史記 / 孝景本紀
太子即位,是為孝武皇帝。三月,封皇太后弟蚡為武安侯,弟勝為周陽侯。置陽陵。
書き下し
太子即位す、是を孝武皇帝と為す。三月、皇太后の弟蚡を封じて武安侯と為し、弟勝を周陽侯と為す。陽陵を置く。
現代語訳
(景帝が崩御すると)太子が即位した。これが孝武皇帝である。三月、皇太后(王太后)の弟の田蚡を武安侯に、弟の田勝を周陽侯に封じた。陽陵に県を置いた。
解説
景帝の崩御を受け、太子劉徹が即位して武帝となった場面です。景帝の死そのものは直前の段に記されており、ここでは新帝の即位とその最初の人事が簡潔に書かれています。注目したいのは、即位してすぐに母王太后の弟である田蚡と田勝を侯に封じたことです。田蚡はこの後、丞相となって権勢をふるい、竇嬰や灌夫と争って彼らを死に追いやったことが、魏其武安侯列伝に詳しく描かれています。新しい皇帝の外戚が一気に力を持つという構図は、呂后の時代にも見られたものでした。また景帝の陵墓である陽陵に県を置き、陵邑としています。武帝の治世は五十年以上に及び、漢の最盛期を築きますが、その出発点に外戚の台頭が置かれていることを、司馬遷は短い記述の中で示しています。
関連する章句
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史記 魏其武安侯列伝武安侯田蚡は、孝景后の同母弟なり。長陵に生まる。魏其已に大将軍と為りし後、方に盛んなり。蚡諸郎為りて、未だ貴からず、往来して魏其に侍酒し、跪起すること子姓の如し。孝景の晩節に及び、蚡益々貴幸せられ、太中大夫と為る。蚡は弁にして口有り、槃盂の諸書を学ぶ。王太后之を賢とす。孝景崩じ、即日太子立ち、制を称す。鎮撫する所多く田蚡の賓客の計筴有り。蚡の弟田勝、皆太后の弟なるを以て、孝景の後三年、蚡を封じて武安侯と為し、勝を周陽侯と為す。武安侯新たに事を用ひて相と為らんと欲し、賓客に卑下し、名士の家居する者を進めて之を貴くし、以て魏其の諸将相を傾けんと欲す。建元元年、丞相綰病みて免ぜらる。上丞相・太尉を置かんことを議す。籍福武安侯に説きて曰く、「魏其貴きこと久し。天下の士素より之に帰す。今将軍初めて興り、未だ魏其に如かず。即し上将軍を以て丞相と為さば、必ず魏其に譲れ。魏其丞相と為らば、将軍必ず太尉と為らん。太尉・丞相は尊きこと等しきのみ。又賢に譲るの名有り」と。武安侯乃ち微かに太后に言ひて上に風せしむ。是に於て乃ち魏其侯を以て丞相と為し、武安侯を太尉と為す。籍福魏其侯を賀し、因りて弔ひて曰く、「君侯の資性は善を喜び悪を疾む。方今善人君侯を誉む。故に丞相に至る。然れども君侯且つ悪を疾む。悪人衆し。亦且に君侯を毀らんとす。君侯能く兼容せば、則ち幸ひに久しからん。能はずんば、今以て毀られて去らん」と。魏其聴かず。魏其・武安倶に儒術を好み、趙綰を推轂して御史大夫と為し、王臧を郎中令と為す。魯の申公を迎へ、明堂を設け、列侯をして国に就かしめ、関を除き、礼を以て服制を為し、以て太平を興さんと欲す。諸竇の宗室の節行毋き者を挙適し、其の属籍を除く。時に諸々の外家列侯と為り、列侯多く公主を尚り、皆国に就くを欲せず。故を以て毀日に竇太后に至る。
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史記 孝景本紀四月乙巳、膠東王の太后を立てて皇后と為す。丁巳、膠東王を立てて太子と為す。名は徹。中元年、故の御史大夫周苛の孫平を封じて縄侯と為し、故の御史大夫周昌の(子)[孫]左車を安陽侯と為す。四月乙巳、天下に赦し、爵一級を賜ふ。禁錮を除く。地動く。衡山・原都雹を雨らす、大なる者尺八寸。中二年二月、匈奴燕に入り、遂に和親せず。三月、臨江王を召して来らしむ。即ち中尉府中に死す。夏、皇子越を立てて広川王と為し、子寄を膠東王と為す。四侯を封ず。九月甲戌、日食す。中三年冬、諸侯の御史中丞を罷む。春、匈奴の王二人其の徒を率ゐて来降す、皆封じて列侯と為す。中四年三月、徳陽宮を置く。大いに蝗あり。秋、徒の陽陵を作る者を赦す。中五年夏、皇子舜を立てて常山王と為す。十侯を封ず。六月丁巳、天下に赦し、爵一級を賜ふ。天下大いに潦す。更めて諸侯の丞相を命じて相と曰ふ。秋、地動く。中六年二月己卯、行きて雍に幸し、郊して五帝に見ゆ。三月、雹を雨らす。四月、梁の孝王・城陽の共王・汝南王皆薨ず。梁の孝王の子明を立てて済川王と為し、子彭離を済東王と為し、子定を山陽王と為し、子不識を済陰王と為す。梁分かれて五と為る。四侯を封ず。更めて廷尉を命じて大理と為し、将作少府を将作大匠と為し、主爵中尉を都尉と為し、長信詹事を長信少府と為し、将行を大長秋と為し、大行を行人と為し、奉常を太常と為し、典客を大行と為し、治粟内史を大農と為す。大内を以て二千石と為し、左右の内官を置き、大内に属せしむ。七月辛亥、日食す。八月、匈奴上郡に入る。後元年冬、更めて中大夫令を命じて衛尉と為す。
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史記 外戚世家長公主怒り、而して日々に栗姫の短を景帝に讒して曰く、「栗姫、諸貴夫人幸姫と会するに、常に侍者をして其の背に祝唾せしめ、邪媚の道を挟む」と。景帝故を以て之を望む。景帝嘗て体安からず、心楽しまず、諸子の王為る者を栗姫に属して、曰く、「百歳の後、善く之を視よ」と。栗姫怒り、肯へて応ぜず、言遜らず。景帝恚り、心に之を嗛むも未だ発せざるなり。長公主日々に王夫人の男の美を誉む、景帝も亦た之を賢とし、又曩者の夢みる所の日の符有り、計未だ定まる所有らず。王夫人帝の栗姫を望むを知り、因りて怒り未だ解けざるに、陰かに人をして大臣を趣して栗姫を立てて皇后と為さしむ。大行事を奏し畢はり、曰く、「『子は母を以て貴く、母は子を以て貴し』、今太子の母号無し、宜しく立てて皇后と為すべし」と。景帝怒りて曰く、「是れ而の宜しく言ふべき所ならんや」と。遂に案じて大行を誅し、而して太子を廃して臨江王と為す。栗姫愈々恚恨し、見ゆるを得ず、憂ひを以て死す。卒に王夫人を立てて皇后と為し、其の男を太子と為し、皇后の兄信を封じて蓋侯と為す。景帝崩じ、太子号を襲ひて皇帝と為る。皇太后の母臧児を尊びて平原君と為す。田蚡を封じて武安侯と為し、勝を周陽侯と為す。景帝の十三男、一男は帝と為り、十二男は皆王と為る。而して児姁早く卒し、其の四子皆王と為る。王太后の長女は号を平陽公主と曰ひ、次は南宮公主と為し、次は林慮公主と為す。蓋侯信は酒を好む。田蚡・勝は貪にして、文辞に巧みなり。王仲蚤く死し、槐裏に葬る、追尊して共侯と為し、園邑二百家を置く。平原君卒するに及び、田氏に従ひて長陵に葬り、園を置くこと共侯の園に比す。而して王太后は孝景帝に後るること十六歳、元朔四年を以て崩じ、陽陵に合葬す。王太后の家凡そ三人侯と為る。衛皇后は字は子夫、生まれ微なり。蓋し其の家号して衛氏と曰ひ、平陽侯の邑に出づ。
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史記 魏其武安侯列伝武安侯は職に任ぜずと雖も、王太后の故を以て、親幸せられ、数々事を言ひて多く効あり。天下の吏士の勢利に趨る者、皆魏其を去りて武安に帰す。武安日に益々横なり。建元六年、竇太后崩ず。丞相昌・御史大夫青翟喪事の辦ぜざるに坐して、免ぜらる。武安侯蚡を以て丞相と為し、大司農韓安国を以て御史大夫と為す。天下の士郡の諸侯愈々益々武安に附く。武安は、貌侵にして、生まれながらにして貴きこと甚だし。又以為へらく、諸侯王多く長じ、上初めて即位し、春秋に富む。蚡肺腑を以て京師の相と為る。痛く節を折りて礼を以て之を詘するに非ずんば、天下粛まずと。是の時に当たり、丞相入りて事を奏すれば、坐語すること日を移し、言ふ所皆聴かる。人を薦むるに或いは家より起こして二千石に至る。権主上に移る。上乃ち曰く、「君の吏を除くこと已に尽くせりや未だしや。吾も亦吏を除かんと欲す」と。嘗て考工の地を請ひて宅を益さんとす。上怒りて曰く、「君何ぞ遂に武庫を取らざる」と。是の後乃ち退く。嘗て客を召して飲み、其の兄蓋侯を南郷に坐せしめ、自ら東郷に坐す。以為へらく漢の相は尊し、兄の故を以て私かに橈むべからずと。武安此に由りて滋々驕り、宅を治むること諸第に甲たり。田園は極めて膏腴にして、市して郡県の器物を買ふこと道に相属く。前堂には鐘鼓を羅ね、曲旃を立つ。後房の婦女は百を以て数ふ。諸侯の奉ずる金玉狗馬玩好、勝げて数ふべからず。魏其竇太后を失ひ、益々疏んぜられて用ひられず、勢無し。諸客稍稍自ら引きて怠傲す。唯灌将軍のみ独り故を失はず。魏其日に黙黙として志を得ず、
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史記 孝景本紀梁・楚の二王皆薨ず。後九月、馳道の樹を伐り、蘭池に殖う。七年冬、栗太子を廃して臨江王と為す。(一)十(二)[一]月晦、日之を食する有り。春、徒隷の陽陵を作る者を免ず。丞相青免ぜらる。二月乙巳、太尉条侯周亜夫を以て丞相と為す。
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史記 孝武本紀孝武皇帝は、孝景の中子なり。母を王太后と曰ふ。孝景の四年、皇子を以て膠東王と為る。孝景の七年、栗太子廃せられて臨江王と為り、膠東王を以て太子と為す。孝景十六年にして崩じ、太子即位して、孝武皇帝と為る。孝武皇帝初めて即位し、尤も鬼神の祀を敬ふ。漢興りて已に六十余歳なり、天下乂安し、薦紳の属皆天子の封禅して正度を改めんことを望む。而して上儒術に郷ひ、賢良を招く、趙綰・王臧等文学を以て公卿と為り、古を議して明堂を城南に立て、以て諸侯を朝せしめんと欲す。巡狩封禅改暦服色の事を草して未だ就らず。会々竇太后黄老の言を治め、儒術を好まず、人をして微かに趙綰等の姦利の事を得しめ、綰・臧を召案す、綰・臧自殺し、諸々の興し為す所の者皆廃す。竇太后崩ず。其の明年、上文学の士公孫弘等を徴す。上初めて雍に至り、五畤に郊見す。後常に三歳に一たび郊す。是の時上神君を求め、之を上林の中の蹄氏観に舎す。神君は、長陵の女子なり、子の死せしを以て悲哀し、故に神を先後の宛若に見はす。宛若之を其の室に祠る、民多く往きて祠る。平原君往きて祠る、其の後子孫以て尊顕す。武帝の即位するに及び、則ち厚礼して之を内中に置きて祠る、其の言を聞くも、其の人を見ずと云ふ。是の時にして李少君も亦祠竈・穀道・卻老の方を以て上に見ゆ、上之を尊ぶ。少君は、故の深沢侯の入れて以て方を主らしむるものなり。其の年及び生長する所を匿し、常に自ら七十と謂ひ、能く物を使ひ、老を卻くと。其の游ぶに方を以て遍く諸侯にす。妻子無し。人其の能く物を使ひ及び死せざるを聞き、更々之に饋遺す、常に金銭帛衣食を余す。人皆以為へらく産業を治めずして饒給すと、又其の何所の人なるかを知らず、愈々信じ、争ひて之に事ふ。少君資(もと)より方を好み、善く巧発奇中を為す。
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