史記 / 孝文本紀
帝欲自將擊匈奴,群臣諫,皆不聽。皇太后固要帝,帝乃止。於是以東陽侯張相如為大將軍,成侯赤為內史,欒布為將軍,擊匈奴。匈奴遁走。春,上曰:「朕獲執犧牲珪幣以事上帝宗廟,十四年于今,歷日綿長,以不敏不明而久撫臨天下,朕甚自愧。其廣增諸祀墠場珪幣。昔先王遠施不求其報,望祀不祈其福,右賢左戚,先民後己,至明之極也。今吾聞祠官祝釐,皆歸福朕躬,不為百姓,朕甚愧之。夫以朕不德,而躬享獨美其福,百姓不與焉,是重吾不德。其令祠官致敬,毋有所祈。」是時北平侯張蒼為丞相,方明律歷。魯人公孫臣上書陳終始傳五德事,言方今土德時,土德應黃龍見,當改正朔服色制度。天子下其事與丞相議。丞相推以為今水德,始明正十月上黑事,以為其言非是,請罷之。十五年,黃龍見成紀,天子乃復召魯公孫臣,以為博士,申明土德事。於是上乃下詔曰:「有異物之神見于成紀,無害於民,歲以有年。朕親郊祀上帝諸神。禮官議,毋諱以勞朕。」有司禮官皆曰:「古者天子夏躬親禮祀上帝於郊,故曰郊。」於是天子始幸雍,郊見五帝,以孟夏四月答禮焉。趙人新垣平以望氣見,因說上設立渭陽五廟。欲出周鼎,當有玉英見。
新字:帝欲自将撃匈奴,群臣諫,皆不聴。皇太后固要帝,帝乃止。於是以東陽侯張相如為大将軍,成侯赤為内史,欒布為将軍,撃匈奴。匈奴遁走。春,上曰:「朕獲執犠牲珪幣以事上帝宗廟,十四年于今,歴日綿長,以不敏不明而久撫臨天下,朕甚自愧。其広增諸祀墠場珪幣。昔先王遠施不求其報,望祀不祈其福,右賢左戚,先民後己,至明之極也。今吾聞祠官祝釐,皆帰福朕躬,不為百姓,朕甚愧之。夫以朕不徳,而躬享独美其福,百姓不与焉,是重吾不徳。其令祠官致敬,毋有所祈。」是時北平侯張蒼為丞相,方明律歴。魯人公孫臣上書陳終始伝五徳事,言方今土徳時,土徳応黄竜見,当改正朔服色制度。天子下其事与丞相議。丞相推以為今水徳,始明正十月上黒事,以為其言非是,請罷之。十五年,黄竜見成紀,天子乃復召魯公孫臣,以為博士,申明土徳事。於是上乃下詔曰:「有異物之神見于成紀,無害於民,歳以有年。朕親郊祀上帝諸神。礼官議,毋諱以労朕。」有司礼官皆曰:「古者天子夏躬親礼祀上帝於郊,故曰郊。」於是天子始幸雍,郊見五帝,以孟夏四月答礼焉。趙人新垣平以望気見,因説上設立渭陽五廟。欲出周鼎,当有玉英見。
書き下し
帝自ら将として匈奴を撃たんと欲す、群臣諫むるも、皆聴かず。皇太后固く帝を要(と)む、帝乃ち止む。是に於て東陽侯張相如を以て大将軍と為し、成侯赤を内史と為し、欒布を将軍と為し、匈奴を撃たしむ。匈奴遁走す。春、上曰く、「朕犧牲珪幣を執りて以て上帝宗廟に事ふるを獲ること、今に十四年、日を歴ること(縣)[綿]長し、不敏不明を以て久しく天下を撫臨す、朕甚だ自ら愧づ。其れ広く諸祀の墠場珪幣を増せ。昔先王は遠く施して其の報を求めず、望祀して其の福を祈らず、賢を右にして戚を左にし、民を先にして己を後にす、至明の極みなり。今吾聞く祠官の祝釐、皆福を朕が躬に帰し、百姓の為にせずと、朕甚だ之を愧づ。夫れ朕の不徳を以て、躬ら独り其の福を享けて美とし、百姓与らず、是れ吾が不徳を重ぬるなり。其れ祠官をして敬を致し、祈る所有る毋からしめよ。」と。是の時北平侯張蒼丞相為り、方に律暦を明らかにす。魯人公孫臣上書して終始伝五徳の事を陳べ、言ふ方今土徳の時なり、土徳は黄龍の見はるるに応ず、当に正朔服色制度を改むべしと。天子其の事を下して丞相と議せしむ。丞相推して以為へらく今は水徳なり、始めて正十月を明らかにし黒を上ぶ事と、以て其の言非なりと為し、請ひて之を罷む。十五年、黄龍成紀に見はる、天子乃ち復た魯の公孫臣を召し、以て博士と為し、土徳の事を申明せしむ。是に於て上乃ち詔を下して曰く、「異物の神有りて成紀に見はる、民に害無く、歳以て有年なり。朕親ら上帝諸神を郊祀せん。礼官議せよ、諱みて以て朕を労する毋かれ。」と。有司礼官皆曰く、「古者天子夏躬ら親しく上帝を郊に礼祀す、故に郊と曰ふ。」と。是に於て天子始めて雍に幸し、郊して五帝に見え、孟夏四月を以て礼に答ふ。趙人新垣平望気を以て見え、因りて上に説きて渭陽の五廟を設立せしむ。周鼎を出ださんと欲すれば、当に玉英の見はるる有るべしと。
現代語訳
帝は自ら将となって匈奴を撃とうとし、群臣が諫めても、どれも聞き入れなかった。皇太后が強く帝を引き止めたので、帝はようやく思いとどまった。そこで東陽侯張相如を大将軍、成侯の赤を内史、欒布を将軍として、匈奴を撃たせた。匈奴は逃げ去った。春、主上は言った。「朕がいけにえや玉・絹を捧げて上帝と宗廟にお仕えするようになってから、今年で十四年になり、長い年月を経た。至らない明察の乏しい身で長く天下に臨んでいることを、朕はたいへん恥じている。諸々の祭祀の祭壇や、捧げる玉・絹を広く増やせ。昔の先王は、遠くまで恵みを施して見返りを求めず、山川を望んで祭っても自分の福を祈らず、賢者を重んじて親族を後回しにし、民を先にして自分を後にした。これこそこの上ない明察である。ところがいま聞くところでは、祭祀を司る役人の祈りは、皆福を朕一人の身に集めるよう願い、民のために祈っていないという。朕はこれをたいへん恥じる。朕の不徳の身で自分だけが福を受け、民がその恩恵にあずからないのは、朕の不徳を重ねることだ。祭祀の役人には敬意を尽くさせるだけにして、何かを祈り求めることのないようにせよ」。このとき北平侯張蒼が丞相で、ちょうど音律と暦を明らかにしようとしていた。魯の人公孫臣が上書して、五行の徳が順にめぐって王朝が交代するという説を述べ、いまは土徳の時代であり、土徳には黄龍が現れて応えるはずだから、暦の正月や衣服の色、制度を改めるべきだと言った。天子はその件を丞相に下して議論させた。丞相は推論して、いまは水徳の時代であり、だからこそ初めに十月を年の初めと定め、黒を尊ぶことにしたのだと考え、公孫臣の説は誤りだとして、取りやめるよう願い出た。十五年(前165年)、黄龍が成紀に現れたので、天子は再び魯の公孫臣を呼び寄せて博士とし、土徳の説を詳しく明らかにさせた。そこで主上は詔を下した。「不思議な神獣が成紀に現れたが、民に害はなく、その年は豊作であった。朕は自ら郊外で上帝と神々を祀ろうと思う。礼官は協議せよ。朕の苦労を気遣って遠慮することのないように」。役人や礼官は皆言った。「昔、天子は夏に自ら郊外で上帝を礼をもって祀った。だから郊祀というのだ」。そこで天子は初めて雍に出向き、郊祀を行って五帝を祀り、初夏の四月に神の恵みに答える礼を行った。趙の人の新垣平が雲気を見る術で主上に謁見し、渭水の北に五帝の廟を建てるよう説いた。そして、周の鼎(王権の象徴の宝器)を掘り出そうとするなら、玉の精華が現れる兆しがあるはずだと言った。
解説
関連する章句
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史記 封禅書魯人公孫臣上書して曰く、「始め秦は水徳を得、今漢之を受く。終始の伝を推せば、則ち漢は当に土徳なるべし。土徳の応は黄龍見はる。宜しく正朔を改め、服色を易へ、色は黄を上ぶべし」と。是の時、丞相張蒼は律歴を好み、以為へらく漢は乃ち水徳の始めなり、故に河、金隄を決す、其の符なりと。年は冬十月に始め、色は外黒く内赤く、徳と相応ず。公孫臣の言の如きは非なりとし、之を罷む。後三歳、黄龍、成紀に見はる。文帝乃ち公孫臣を召し、拝して博士と為し、諸生と改歴・服色の事を草せしむ。其の夏、詔を下して曰く、「異物の神、成紀に見はれ、民に害無く、歳以て年有り。朕、郊して上帝・諸神を祈らんとす。礼官議して、諱む無く以て朕を労へ」と。有司皆曰く、「古は天子夏に親ら郊し、上帝を郊に祀る、故に郊と曰ふ」と。是に於て夏四月、文帝始めて雍の五畤の祠に郊見し、衣は皆赤を上ぶ。其の明年、趙人新垣平、望気を以て上に見え、言ふ、「長安の東北に神気有り、五采を成し、人の冠絻の若し。或ひと曰く、東北は神明の舎、西方は神明の墓なりと。天瑞下る、宜しく祠を立てて上帝を祀り、以て符応に合すべし」と。是に於て渭陽の五帝廟を作り、宇を同じくし、帝ごとに一殿、面ごとに各々五門、各々其の帝の色の如くす。祠に用ふる所及び儀も亦雍の五畤の如し。夏四月、文帝親ら霸・渭の会に拝し、以て渭陽の五帝に郊見す。五帝廟は南のかた渭に臨み、北のかた蒲池の溝水を穿ち、権火挙げて祠れば、光煇然として天に属するが若し。是に於て平を貴びて上大夫とし、賜ふこと累ねて千金。而して博士諸生をして六経の中を刺りて王制を作らしめ、巡狩・封禅の事を謀議せしむ。文帝、長門を出で、五人を道の北に見るが若し。遂に其の直北に因りて五帝の壇を立て、祠るに五牢の具を以てす。其の明年、新垣平、人をして玉杯を持たしめ、書を闕下に上りて之を献ぜしむ。
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史記 孝文本紀十六年、上親ら渭陽の五帝廟を郊見し、亦夏を以て礼に答へて赤を尚ぶ。十七年、玉杯を得たり、刻して曰く「人主延寿」と。是に於て天子始めて更めて元年と為し、天下をして大いに酺せしむ。其の歳、新垣平の事覚れ、三族を夷ぐ。後二年、上曰く、「朕既に明らかならず、遠く徳する能はず、是を以て方外の国をして或いは寧息せざらしむ。夫れ四荒の外其の生に安んぜず、封畿の内勤労して処らず、二者の咎は、皆朕の徳薄くして遠く達する能はざるに自る。間者(このごろ)累年、匈奴并びに辺境を暴し、多く吏民を殺す、辺臣兵吏又吾が内志を諭す能はず、以て吾が不徳を重ぬるなり。夫れ久しく難を結び兵を連ねば、中外の国将に何を以てか自ら寧んぜん。今朕夙に興き夜に寐ね、天下に勤労し、万民を憂苦し、之が為に怛惕して安からず、未だ嘗て一日も心に忘れず、故に使者を遣はして冠蓋相望み、軼を道に結び、以て朕の意を単于に諭す。今単于古の道に反り、社稷の安きを計り、万民の利を便とし、親ら朕と倶に細過を棄て、偕に大道に之き、兄弟の義を結び、以て天下元元の民を全うす。和親已に定まる、今年より始む。」と。後六年冬、匈奴三万人上郡に入り、三万人雲中に入る。中大夫令勉を以て車騎将軍と為し、飛狐に軍せしむ。故の楚の相蘇意を将軍と為し、句注に軍せしむ。将軍張武北地に屯す。河内の守周亜夫を将軍と為し、細柳に居らしむ。宗正劉礼を将軍と為し、霸上に居らしむ。祝茲侯棘門に軍す。以て胡に備ふ。数月にして、胡人去る、亦罷む。天下旱し、蝗あり。帝恵を加ふ。諸侯をして入貢する毋からしめ、山沢を弛め、諸々の服御狗馬を減じ、郎吏の員を損し、倉庾を発して以て貧民を振ひ、民爵を売るを得たり。
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史記 封禅書平、上に言ひて曰く、「闕下に宝玉の気の来る者有り」と。已にして之を視れば、果して玉杯を献ずる者有り、刻して「人主延寿」と曰ふ。平又言ふ、「臣、日の再び中するを候ふ」と。居ること頃之にして、日卻きて復た中す。是に於て始めて更めて十七年を以て元年と為し、天下をして大いに酺せしむ。平言ひて曰く、「周の鼎亡びて泗水の中に在り。今、河溢れて泗に通ず。臣、東北の汾陰を望むに直に金宝の気有り。意ふに周の鼎其れ出でんか。兆見はるるも迎へざれば則ち至らず」と。是に於て上、使をして廟を汾陰の南に治めしめ、河に臨み、祠りて周の鼎を出さんと欲す。人の上書して、新垣平の言ふ所の気・神の事は皆詐なりと告ぐる有り。平を吏に下して治め、新垣平を誅夷す。是より後、文帝、正朔・服色を改め神明の事に怠り、而して渭陽・長門の五帝は祠官をして領せしめ、時を以て礼を致し、往かず。明年、匈奴数々辺に入り、兵を興して守御す。後、歳少しく登らず。数年にして孝景即位す。十六年、祠官各々歳時を以て祠ること故の如く、興す所有る無く、今の天子に至る。今の天子初めて即位するや、尤も鬼神の祀を敬ふ。元年、漢興りて已に六十余歳なり、天下艾安にして、搢紳の属皆天子の封禅して正度を改めんことを望む。而して上は儒術に郷ひ、賢良を招き、趙綰・王臧等、文学を以て公卿と為り、古に議りて明堂を城南に立て、以て諸侯を朝せしめんと欲す。巡狩・封禅・改歴・服色の事を草するも未だ就らず。会々竇太后、黄老の言を治め、儒術を好まず、人をして微かに伺はしめて趙綰等の姦利の事を得、綰・臧を召し案ず。綰・臧自殺し、諸々の興し為す所皆廃る。後六年、竇太后崩ず。其の明年、文学の士公孫弘等を徴す。明年、今上初めて雍に至り、五畤に郊見す。後常に三歳に一たび郊す。是の時、上、神君を求め、之を上林の中の蹄氏観に舎す。
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史記 孝文本紀民或いは上を祝詛して以て相約結して後に相謾(あざむ)く、吏以て大逆と為し、其れ他言有れば、而して吏又以て誹謗と為す。此れ細民の愚にして知る無くして死に抵(いた)る、朕甚だ取らず。今より以来、此を犯す者有るも聴治する勿かれ。」と。九月、初めて郡国の守相と銅虎符・竹使符を為る。三年十月丁酉晦、日之を食する有り。十一月、上曰く、「前日(計)[詔]して列侯を遣はして国に之かしむ、或いは辞して未だ行かず。丞相は朕の重んずる所なり、其れ朕の為に列侯を率ゐて国に之け。」と。絳侯勃丞相を免ぜられて国に就く、太尉潁陰侯嬰を以て丞相と為す。太尉の官を罷め、丞相に属せしむ。四月、城陽王章薨ず。淮南王長従者魏敬と辟陽侯審食其を殺す。五月、匈奴北地に入り、河南に居りて寇を為す。帝初めて甘泉に幸す。六月、帝曰く、「漢匈奴と約して昆弟と為り、辺境を害せしむる毋し、匈奴に輸遺する所以甚だ厚し。今右賢王其の国を離れ、衆を将ゐて河南の降地に居る、常の故に非ず、塞に往来して近づき、吏卒を捕殺し、保塞の蛮夷を駆り、其の故に居るを得ざらしめ、辺吏を陵轢し、入りて盗む、甚だ敖(おご)りて無道なり、約に非ざるなり。其れ辺吏の騎八万五千を発して高奴に詣らしめ、丞相潁陰侯灌嬰を遣はして匈奴を撃たしめよ。」と。匈奴去る、中尉の材官を発して衛将軍に属せしめて長安に軍せしむ。辛卯、帝甘泉より高奴に之き、因りて太原に幸し、故の群臣に見えて、皆之に賜ふ。功を挙げ賞を行ひ、諸民の里に牛酒を賜ふ。晋陽・中都の民を復すること三歳。留まりて太原に游ぶこと十余日。済北王興居帝の代に之き、往きて胡を撃たんと欲すと聞き、乃ち反し、兵を発して滎陽を襲はんと欲す。是に於て詔して丞相の兵を罷め、棘蒲侯陳武を遣はして大将軍と為し、十万を将ゐて往きて之を撃たしむ。祁侯賀を将軍と為し、滎陽に軍せしむ。七月辛亥、帝太原より長安に至る。
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史記 孝武本紀其の明年、有司言ふ雍の五畤に牢熟の具無く、芬芳備はらずと。乃ち祠官に命じて畤に犢牢の具を進め、五色の食の勝つ所をもてし、而して木耦馬を以て駒に代ふ。独り五帝のみ駒を用ゐ、行きて親ら郊するときは駒を用ゐる。及び諸々の名山川の駒を用ゐる者は、悉く木耦馬を以て代ふ。行きて過ぐれば、乃ち駒を用ゐる。他の礼は故の如し。其の明年、東のかた海上を巡り、神僊の属を考ふるに、未だ験有る者有らず。方士言ふ有り「黄帝の時五城十二楼を為りて、以て神人を執期に候ひ、命じて迎年と曰ふ」と。上之を作ることを方の如く許し、名づけて明年と曰ふ。上親ら上帝を礼祠し、衣は黄を上ぶ。公玊帯曰く、「黄帝の時泰山に封ずと雖も、然れども風后・封鉅・岐伯黄帝をして東泰山に封じ、凡山に禅して符を合はせしめ、然る後に死せず。」と。天子既に祠具を設けしめ、東泰山に至る、東泰山は卑小にして、其の声に称はず、乃ち祠官をして之を礼せしめ、而して封禅せず。其の後帯をして祠を奉じて神物を候はしむ。夏、遂に泰山に還り、五年の礼を修むること前の如くし、而して石閭に禅祠することを加ふ。石閭は、泰山の下阯の南方に在り、方士多く言ふ此れ僊人の閭なりと、故に上親ら禅す。其の後五年、復た泰山に至りて封を修め、還りて過ぎて常山を祭る。今天子の興す所の祠は、泰一・后土、三年に親ら郊祠し、漢家の封禅を建て、五年に一たび封を修む。薄忌の泰一及び三一・冥羊・馬行・赤星、五つ、寛舒の祠官歳時を以て礼を致す。凡そ六祠、皆太祝之を領す。八神の諸神、明年・凡山の他の名祠の如きに至りては、行きて過ぐれば則ち祀り、去れば則ち已む。方士の興す所の祠は、各々自ら主り、其の人終はれば則ち已む、祠官主らず。他の祠は皆其の故の如し。今上封禅して、其の後十二歳にして還り、五嶽・四瀆に徧し。而して方士の神人を候祠し、海に入りて蓬萊を求むるは、終に験有る無し。
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史記 封禅書其の事秘にして、世知る莫きなり。其の後三年、有司言ふ、元は宜しく天瑞を以て命ずべし、宜しく一二を以て数ふべからずと。一元を「建」と曰ひ、二元は長星を以て「光」と曰ひ、三元は郊して一角の獣を得たるを以て「狩」と曰ふと云ふ。其の明年冬、天子雍に郊し、議して曰く、「今、上帝は朕親ら郊するも、后土には祀無し。則ち礼答へざるなり」と。有司、太史公・祠官寛舒と議すらく、「天地の牲は角繭栗。今陛下親ら后土を祠らんとす。后土は宜しく沢中の圜丘に於て五壇を為り、壇ごとに一黄犢の太牢の具、已に祠れば尽く瘞め、而して従祠の衣は黄を上ぶべし」と。是に於て天子遂に東し、始めて后土の祠を汾陰の脽丘に立つること、寛舒等の議の如し。上親ら望拝すること、上帝の礼の如し。礼畢りて、天子遂に滎陽に至りて還る。雒陽を過ぎ、詔を下して曰く、「三代は邈絶し、遠くして存し難し。其れ三十里の地を以て周の後を封じて周子南君と為し、以て其の先祀を奉ぜしめよ」と。是の歳、天子始めて郡県を巡り、侵尋として泰山に於てす。其の春、楽成侯上書して欒大を言ふ。欒大は膠東の宮人にして、故嘗て文成将軍と師を同じくし、已にして膠東王の尚方と為る。而して楽成侯の姉は康王の后たり、子無し。康王死し、他姫の子立ちて王と為る。而して康后淫行有り、王と相中らず、相危ぶむに法を以てす。康后、文成の已に死せるを聞き、自ら上に媚びんと欲し、乃ち欒大を遣はして楽成侯に因りて見えて方を言はんことを求めしむ。天子既に文成を誅し、後に其の蚤く死せるを悔い、其の方の尽くさざるを惜しむ。欒大を見るに及び、大いに説ぶ。大、人と為り長美にして、言に方略多く、而して敢て大言を為して之に処して疑はず。大言ひて曰く、「臣常に海中を往来し、安期・羨門の属を見る。顧ふに臣を以て賤しと為し、臣を信ぜず。又以為へらく康王は諸侯のみ、与に方するに足らずと。臣数々康王に言ふも、康王又臣を用ひず。
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