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史記 / 孝文本紀

十六年,上親郊見渭陽五帝廟,亦以夏答禮而尚赤。十七年,得玉杯,刻曰「人主延壽」。於是天子始更為元年,令天下大酺。其歲,新垣平事覺,夷三族。後二年,上曰:「朕既不明,不能遠德,是以使方外之國或不寧息。夫四荒之外不安其生,封畿之內勤勞不處,二者之咎,皆自於朕之德薄而不能遠達也。閒者累年,匈奴并暴邊境,多殺吏民,邊臣兵吏又不能諭吾內志,以重吾不德也。夫久結難連兵,中外之國將何以自寧?今朕夙興夜寐,勤勞天下,憂苦萬民,為之怛惕不安,未嘗一日忘於心,故遣使者冠蓋相望,結軼於道,以諭朕意於單于。今單于反古之道,計社稷之安,便萬民之利,親與朕俱棄細過,偕之大道,結兄弟之義,以全天下元元之民。和親已定,始于今年。」後六年冬,匈奴三萬人入上郡,三萬人入雲中。以中大夫令勉為車騎將軍,軍飛狐;故楚相蘇意為將軍,軍句注;將軍張武屯北地;河內守周亞夫為將軍,居細柳;宗正劉禮為將軍,居霸上;祝茲侯軍棘門:以備胡。數月,胡人去,亦罷。天下旱,蝗。帝加惠:令諸侯毋入貢,弛山澤,減諸服御狗馬,損郎吏員,發倉庾以振貧民,民得賣爵。

新字:十六年,上親郊見渭陽五帝廟,亦以夏答礼而尚赤。十七年,得玉杯,刻曰「人主延寿」。於是天子始更為元年,令天下大酺。其歳,新垣平事覚,夷三族。後二年,上曰:「朕既不明,不能遠徳,是以使方外之国或不寧息。夫四荒之外不安其生,封畿之内勤労不処,二者之咎,皆自於朕之徳薄而不能遠達也。閒者累年,匈奴并暴辺境,多殺吏民,辺臣兵吏又不能諭吾内志,以重吾不徳也。夫久結難連兵,中外之国将何以自寧?今朕夙興夜寐,勤労天下,憂苦万民,為之怛惕不安,未嘗一日忘於心,故遣使者冠蓋相望,結軼於道,以諭朕意於単于。今単于反古之道,計社稷之安,便万民之利,親与朕倶棄細過,偕之大道,結兄弟之義,以全天下元元之民。和親已定,始于今年。」後六年冬,匈奴三万人入上郡,三万人入雲中。以中大夫令勉為車騎将軍,軍飛狐;故楚相蘇意為将軍,軍句注;将軍張武屯北地;河内守周亜夫為将軍,居細柳;宗正劉礼為将軍,居覇上;祝茲侯軍棘門:以備胡。数月,胡人去,亦罷。天下旱,蝗。帝加恵:令諸侯毋入貢,弛山沢,減諸服御狗馬,損郎吏員,発倉庾以振貧民,民得売爵。

書き下し

十六年、上親ら渭陽の五帝廟を郊見し、亦夏を以て礼に答へて赤を尚ぶ。十七年、玉杯を得たり、刻して曰く「人主延寿」と。是に於て天子始めて更めて元年と為し、天下をして大いに酺せしむ。其の歳、新垣平の事覚れ、三族を夷ぐ。後二年、上曰く、「朕既に明らかならず、遠く徳する能はず、是を以て方外の国をして或いは寧息せざらしむ。夫れ四荒の外其の生に安んぜず、封畿の内勤労して処らず、二者の咎は、皆朕の徳薄くして遠く達する能はざるに自る。間者(このごろ)累年、匈奴并びに辺境を暴し、多く吏民を殺す、辺臣兵吏又吾が内志を諭す能はず、以て吾が不徳を重ぬるなり。夫れ久しく難を結び兵を連ねば、中外の国将に何を以てか自ら寧んぜん。今朕夙に興き夜に寐ね、天下に勤労し、万民を憂苦し、之が為に怛惕して安からず、未だ嘗て一日も心に忘れず、故に使者を遣はして冠蓋相望み、軼を道に結び、以て朕の意を単于に諭す。今単于古の道に反り、社稷の安きを計り、万民の利を便とし、親ら朕と倶に細過を棄て、偕に大道に之き、兄弟の義を結び、以て天下元元の民を全うす。和親已に定まる、今年より始む。」と。後六年冬、匈奴三万人上郡に入り、三万人雲中に入る。中大夫令勉を以て車騎将軍と為し、飛狐に軍せしむ。故の楚の相蘇意を将軍と為し、句注に軍せしむ。将軍張武北地に屯す。河内の守周亜夫を将軍と為し、細柳に居らしむ。宗正劉礼を将軍と為し、霸上に居らしむ。祝茲侯棘門に軍す。以て胡に備ふ。数月にして、胡人去る、亦罷む。天下旱し、蝗あり。帝恵を加ふ。諸侯をして入貢する毋からしめ、山沢を弛め、諸々の服御狗馬を減じ、郎吏の員を損し、倉庾を発して以て貧民を振ひ、民爵を売るを得たり。

現代語訳

十六年(前164年)、主上は自ら渭水の北の五帝廟で郊祀を行い、やはり夏に神の恵みに答える礼を行って、赤を尊んだ。十七年(前163年)、玉の杯を手に入れたが、それには「人主延寿(君主の命が延びる)」と刻まれていた。そこで天子は初めて年号を改めて元年とし、天下に盛大な酒宴を許した。その年、新垣平の偽りが発覚し、その三族を皆殺しにした。後元二年(前162年)、主上は言った。「朕は明察に欠け、遠くまで徳を及ぼすことができない。そのため国境の外の国々には安らかに暮らせない者がいる。そもそも四方の辺境の外の者がその暮らしに安んじられず、国内の者が苦労して落ち着けないという二つの過ちは、いずれも朕の徳が薄く、遠くまで行き届かないことによる。近年は毎年、匈奴が辺境を荒らし、多くの役人や民を殺した。辺境の臣や将兵もまた朕の本心を相手に伝えることができず、朕の不徳を重ねている。そもそも長く争いを続けて兵を連ねていれば、中国も外の国もどうして安らかでいられようか。いま朕は朝早く起き夜遅く寝て天下のために励み、万民のために憂い苦しみ、そのために心を痛めて不安に思い、一日たりとも忘れたことはない。だから使者を次々に送り出し、その車の覆いが互いに見えるほど、道に車の跡が絶えないほどにして、朕の意向を単于(匈奴の君主)に伝えさせた。いま単于は昔の道に立ち返り、社稷の安泰を考え、万民の利益を図り、自ら朕とともに小さな過ちを水に流して大道を歩み、兄弟の義を結んで天下の人々の命を全うすることになった。和親はすでに定まり、今年から始まる」。後元六年(前158年)冬、匈奴三万人が上郡に、三万人が雲中に侵入した。中大夫令の勉を車騎将軍として飛狐に駐屯させ、もとの楚の宰相蘇意を将軍として句注に駐屯させた。将軍張武は北地に駐屯した。河内郡太守の周亜夫を将軍として細柳に置いた。宗正の劉礼を将軍として霸上に置いた。祝茲侯は棘門に駐屯した。こうして匈奴に備えた。数か月して匈奴が去ると、これらの軍も解散した。天下にひでりとイナゴの害があった。帝は恵みを加え、諸侯に貢ぎ物を納めさせず、山林や沼沢の使用制限を緩め、天子の衣服や乗り物、犬や馬を減らし、郎官や役人の定員を減らし、倉を開いて貧民を救済し、民が爵位を売ることを許した。

解説

文帝の治世の後半、方士新垣平の失脚、匈奴との和親、災害への対応を描く段です。「人主延寿」と刻まれた玉杯を得て改元までしたものの、新垣平の細工が発覚し、一族が滅ぼされました。文帝ほどの名君も吉兆に踊らされた苦い経験です。一方、匈奴に対しては、侵入のたびに兵を送りながらも、使者を絶えず送って粘り強く和親を求め、ついに兄弟の約を結びました。文帝は辺境の不安も国内の疲弊も「朕の徳が薄いから」と自らに引きつけて語っています。後元六年の侵入の際、細柳に駐屯した周亜夫の軍規の厳しさに文帝が感心した逸話は、絳侯周勃世家に記されています。干ばつとイナゴの害には、諸侯の貢ぎ物を免じ、自らの衣服や馬を減らし、官吏の定員を削り、倉を開いて民を救いました。危機のときにまず上が身を削る姿勢が一貫しています。

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