史記 / 孝景本紀
太史公曰:漢興,孝文施大德,天下懷安,至孝景,不復憂異姓,而晁錯刻削諸侯,遂使七國俱起,合從而西鄉,以諸侯太盛,而錯為之不以漸也。
新字:太史公曰:漢興,孝文施大徳,天下懐安,至孝景,不復憂異姓,而晁錯刻削諸侯,遂使七国倶起,合従而西郷,以諸侯太盛,而錯為之不以漸也。
書き下し
太史公曰く、漢興り、孝文大徳を施し、天下懐安す。孝景に至り、復た異姓を憂へず、而して晁錯諸侯を刻削し、遂に七国をして俱に起こり、合従して西鄉せしむ。諸侯の太だ盛んなるを以てして、錯之を為すこと漸を以てせざればなり。
現代語訳
太史公は言う。「漢が興り、孝文帝が大いなる徳を施して、天下は安らいだ。孝景帝の代になると、もはや異姓の王を憂える必要はなくなった。ところが晁錯が諸侯の領地を削ったため、ついに七国が一斉に立ち上がり、連合して西へ向かうことになった。諸侯があまりに強大であったのに、晁錯がそれを段階を踏んで進めなかったからである」。
解説
「正しい改革でも、性急に、一気に進めれば、激しい反発を招いて破綻する」——七国の乱を招いた、改革の進め方の誤りを、司馬遷が分析した一段です。司馬遷は、漢初の歴史を振り返ります。漢が興り、文帝が大いなる徳を施したので、天下は安らかになりました。続く景帝の代になると、(もはや、劉氏以外の異姓の脅威を心配する必要はなくなり、)問題は、勢力を増しすぎた、同族の諸侯(王)たちへと移ります。そこで、切れ者の家臣・晁錯(ちょうそ)が、諸侯の領地を削り取る「削藩」を、断行しました。諸侯の勢力を抑え、中央を強くするという、その目的自体は、正しいものでした。しかし——結果は、破滅的でした。その削減があまりに性急で厳しかったため、追い詰められた七つの国が、いっせいに反乱を起こし(七國俱起)、同盟して、都へと攻め上ってきたのです(合從而西鄉)。あの「呉楚七国の乱」です。司馬遷は、その原因を、鋭く突きます。「(削藩が失敗したのは、)諸侯の勢力が、あまりに強大になっていたところへ、晁錯が、それを削るのに、『漸(少しずつ、段階的に)』を以てしなかったからだ(錯為之不以漸也)」と。改革の目的は正しくとも、その進め方が、あまりに急激で、一気呵成であったために、激しい反発を招き、破綻したのです。ここに、改革の進め方についての教訓があります。第一に、改革の目的が正しくても、その進め方が、性急で、一気呵成であれば、対象の激しい反発を招き、かえって破綻するということ(不以漸)。正しさと、進め方の適切さは、別の問題である。第二に、抵抗が強く予想されるもの(勢力を増した諸侯)を変えるときほど、一気にではなく、少しずつ、段階的に(漸を以て)進める必要があるということ。急激な変化は、必ず、強い反動を呼ぶ。第三に、(次の一段で見るように、)同じ改革でも、その進め方(漸か、急か)によって、成否が正反対に分かれるということ。組織や改革で、目的が正しくても性急な進め方は激しい反発を招くと知ること、抵抗が強いものほど一気でなく段階的に進めること、そして正しさと進め方の適切さは別問題だと自覚すること——晁錯の削藩の失敗は、改革を「漸を以て」進めることの大切さを教えます。
この章句が説くこと
孝景本紀太史公評晁錯の削藩正しい改革でも性急なら破綻不以漸七国の乱
関連する章句
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『長短経』懼戒〔太史公曰く、漢興りて、孝文大徳を施し、天下懐安す。孝景に至りて、復た異姓を憂えず。而して晁錯諸侯を刻削し、遂に七国をして俱に起こらしめ、合従して西に向かわしむ。諸侯大いに盛んにして、晁錯之を為すに漸を以てせざればなり。主父偃之を言うに及びて、諸侯以て弱し。安危の機、豈に謀を以てせざらんや。〕
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史記 呉王濞列伝晁錯太子の家令と為り、太子に幸せらるるを得て、数々従容として呉の過の削るべきを言ふ。数々上書して孝文帝に説く。文帝寛にして、罰するに忍びず。此を以て呉日に益々横なり。孝景帝即位するに及び、錯御史大夫と為り、上に説きて曰く、「昔高帝初めて天下を定め、昆弟少く、諸子弱し。大いに同姓を封ず。故に孽子悼恵王を王として斉七十余城に王たらしめ、庶弟元王楚四十余城に王たり、兄の子濞呉五十余城に王たり。三庶孽を封じて、天下の半ばを分かつ。今呉王は前に太子の郄有り、詐りて病と称して朝せず。古法に於て当に誅すべし。文帝忍びず、因りて几杖を賜ふ。徳至って厚し。当に過を改めて自ら新たにすべし。乃ち益々驕溢し、山に即きて銭を鋳、海水を煮て塩と為し、天下の亡人を誘ひ、乱を作さんことを謀る。今之を削るも亦反し、之を削らざるも亦反す。之を削れば、其の反すること亟かにして、禍小なり。削らざれば、反すること遅くして、禍大なり」と。三年冬、楚王朝す。晁錯因りて言ふ、楚王戊往年薄太后の為に服するに、私かに服舎に姦すと。之を誅せんことを請ふ。詔して赦し、罰して東海郡を削る。因りて呉の豫章郡・会稽郡を削る。前二年に及び趙王罪有り、其の河間郡を削る。膠西王卬爵を売るに姦有るを以て、其の六県を削る。漢廷の臣方に呉を削らんことを議す。呉王濞地を削らるること已む無きを恐れ、因りて此を以て謀を発し、事を挙げんと欲す。念ふに諸侯に与に計謀するに足る者無し。膠西王の勇にして、気を好み、兵を喜み、諸斉皆憚り畏るるを聞く。是に於て乃ち中大夫応高をして膠西王を誂ましむ。文書無く、口もて報じて曰く、「呉王不肖にして、宿夕の憂有り。敢へて自ら外にせず、其の驩心を喩さしむ」と。王曰く、「何を以てか之に教ふる」と。高曰く、「今者主上姦に興り、邪臣に飾られ、小善を好み、讒賊を聴き、擅に律令を変更し、諸侯の地を侵奪し、徴求滋々多く、良善を誅罰すること、日に以て益々甚だし。里語に之有り、『糠を舐りて米に及ぶ』と。
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『長短経』七雄略景帝、晁錯の計を用いて、呉・楚を削る。〔晁錯、上に説きて曰く「昔、高帝初めて天下を定むるに、昆弟少なく、諸子弱し。大いに同姓を封ず。故に孽子悼恵王は斉七十二城に王たり、庶弟元王は楚四十城に王たり、兄の子は呉五十余城に王たり。三庶孽を封じ、天下を分かつこと半ばなり。今、呉王は前に太子の隙有りて、輒ち病と称して朝せず。古法に於いて当に誅すべし。文帝忍びず、因りて几杖を賜う。徳至りて厚し。過ちを改め自ら新たにせず、乃ち益々驕恣なり。山に即きて銭を鋳、海を煮て塩と為し、天下の亡人を誘い、乱逆を作さんと謀る。今、之を削るも亦た反し、削らざるも亦た反す。之を削らば反すること亟やかにして禍小さく、削らずんば反すること遅くして禍大なり」と。是に於て漢臣庭に議して呉を削り、呉乃ち反す。〕
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史記 呉王濞列伝当に賜ふべき者有らば寡人に告げよ。寡人且に往きて之を遺らんとす。敬みて以て聞す」と。七国反するの書天子に聞す。天子乃ち太尉条侯周亜夫をして三十六将軍を将ゐて、往きて呉楚を撃たしむ。曲周侯酈寄を遣はして趙を撃たしむ。将軍欒布斉を撃つ。大将軍竇嬰滎陽に屯し、斉趙の兵を監す。呉楚反するの書聞す。兵未だ発せず、竇嬰未だ行かざるに、故の呉の相袁盎を言ふ。盎時に家居す。詔して召して入見せしむ。上方に晁錯と兵を調へ軍食を笇ふ。上袁盎に問ひて曰く、「君嘗て呉の相為り。呉の臣田禄伯の人と為りを知るか。今呉楚反す。公に於て何如」と。対へて曰く、「憂ふるに足らざるなり。今破れん」と。上曰く、「呉王山に即きて銭を鋳、海水を煮て塩と為し、天下の豪桀を誘ひ、白頭にして事を挙ぐ。此の若くんば、其の計百全ならずんば、豈に発せんや。何を以て其の能く為す無しと言ふや」と。袁盎対へて曰く、「呉に銅塩の利有るは則ち之有り。安くんぞ豪桀を得て之を誘はん。誠に呉をして豪桀を得しめば、亦且に王を輔けて義を為さんとし、反せざらん。呉の誘ふ所は皆無頼の子弟、亡命して銭を鋳る姦人なり。故に相率ゐて以て反す」と。晁錯曰く、「袁盎の之を策すること善し」と。上問ひて曰く、「計安くにか出づる」と。盎対へて曰く、「願はくは左右を屏けよ」と。上人を屏く。独り錯在り。盎曰く、「臣の言ふ所は、人臣知るを得ざるなり」と。乃ち錯を屏く。錯趨りて東廂に避け、恨むこと甚だし。上卒に盎に問ふ。盎対へて曰く、「呉楚相遺る書に曰く、『高帝子弟を王とし各々分地有り。今賊臣晁錯擅に諸侯を適過し、之が地を削奪す』と。故に反するを以て名と為し、西して共に晁錯を誅し、故地を復して罷めんとす。方今の計は、独り晁錯を斬り、使を発して呉楚七国を赦し、其の故の削地を復せば、則ち兵は刃に血ぬること無くして倶に罷むべし」と。是に於て上嘿然たること良久しくして、曰く、「顧ふに誠に何如。吾一人を愛しみて以て天下に謝せざらんや」と。盎曰く、「臣の愚計は此に出づる無し。願はくは上之を孰計せよ」と。
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史記 呉王濞列伝正月に兵を起こし、三月に皆破れ、独り趙のみ後に下る。復た元王の少子平陸侯礼を置きて楚王と為し、元王の後を続がしむ。汝南王非を徙して呉の故地に王たらしめ、江都王と為す。太史公曰く、呉王の王たるは、父の省かるるに由るなり。能く賦斂を薄くし、其の衆を使ひ、以て山海の利を擅にす。逆乱の萌しは、其の子より興る。技を争ひて難を発し、卒に其の本を亡ぼす。越に親しみて宗を謀り、竟に以て夷隕す。晁錯国の為に遠く慮り、禍反つて身に近づく。袁盎権説して、初めは寵せられ後に辱めらる。故に古者は諸侯の地百里に過ぎず、山海は以て封ぜず。「夷狄に親しみて、以て其の属を疏んずる毋かれ」とは、蓋し呉を謂ふか。「権首と為る毋かれ、反つて其の咎を受けん」とは、豈に盎・錯か。
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史記 孝景本紀孝景皇帝は、孝文の中子なり。母は竇太后なり。孝文代に在りし時、前后に三男有り、竇太后幸を得るに及び、前后死し、三子更々死するに及び、故に孝景立つを得たり。元年四月乙卯、天下に赦す。乙巳、民に爵一級を賜ふ。五月、田の半租を除き、孝文の為に太宗の廟を立つ。群臣をして朝賀する無からしむ。匈奴代に入る、与に約して和親す。二年春、故の相国蕭何の孫系を封じて武陵侯と為す。男子二十にして傅することを得。四月壬午、孝文太后崩ず。広川・長沙王皆国に之く。丞相申屠嘉卒す。八月、御史大夫開封の陶青を以て丞相と為す。彗星東北に出づ。秋、衡山雹を雨らす、大なる者五寸、深き者二尺。熒惑逆行し、北辰を守る。月北辰の間に出づ。歳星天廷の中に逆行す。南陵及び内史・祋祤を置きて県と為す。三年正月乙巳、天下に赦す。長星西方に出づ。天火雒陽の東宮の大殿城室を燔く。呉王濞・楚王戊・趙王遂・膠西王卬・済南王辟光・菑川王賢・膠東王雄渠反し、兵を発して西に郷ふ。天子為に晁錯を誅し、袁盎を遣はして諭告せしむ、止まず、遂に西のかた梁を囲む。上乃ち大将軍竇嬰・太尉周亜夫を遣はして兵を将ゐて之を誅せしむ。六月乙亥、亡軍及び楚の元王の子芸等の謀反に与る者を赦す。大将軍竇嬰を封じて魏其侯と為す。楚の元王の子平陸侯礼を立てて楚王と為す。皇子端を立てて膠西王と為し、子勝を中山王と為す。済北王志を徙して菑川王と為し、淮陽王余を魯王と為し、汝南王非を江都王と為す。斉王将廬・燕王嘉皆薨ず。四年夏、太子を立つ。皇子徹を立てて膠東王と為す。六月甲戌、天下に赦す。
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