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史記 / 孝武本紀

天子既聞公孫卿及方士之言,黃帝以上封禪,皆致怪物與神通,欲放黃帝以嘗接神僊人蓬萊士,高世比德於九皇,而頗采儒術以文之。群儒既以不能辯明封禪事,又牽拘於詩書古文而不敢騁。上為封祠器示群儒,群儒或曰「不與古同」,徐偃又曰「太常諸生行禮不如魯善」,周霸屬圖封事,於是上絀偃、霸,盡罷諸儒弗用。三月,遂東幸緱氏,禮登中嶽太室。從官在山下聞若有言「萬歲」云。問上,上不言;問下,下不言。於是以三百戶封太室奉祠,命曰崇高邑。東上泰山,山之草木葉未生,乃令人上石立之泰山顛。上遂東巡海上,行禮祠八神。齊人之上疏言神怪奇方者以萬數,然無驗者。乃益發船,令言海中神山者數千人求蓬萊神人。公孫卿持節常先行候名山,至東萊,言夜見一人,長數丈,就之則不見,見其跡甚大,類禽獸云。群臣有言見一老父牽狗,言「吾欲見巨公」,已忽不見。上既見大跡,未信,及群臣有言老父,則大以為僊人也。宿留海上,與方士傳車及閒使求僊人以千數。四月,還至奉高。上念諸儒及方士言封禪人人殊,不經,難施行。天子至梁父,禮祠地主。乙卯,令侍中儒者皮弁薦紳,射牛行事。封泰山下東方,如郊祠泰一之禮。

新字:天子既聞公孫卿及方士之言,黄帝以上封禅,皆致怪物与神通,欲放黄帝以嘗接神僊人蓬萊士,高世比徳於九皇,而頗采儒術以文之。群儒既以不能弁明封禅事,又牽拘於詩書古文而不敢騁。上為封祠器示群儒,群儒或曰「不与古同」,徐偃又曰「太常諸生行礼不如魯善」,周覇属図封事,於是上絀偃、覇,尽罷諸儒弗用。三月,遂東幸緱氏,礼登中嶽太室。従官在山下聞若有言「万歳」云。問上,上不言;問下,下不言。於是以三百戸封太室奉祠,命曰崇高邑。東上泰山,山之草木葉未生,乃令人上石立之泰山顛。上遂東巡海上,行礼祠八神。斉人之上疏言神怪奇方者以万数,然無験者。乃益発船,令言海中神山者数千人求蓬萊神人。公孫卿持節常先行候名山,至東萊,言夜見一人,長数丈,就之則不見,見其跡甚大,類禽獣云。群臣有言見一老父牽狗,言「吾欲見巨公」,已忽不見。上既見大跡,未信,及群臣有言老父,則大以為僊人也。宿留海上,与方士伝車及閒使求僊人以千数。四月,還至奉高。上念諸儒及方士言封禅人人殊,不経,難施行。天子至梁父,礼祠地主。乙卯,令侍中儒者皮弁薦紳,射牛行事。封泰山下東方,如郊祠泰一之礼。

書き下し

天子既に公孫卿及び方士の言を聞く、黄帝以上の封禅するものは、皆怪物を致して神と通ずと、黄帝に放ひて以て嘗て神僊人蓬萊の士に接し、世に高く徳を九皇に比せんと欲し、而して頗る儒術を采りて以て之を文る。群儒既に以て封禅の事を辯明する能はず、又詩書古文に牽拘して敢へて騁せず。上封祠の器を為りて群儒に示す、群儒或いは曰く「古と同じからず」と、徐偃又曰く「太常の諸生の礼を行ふこと魯の善きに如かず」と、周霸属して封事を図る、是に於て上偃・霸を絀け、尽く諸儒を罷めて用ゐず。三月、遂に東のかた緱氏に幸し、礼して中嶽太室に登る。従官山下に在りて聞く言有るが若し「万歳」と云ふ。上に問ふに、上言はず。下に問ふに、下言はず。是に於て三百戸を以て太室を封じて祠を奉ぜしめ、命じて崇高邑と曰ふ。東のかた泰山に上る、山の草木の葉未だ生ぜず、乃ち人をして石を上らせて之を泰山の顛に立てしむ。上遂に東のかた海上を巡り、礼を行ひて八神を祠る。斉人の上疏して神怪奇方を言ふ者万を以て数ふ、然れども験有る者無し。乃ち益々船を発し、海中の神山を言ふ者数千人をして蓬萊の神人を求めしむ。公孫卿節を持して常に先行して名山を候ふ、東萊に至り、言ふ夜一人を見る、長数丈、之に就けば則ち見えず、其の跡の甚だ大なるを見る、禽獣に類すと云ふ。群臣に言ふ有り一老父の狗を牽くを見る、言ふ「吾巨公に見えんと欲す」と、已にして忽ち見えずと。上既に大跡を見るも、未だ信ぜず、群臣に老父を言ふ有るに及び、則ち大いに以て僊人と為すなり。海上に宿留し、方士に伝車を与へ及び間使して僊人を求むるもの千を以て数ふ。四月、還りて奉高に至る。上諸儒及び方士の封禅を言ふこと人人殊にして、経ならず、施行し難きを念ふ。天子梁父に至り、地主を礼祠す。乙卯、侍中の儒者をして皮弁薦紳して、牛を射て事を行はしむ。泰山の下の東方に封ずること、郊して泰一を祠るの礼の如くす。

現代語訳

天子は公孫卿や方士たちの言葉を聞き、黄帝やそれ以前に封禅を行った者は、皆不思議な物を招き寄せて神と通じたのだと知ると、黄帝にならって神仙や蓬萊の仙人たちと交わり、世に抜きん出て、その徳を古の九皇に並べようと望み、そのうえで儒学をかなり取り入れて飾り立てようとした。儒者たちは封禅のことをはっきり説明できず、また詩経や書経などの古い文献に縛られて、自由に論じようとしなかった。主上が封禅に用いる祭器を作って儒者たちに見せると、ある儒者は「古の制度と同じではない」と言い、徐偃はまた「太常の儒生たちの礼の行い方は、魯のすぐれたやり方に及ばない」と言い、周霸も集まって封禅のことを計画したが、主上は徐偃と周霸を退け、儒者たちを皆やめさせて用いなかった。三月、ついに東の緱氏に出かけ、礼を行って中嶽の太室山に登った。山のふもとにいた従者たちは、何か「万歳」と言う声が聞こえたような気がしたという。山の上にいた者に尋ねても何も言わず、ふもとの者に尋ねても何も言わなかった。そこで三百戸を太室山に封じて祭祀を担わせ、崇高邑と名づけた。東へ向かって泰山に登ったが、山の草木はまだ葉が出ていなかったので、人に石を運び上げさせて泰山の頂上に立てさせた。主上はそのまま東の海辺を巡り、礼を行って八神を祀った。斉の人で上書して神怪や不思議な方術を説く者は一万を数えたが、効き目のあった者はいなかった。そこでさらに船を出し、海中の神山のことを語る者数千人に蓬萊の神人を探させた。公孫卿は符節を持って常に先回りして名山で神の現れるのを待ち、東萊に着くと、夜に身の丈数丈(十メートル近く)の人を見たが、近づくと見えなくなり、たいへん大きな足跡を見たが、鳥や獣の足跡に似ていたと言った。群臣の中にも、一人の老人が犬を引いて「私は巨公(天子)に会いたい」と言ったが、たちまち見えなくなったと言う者がいた。主上は大きな足跡を見てもまだ信じなかったが、群臣が老人のことを言うに及んで、それこそ仙人だと大いに信じた。海辺にとどまり、方士たちに駅伝の車を与え、ひそかに使者を出して、仙人を探させた者は千を数えた。四月、帰途について奉高に至った。主上は、儒者や方士たちの封禅についての説が人ごとに異なり、根拠のある典籍に基づかず、実行しにくいことを考えた。天子は梁父山に至り、地主の神を礼をもって祀った。乙卯の日、侍中の儒者たちに皮の冠をかぶらせ、笏を帯に差させて、天子自ら牛を射る儀式を行った。泰山のふもとの東方で封の祭りを行い、その礼は郊祀で泰一を祀る礼と同じにした。

解説

武帝が儒者を退け、ついに泰山に向かう段です。武帝は黄帝にならって神仙と交わり、自らの徳を古の九皇に比べたいと望み、儒学はそれを飾るための道具として使おうとしました。しかし儒者たちは古い文献にこだわって「古と同じではない」と異を唱えるばかりで、武帝は彼らを皆退けてしまいます。耳の痛い専門家を外し、心地よい話をする方士を残したのです。太室山では「万歳」の声が聞こえた気がしたと言われ、公孫卿は巨人の足跡を見たと言い、群臣も犬を引いた老人を見たと言いました。武帝は足跡だけでは信じなかったのに、複数の人が口をそろえると信じ込みます。実体のない噂でも、多くの人が同じことを言うと真実に見えてしまうのです。数千人を海に出して蓬萊を探させるという大規模な試みも、効果はありませんでした。

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