む。其の道は少しく寛仮するに非ざれば、神来らず。神事を言ふは、事迂誕なるが如きも、積むに歳を以てすれば乃ち致す可きなり」と。是に於て郡国各々道を除き、宮観・名山の神祠の所を繕治し、以て幸を望む。其の春、既に南越を滅す。上に嬖臣李延年有り、好音を以て見ゆ。上之を善しとし、公卿に下して議せしめて曰く、「民間の祠すら尚ほ鼓舞の楽有り。今郊祀して楽無きは、豈に称はんや」と。公卿曰く、「古は天地を祠るに皆楽有りて、神祇得て礼す可し」と。或ひと曰く、「太帝、素女をして五十弦の瑟を鼓せしむ。悲しくして、帝禁ずるも止まず。故に其の瑟を破りて二十五弦と為す」と。是に於て南越を塞して、太一・后土に禱祠し、始めて楽舞を用ひ、益々歌児を召し、二十五弦及び空侯の琴瑟を作ること此より起る。
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史記 封禅書其の来年冬、上議して曰く、「古は先づ兵を振ひ旅を沢し、然る後に封禅す」と。乃ち遂に北のかた朔方を巡り、兵十余万を勒し、還りて黄帝の冢を橋山に祭り、兵を須如に釈く。上曰く、「吾聞く、黄帝は死せずと。今冢有るは、何ぞや」と。或ひと対へて曰く、「黄帝已に僊して天に上り、群臣其の衣冠を葬る」と。既に甘泉に至り、且に泰山に事を用ひんとするが為に、先づ太一に類祠す。宝鼎を得しより、上、公卿諸生と封禅を議す。封禅は用ふること希にして曠絶し、其の儀礼を知る莫し。而して群儒、封禅・尚書・周官・王制の望祀・射牛の事を采る。斉人丁公、年九十余、曰く、「封禅とは、不死の名に合するなり。秦の皇帝は上りて封ずるを得ず。陛下必ず上らんと欲せば、稍く上れば即ち風雨無く、遂に上りて封ぜん」と。上是に於て乃ち諸儒をして射牛を習はしめ、封禅の儀を草せしむ。数年にして、且に行はんとするに至る。天子既に公孫卿及び方士の言を聞くに、黄帝以上の封禅は、皆怪物を致して神と通ず。黄帝以上に放ひて神僊人・蓬萊の士に接し、世に高くして徳を九皇に比せんと欲し、而して頗る儒術を采りて以て之を文る。群儒既已に封禅の事を辨明する能はず、又詩書の古文に牽拘せられて騁する能はず。上、封禅の祠器を為りて群儒に示す。群儒或いは曰く「古と同じからず」と。徐偃又曰く「太常の諸生の礼を行ふは魯の善きに如かず」と。周霸、属りて封禅の事を図る。是に於て上、偃・霸を絀け、而して尽く諸儒を罷めて用ひず。三月、遂に東のかた緱氏に幸し、中岳の太室に礼登す。従官山下に在りて、「万歳」と言ふ有るが若きを聞くと云ふ。上に問へば、上は言はず。下に問へば、下は言はず。是に於て三百戸を以て太室の奉祠に封じ、命じて崇高邑と曰ふ。東のかた泰山に上る。泰山の草木、葉未だ生ぜず。乃ち人をして石を上げて之を泰山の巓に立てしむ。上遂に東のかた海上を巡り、八神を礼祠す。
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史記 孝武本紀天子既に公孫卿及び方士の言を聞く、黄帝以上の封禅するものは、皆怪物を致して神と通ずと、黄帝に放ひて以て嘗て神僊人蓬萊の士に接し、世に高く徳を九皇に比せんと欲し、而して頗る儒術を采りて以て之を文る。群儒既に以て封禅の事を辯明する能はず、又詩書古文に牽拘して敢へて騁せず。上封祠の器を為りて群儒に示す、群儒或いは曰く「古と同じからず」と、徐偃又曰く「太常の諸生の礼を行ふこと魯の善きに如かず」と、周霸属して封事を図る、是に於て上偃・霸を絀け、尽く諸儒を罷めて用ゐず。三月、遂に東のかた緱氏に幸し、礼して中嶽太室に登る。従官山下に在りて聞く言有るが若し「万歳」と云ふ。上に問ふに、上言はず。下に問ふに、下言はず。是に於て三百戸を以て太室を封じて祠を奉ぜしめ、命じて崇高邑と曰ふ。東のかた泰山に上る、山の草木の葉未だ生ぜず、乃ち人をして石を上らせて之を泰山の顛に立てしむ。上遂に東のかた海上を巡り、礼を行ひて八神を祠る。斉人の上疏して神怪奇方を言ふ者万を以て数ふ、然れども験有る者無し。乃ち益々船を発し、海中の神山を言ふ者数千人をして蓬萊の神人を求めしむ。公孫卿節を持して常に先行して名山を候ふ、東萊に至り、言ふ夜一人を見る、長数丈、之に就けば則ち見えず、其の跡の甚だ大なるを見る、禽獣に類すと云ふ。群臣に言ふ有り一老父の狗を牽くを見る、言ふ「吾巨公に見えんと欲す」と、已にして忽ち見えずと。上既に大跡を見るも、未だ信ぜず、群臣に老父を言ふ有るに及び、則ち大いに以て僊人と為すなり。海上に宿留し、方士に伝車を与へ及び間使して僊人を求むるもの千を以て数ふ。四月、還りて奉高に至る。上諸儒及び方士の封禅を言ふこと人人殊にして、経ならず、施行し難きを念ふ。天子梁父に至り、地主を礼祠す。乙卯、侍中の儒者をして皮弁薦紳して、牛を射て事を行はしむ。泰山の下の東方に封ずること、郊して泰一を祠るの礼の如くす。
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史記 孝武本紀其の明年、有司言ふ雍の五畤に牢熟の具無く、芬芳備はらずと。乃ち祠官に命じて畤に犢牢の具を進め、五色の食の勝つ所をもてし、而して木耦馬を以て駒に代ふ。独り五帝のみ駒を用ゐ、行きて親ら郊するときは駒を用ゐる。及び諸々の名山川の駒を用ゐる者は、悉く木耦馬を以て代ふ。行きて過ぐれば、乃ち駒を用ゐる。他の礼は故の如し。其の明年、東のかた海上を巡り、神僊の属を考ふるに、未だ験有る者有らず。方士言ふ有り「黄帝の時五城十二楼を為りて、以て神人を執期に候ひ、命じて迎年と曰ふ」と。上之を作ることを方の如く許し、名づけて明年と曰ふ。上親ら上帝を礼祠し、衣は黄を上ぶ。公玊帯曰く、「黄帝の時泰山に封ずと雖も、然れども風后・封鉅・岐伯黄帝をして東泰山に封じ、凡山に禅して符を合はせしめ、然る後に死せず。」と。天子既に祠具を設けしめ、東泰山に至る、東泰山は卑小にして、其の声に称はず、乃ち祠官をして之を礼せしめ、而して封禅せず。其の後帯をして祠を奉じて神物を候はしむ。夏、遂に泰山に還り、五年の礼を修むること前の如くし、而して石閭に禅祠することを加ふ。石閭は、泰山の下阯の南方に在り、方士多く言ふ此れ僊人の閭なりと、故に上親ら禅す。其の後五年、復た泰山に至りて封を修め、還りて過ぎて常山を祭る。今天子の興す所の祠は、泰一・后土、三年に親ら郊祠し、漢家の封禅を建て、五年に一たび封を修む。薄忌の泰一及び三一・冥羊・馬行・赤星、五つ、寛舒の祠官歳時を以て礼を致す。凡そ六祠、皆太祝之を領す。八神の諸神、明年・凡山の他の名祠の如きに至りては、行きて過ぐれば則ち祀り、去れば則ち已む。方士の興す所の祠は、各々自ら主り、其の人終はれば則ち已む、祠官主らず。他の祠は皆其の故の如し。今上封禅して、其の後十二歳にして還り、五嶽・四瀆に徧し。而して方士の神人を候祠し、海に入りて蓬萊を求むるは、終に験有る無し。
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史記 封禅書斉人の上疏して神怪・奇方を言ふ者、万を以て数ふ。然れども験有る者無し。乃ち益々船を発し、海中の神山を言ふ者数千人をして蓬萊の神人を求めしむ。公孫卿、節を持して常に先行して名山を候ひ、東萊に至り、夜大人を見る、長さ数丈、之に就けば則ち見えず、其の跡を見るに甚だ大にして、禽獣に類すと言ふ。群臣に一老父の狗を牽くを見、「吾巨公に見えんと欲す」と言ひ、已にして忽ち見えずと言ふ者有り。上即ち大跡を見るも未だ信ぜず。群臣に老父を言ふ者有るに及び、則ち大いに以て僊人と為す。海上に宿留し、方士に伝車を予へ、及び間使の僊人を求むるもの千を以て数ふ。四月、還りて奉高に至る。上、諸儒及び方士の封禅を言ふこと人人殊にして、経ならず、施行し難きを念ふ。天子梁父に至り、地主を礼祠す。乙卯、侍中の儒者をして皮弁・薦紳せしめ、牛を射て事を行ふ。泰山の下の東方に封ずること、太一を郊祠するの礼の如し。封は広さ丈二尺、高さ九尺、其の下には則ち玉牒書有り、書は秘す。礼畢り、天子独り侍中・奉車の子侯と泰山に上り、亦封有り。其の事皆禁ず。明日、陰道より下る。丙辰、泰山の下阯の東北の粛然山に禅すること、后土を祭るの礼の如し。天子皆親ら拝見し、衣は黄を上びて尽く楽を用ふ。江淮の間の一茅三脊を神藉と為す。五色の土を益々雑へて封ず。遠方の奇獣・蜚禽及び白雉の諸物を縦ち、頗る以て礼を加ふ。兕牛・犀象の属は用ひず。皆泰山に至りて后土を祭る。封禅して祠る。其の夜光有るが若く、昼は白雲の封中より起る有り。天子禅より還り、明堂に坐し、群臣更々寿を上る。是に於て御史に制詔すらく、「朕、眇眇の身を以て至尊を承け、兢兢焉として任へざるを懼る。維れ徳菲薄にして、礼楽に明らかならず。
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史記 孝武本紀封は広さ丈二尺、高さ九尺、其の下には則ち玉牒の書有り、書は秘す。礼畢り、天子独り侍中奉車の子侯と泰山に上り、亦封有り。其の事皆禁ず。明日、陰道を下る。丙辰、泰山の下阯の東北の粛然山に禅すること、后土を祭るの礼の如くす。天子皆親ら拝見し、衣は黄を上びて尽く楽を用ゐる。江淮の間の一茅三脊を神藉と為す。五色の土をもて益々雑へて封ず。遠方の奇獣蜚禽及び白雉の諸物を縦ち、頗る以て祠に加ふ。兕旄牛犀象の属は用ゐず。皆泰山に至りて然る後に去る。封禅の祠、其の夜光有るが若く、昼白雲の封中より起こる有り。天子封禅より還り、明堂に坐す、群臣更々寿を上る。是に於て御史に制詔すらく、「朕眇眇の身を以て至尊を承け、兢兢焉として任へざらんことを懼る。維れ徳菲薄にして、礼楽に明らかならず。泰一を修祀するに、象景光有るが若く、屑として望む有るが如し、依依として怪物に震へ、止まらんと欲するも敢へてせず、遂に登りて泰山に封じ、梁父に至り、而る後に粛然に禅す。自ら新たにし、嘉して士大夫と与に更始す、民に百戸ごとに牛一酒十石を賜ひ、年八十の孤寡に布帛二匹を加ふ。博・奉高・蛇丘・歴城を復し、今年の租税を出だす毋からしめよ。其れ天下に赦すこと、乙卯の赦令の如くせよ。行きて過ぐる所復作有る毋かれ。事二年の前に在るものは、皆聴治する勿かれ。」と。又詔を下して曰く、「古者天子五載に一たび巡狩し、事を泰山に用ゐ、諸侯朝宿の地有り。其れ諸侯をして各々邸を泰山の下に治めしめよ。」と。天子既已に泰山に封禅し、風雨の菑無し、而して方士更に言ふ蓬萊の諸神山将に得べきが若しと、是に於て上欣然として庶幾くは之に遇はんとし、乃ち復た東のかた海上に至りて望み、蓬萊に遇はんことを冀ふ。奉車の子侯暴かに病み、一日にして死す。上乃ち遂に去り、海上に并ひて、北のかた碣石に至り、遼西より巡り、北辺を歴て九原に至る。
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