史記 / 孝文本紀
五月,齊太倉令淳于公有罪當刑,詔獄逮徙系長安。太倉公無男,有女五人。太倉公將行會逮,罵其女曰:「生子不生男,有緩急非有益也!」其少女緹縈自傷泣,乃隨其父至長安,上書曰:「妾父為吏,齊中皆稱其廉平,今坐法當刑。妾傷夫死者不可復生,刑者不可復屬,雖復欲改過自新,其道無由也。妾願沒入為官婢,贖父刑罪,使得自新。」書奏天子,天子憐悲其意,乃下詔曰:「蓋聞有虞氏之時,畫衣冠異章服以為僇,而民不犯。何則?至治也。今法有肉刑三,而姦不止,其咎安在?非乃朕德薄而教不明歟?吾甚自愧。故夫馴道不純而愚民陷焉。《詩》曰『愷悌君子,民之父母』。今人有過,教未施而刑加焉?或欲改行為善而道毋由也。朕甚憐之。夫刑至斷支體,刻肌膚,終身不息,何其楚痛而不德也,豈稱為民父母之意哉!其除肉刑。」上曰:「農,天下之本,務莫大焉。今勤身從事而有租稅之賦,是為本末者毋以異,其於勸農之道未備。其除田之租稅。」十四年冬,匈奴謀入邊為寇,攻朝那塞,殺北地都尉卬。上乃遣三將軍軍隴西、北地、上郡,中尉周舍為衛將軍,郎中令張武為車騎將軍,軍渭北,車千乘,騎卒十萬。帝親自勞軍,勒兵申教令,賜軍吏卒。
新字:五月,斉太倉令淳于公有罪当刑,詔獄逮徙系長安。太倉公無男,有女五人。太倉公将行会逮,罵其女曰:「生子不生男,有緩急非有益也!」其少女緹縈自傷泣,乃随其父至長安,上書曰:「妾父為吏,斉中皆称其廉平,今坐法当刑。妾傷夫死者不可復生,刑者不可復属,雖復欲改過自新,其道無由也。妾願没入為官婢,贖父刑罪,使得自新。」書奏天子,天子憐悲其意,乃下詔曰:「蓋聞有虞氏之時,画衣冠異章服以為僇,而民不犯。何則?至治也。今法有肉刑三,而姦不止,其咎安在?非乃朕徳薄而教不明歟?吾甚自愧。故夫馴道不純而愚民陥焉。《詩》曰『愷悌君子,民之父母』。今人有過,教未施而刑加焉?或欲改行為善而道毋由也。朕甚憐之。夫刑至断支体,刻肌膚,終身不息,何其楚痛而不徳也,豈称為民父母之意哉!其除肉刑。」上曰:「農,天下之本,務莫大焉。今勤身従事而有租税之賦,是為本末者毋以異,其於勧農之道未備。其除田之租税。」十四年冬,匈奴謀入辺為寇,攻朝那塞,殺北地都尉卬。上乃遣三将軍軍隴西、北地、上郡,中尉周舎為衛将軍,郎中令張武為車騎将軍,軍渭北,車千乗,騎卒十万。帝親自労軍,勒兵申教令,賜軍吏卒。
書き下し
五月、斉の太倉の令淳于公罪有りて刑に当たる、詔獄逮へて徙して長安に繋ぐ。太倉公男無く、女五人有り。太倉公将に行きて逮に会はんとす、其の女を罵りて曰く、「子を生みて男を生まず、緩急有れば益有るに非ざるなり。」と。其の少女緹縈自ら傷みて泣き、乃ち其の父に随ひて長安に至り、上書して曰く、「妾の父吏為り、斉中皆其の廉平を称す、今法に坐して刑に当たる。妾傷む夫れ死する者は復た生くべからず、刑せらるる者は復た属すべからず、復た過ちを改めて自ら新たにせんと欲すと雖も、其の道由無きを。妾願はくは没入して官婢と為り、父の刑罪を贖ひ、自ら新たにするを得しめん。」と。書天子に奏せらる、天子其の意を憐悲し、乃ち詔を下して曰く、「蓋し聞く有虞氏の時、衣冠に画き章服を異にして以て僇と為し、而して民犯さずと。何となれば、至治なればなり。今法に肉刑三有り、而して姦止まず、其の咎安くにか在る。乃ち朕の徳薄くして教へ明らかならざるに非ずや。吾甚だ自ら愧づ。故に夫れ馴道純ならずして愚民陥る。詩に曰く『愷悌の君子は、民の父母』と。今人過ち有り、教へ未だ施さずして刑加はる。或いは行ひを改めて善を為さんと欲すれども道由毋きなり。朕甚だ之を憐れむ。夫れ刑支体を断ち、肌膚を刻むに至り、終身息まず、何ぞ其れ楚痛にして不徳なるや、豈に民の父母為るの意に称はんや。其れ肉刑を除け。」と。上曰く、「農は、天下の本なり、務め焉より大なるは莫し。今身を勤めて事に従ひて租税の賦有り、是れ本末を為す者異なる以毋し、其の農を勧むるの道に於て未だ備はらず。其れ田の租税を除け。」と。十四年冬、匈奴辺に入りて寇を為さんと謀り、朝那塞を攻め、北地の都尉卬を殺す。上乃ち三将軍を遣はして隴西・北地・上郡に軍せしめ、中尉周舎を衛将軍と為し、郎中令張武を車騎将軍と為し、渭北に軍せしむ、車千乗、騎卒十万。帝親ら自ら軍を労ひ、兵を勒して教令を申ね、軍の吏卒に賜ふ。
現代語訳
五月、斉の太倉令(穀物倉の長官)の淳于公が罪を犯して肉刑に処されることになり、詔による裁判所が逮捕して長安に移送し、拘留した。太倉公には男の子がなく、娘が五人いた。太倉公は逮捕に応じて出発しようとするとき、娘たちを罵って言った。「子を生んでも男を生まなかったから、いざというときに役に立たない」。末娘の緹縈は心を痛めて泣き、父について長安まで行き、上書して言った。「私の父は役人で、斉では皆がその清廉公正さをほめている。いま法に触れて刑罰を受けることになった。私は悲しく思う。死んだ者は二度と生き返らず、刑罰で切られた体は二度とつながらない。過ちを改めて生まれ変わろうと思っても、その道がないのだ。私は官の奴婢となって身を差し出し、父の刑罰を償いたい。どうか父が生まれ変われるようにしてほしい」。上書が天子に奏上されると、天子はその心を哀れみ悲しんで、詔を下した。「聞くところでは、有虞氏(舜)の時代には、衣服や冠に絵を描いたり、服の模様を変えたりして恥辱の刑としただけで、民は罪を犯さなかった。なぜか。この上なくよく治まっていたからである。いま法には三つの肉刑(入れ墨・鼻そぎ・足切り)があるが、悪事はやまない。その責任はどこにあるのか。朕の徳が薄く、教化が明らかでないからではないか。朕はたいへん恥ずかしく思う。教え導く道が行き届かないために、愚かな民が罪に陥るのだ。詩経に『和やかで楽しげな君子は民の父母』とある。いま人が過ちを犯すと、教えを施す前に刑罰が加えられる。行いを改めて善を行おうと思っても、その道がない者もいる。朕はたいへん哀れに思う。そもそも刑罰が手足を断ち、皮膚に刻むまでに至り、生涯消えないのは、なんと痛ましく不徳なことか。これが民の父母たる者の心にかなうだろうか。肉刑を廃止せよ」。主上は言った。「農業は天下の根本であり、これより大切な務めはない。いま身を粉にして農業に励んでいるのに、租税が課されている。これでは根本である農業に励む者と、末である商業に携わる者とで違いがなく、農業を奨励する道として不十分である。田の租税を廃止せよ」。十四年(前166年)冬、匈奴が辺境に侵入して略奪しようと企て、朝那の要塞を攻め、北地郡の都尉の卬を殺した。主上はそこで三人の将軍を派遣して隴西・北地・上郡に駐屯させ、中尉の周舎を衛将軍、郎中令の張武を車騎将軍として渭水の北に駐屯させた。その兵力は車千両、騎兵十万であった。帝は自ら軍を慰労し、兵を整えて命令を繰り返し伝え、軍の役人や兵に褒美を与えた。
解説
関連する章句
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史記 扁鵲倉公列伝文帝の四年中、人上書して意を言ふ。刑罪を以て当に伝して西のかた長安に之くべし。意に五女有り、随ひて泣く。意怒りて罵りて曰く、「子を生むも男を生まず。緩急に使ふべき者無し」と。是に於て少女緹縈父の言に傷み、乃ち父に随ひて西す。上書して曰く、「妾が父吏と為り、斉中其の廉平を称す。今法に坐して当に刑せらるべし。妾切に痛む、死者は復た生くべからず、而して刑せらるる者は復た続くべからず。過を改めて自ら新たにせんと欲すと雖も、其の道由る莫く、終に得べからず。妾願はくは身を入れて官婢と為り、以て父の刑罪を贖ひ、行ひを改めて自ら新たにするを得しめん」と。書聞す。上其の意を悲しみ、此の歳中に亦肉刑の法を除く。
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史記 孝文本紀太尉身ら襄平侯通を率ゐて節を持ちて詔を承けて北軍に入る。典客劉掲身ら趙王呂禄の印を奪ふ。太尉勃に封を益すこと万戸、金五千斤を賜ふ。丞相陳平・灌将軍嬰に邑各々三千戸、金二千斤。朱虚侯劉章・襄平侯通・東牟侯劉興居に邑各々二千戸、金千斤。典客掲を封じて陽信侯と為し、金千斤を賜ふ。」と。十二月、上曰く、「法は、治の正なり、暴を禁じて善人を率ゐる所以なり。今法を犯して已に論ぜらるるに、而して罪毋き父母妻子同産をして之に坐せしめ、及び収帑と為す、朕甚だ取らず。其れ之を議せよ。」と。有司皆曰く、「民自ら治むる能はず、故に法を為りて以て之を禁ず。相坐し坐して収むるは、其の心を累して、法を犯すことを重んぜしむる所以なり、従りて来たる所遠し。故の如くするが便なり。」と。上曰く、「朕聞く法正しければ則ち民愨(つつし)み、罪当たれば則ち民従ふと。且つ夫れ民を牧して之を善に導く者は、吏なり。其れ既に導く能はず、又不正の法を以て之を罪す、是れ反つて民を害して暴を為す者なり。何を以て之を禁ぜん。朕未だ其の便なるを見ず、其れ孰(つらつら)之を計れ。」と。有司皆曰く、「陛下大恵を加ふ、徳甚だ盛んなり、臣等の及ぶ所に非ざるなり。請ふ詔書を奉じて、収帑諸相坐の律令を除かん。」と。正月、有司言ひて曰く、「蚤く太子を建つるは、宗廟を尊ぶ所以なり。請ふ太子を立てん。」と。上曰く、「朕既に不徳なり、上帝神明未だ歆享せず、天下の人民未だ嗛志有らず。今縦ひ博く天下の賢聖有徳の人を求めて天下を禅(ゆづ)る能はずとも、而して豫め太子を建つと曰ふは、是れ吾が不徳を重ぬるなり。天下を何と謂はん。其れ之を安んぜよ。」と。有司曰く、「豫め太子を建つるは、宗廟社稷を重んじて、天下を忘れざる所以なり。」と。上曰く、「楚王は、季父なり、春秋高く、天下の義理を閲すること多し、国家の大体に明らかなり。呉王は朕に於て、兄なり、恵仁にして以て徳を好む。
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史記 孝文本紀因りて各々其の任職を飭(ととの)へ、務めて繇費を省きて以て民に便ならしめよ。朕既に遠く徳する能はず、故に憪然として外人の非有るを念ふ、是を以て備へを設けて未だ息まず。今縦ひ辺の屯戍を罷むる能はずとも、而して又兵を飭へて衛を厚くす、其れ衛将軍の軍を罷めよ。太僕の見馬は財(わづ)かに足るを遺し、余は皆以て伝置に給せよ。」と。正月、上曰く、「農は、天下の本なり、其れ籍田を開け、朕親ら率ゐて耕し、以て宗廟の粢盛に給せん。」と。三月、有司皇子を立てて諸侯王と為さんことを請ふ。上曰く、「趙の幽王幽死す、朕甚だ之を憐れむ、已に其の長子遂を立てて趙王と為す。遂の弟辟彊及び斉の悼恵王の子朱虚侯章・東牟侯興居功有り、王とすべし。」と。乃ち趙の幽王の少子辟彊を立てて河間王と為し、斉の劇郡を以て朱虚侯を立てて城陽王と為し、東牟侯を立てて済北王と為し、皇子武を代王と為し、子参を太原王と為し、子揖を梁王と為す。
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史記 孝文本紀民或いは上を祝詛して以て相約結して後に相謾(あざむ)く、吏以て大逆と為し、其れ他言有れば、而して吏又以て誹謗と為す。此れ細民の愚にして知る無くして死に抵(いた)る、朕甚だ取らず。今より以来、此を犯す者有るも聴治する勿かれ。」と。九月、初めて郡国の守相と銅虎符・竹使符を為る。三年十月丁酉晦、日之を食する有り。十一月、上曰く、「前日(計)[詔]して列侯を遣はして国に之かしむ、或いは辞して未だ行かず。丞相は朕の重んずる所なり、其れ朕の為に列侯を率ゐて国に之け。」と。絳侯勃丞相を免ぜられて国に就く、太尉潁陰侯嬰を以て丞相と為す。太尉の官を罷め、丞相に属せしむ。四月、城陽王章薨ず。淮南王長従者魏敬と辟陽侯審食其を殺す。五月、匈奴北地に入り、河南に居りて寇を為す。帝初めて甘泉に幸す。六月、帝曰く、「漢匈奴と約して昆弟と為り、辺境を害せしむる毋し、匈奴に輸遺する所以甚だ厚し。今右賢王其の国を離れ、衆を将ゐて河南の降地に居る、常の故に非ず、塞に往来して近づき、吏卒を捕殺し、保塞の蛮夷を駆り、其の故に居るを得ざらしめ、辺吏を陵轢し、入りて盗む、甚だ敖(おご)りて無道なり、約に非ざるなり。其れ辺吏の騎八万五千を発して高奴に詣らしめ、丞相潁陰侯灌嬰を遣はして匈奴を撃たしめよ。」と。匈奴去る、中尉の材官を発して衛将軍に属せしめて長安に軍せしむ。辛卯、帝甘泉より高奴に之き、因りて太原に幸し、故の群臣に見えて、皆之に賜ふ。功を挙げ賞を行ひ、諸民の里に牛酒を賜ふ。晋陽・中都の民を復すること三歳。留まりて太原に游ぶこと十余日。済北王興居帝の代に之き、往きて胡を撃たんと欲すと聞き、乃ち反し、兵を発して滎陽を襲はんと欲す。是に於て詔して丞相の兵を罷め、棘蒲侯陳武を遣はして大将軍と為し、十万を将ゐて往きて之を撃たしむ。祁侯賀を将軍と為し、滎陽に軍せしむ。七月辛亥、帝太原より長安に至る。
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史記 平準書宮室の修、此に由りて日々に麗し。乃ち緡銭を諸官に分ち、而して水衡・少府・大農・太仆各々農官を置き、往往にして郡県に即きて没入せし田に比して之に田す。其の没入せし奴婢は、諸苑に分ちて狗馬禽獣を養はしめ、及び諸官に与ふ。諸官益々雑置して多く、徒・奴婢衆く、而して河を下りて漕すること度り四百万石、及び官自ら糴して乃ち足る。所忠言ふ、「世家の子弟・富人、或いは鶏を闘はせ狗馬を走らせ、弋猟・博戯して、斉民を乱す」と。乃ち諸々の令を犯すものを徴し、相引くこと数千人、命じて「株送徒」と曰ふ。財を入るる者は郎に補するを得、郎の選衰ふ。是の時、山東河菑を被り、及び歳登らざること数年、人或いは相食ひ、方一二千里。天子之を憐み、詔して曰く、「江南は火耕水耨す。饑民をして流れて江淮の間に就食するを得しめ、留まらんと欲せば、留まり処らしめよ」と。使を遣はすこと冠蓋道に相属き、之を護り、巴蜀の粟を下して以て之を振ふ。其の明年、天子始めて郡国を巡る。東のかた河を度る。河東の守、行の至るを意はず、辨ぜず、自殺す。行きて西のかた隴を踰ゆ。隴西の守、行の往くこと卒かなるを以て、天子の従官食を得ず、隴西の守自殺す。是に於て上、北のかた蕭関を出で、数万騎を従へ、新秦中に猟し、以て辺兵を勒して帰る。新秦中或いは千里に亭徼無し。是に於て北地の太守以下を誅し、而して民をして辺県に畜牧するを得しめ、官は馬母を仮し、三歳にして帰し、息の什一に及べば、以て告緡を除き、用て新秦中を充仞す。既に宝鼎を得、后土・太一の祠を立て、公卿封禅の事を議す。而して天下の郡国皆予め道橋を治め、故宮を繕ひ、馳道に当る県に及びては、県は官儲を治め、供具を設け、而して望みて以て幸を待つ。其の明年、南越反し、西羌辺を侵して桀を為す。
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史記 孝文本紀十六年、上親ら渭陽の五帝廟を郊見し、亦夏を以て礼に答へて赤を尚ぶ。十七年、玉杯を得たり、刻して曰く「人主延寿」と。是に於て天子始めて更めて元年と為し、天下をして大いに酺せしむ。其の歳、新垣平の事覚れ、三族を夷ぐ。後二年、上曰く、「朕既に明らかならず、遠く徳する能はず、是を以て方外の国をして或いは寧息せざらしむ。夫れ四荒の外其の生に安んぜず、封畿の内勤労して処らず、二者の咎は、皆朕の徳薄くして遠く達する能はざるに自る。間者(このごろ)累年、匈奴并びに辺境を暴し、多く吏民を殺す、辺臣兵吏又吾が内志を諭す能はず、以て吾が不徳を重ぬるなり。夫れ久しく難を結び兵を連ねば、中外の国将に何を以てか自ら寧んぜん。今朕夙に興き夜に寐ね、天下に勤労し、万民を憂苦し、之が為に怛惕して安からず、未だ嘗て一日も心に忘れず、故に使者を遣はして冠蓋相望み、軼を道に結び、以て朕の意を単于に諭す。今単于古の道に反り、社稷の安きを計り、万民の利を便とし、親ら朕と倶に細過を棄て、偕に大道に之き、兄弟の義を結び、以て天下元元の民を全うす。和親已に定まる、今年より始む。」と。後六年冬、匈奴三万人上郡に入り、三万人雲中に入る。中大夫令勉を以て車騎将軍と為し、飛狐に軍せしむ。故の楚の相蘇意を将軍と為し、句注に軍せしむ。将軍張武北地に屯す。河内の守周亜夫を将軍と為し、細柳に居らしむ。宗正劉礼を将軍と為し、霸上に居らしむ。祝茲侯棘門に軍す。以て胡に備ふ。数月にして、胡人去る、亦罷む。天下旱し、蝗あり。帝恵を加ふ。諸侯をして入貢する毋からしめ、山沢を弛め、諸々の服御狗馬を減じ、郎吏の員を損し、倉庾を発して以て貧民を振ひ、民爵を売るを得たり。
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