史記 / 孝文本紀
十三年夏,上曰:「蓋聞天道禍自怨起而福繇德興。百官之非,宜由朕躬。今祕祝之官移過于下,以彰吾之不德,朕甚不取。其除之。
新字:十三年夏,上曰:「蓋聞天道禍自怨起而福繇徳興。百官之非,宜由朕躬。今秘祝之官移過于下,以彰吾之不徳,朕甚不取。其除之。
書き下し
上曰く、「蓋し聞く、天道は禍自ら怨より起こり福は徳に繇りて興ると。百官の非は、宜しく朕の躬に由るべし。今祕祝の官過を下に移し、以て吾の不徳を彰す、朕甚だ取らず。其れ之を除け」と。
現代語訳
帝は言った。「私はこう聞いている。天の道では、禍いはおのずと怨みから起こり、福は徳によって興る、と。百官の過ちは、そもそも私自身に由来するはずである。ところが今、祈祷官が過ちを下の者に移し替えて、それによって私の不徳を覆い隠している。私はそれをまったくよしとしない。これを廃止せよ」。
解説
「問題やうまくいかないことの責任を、部下に転嫁せず、まず自らの至らなさとして引き受ける」——文帝が、責任転嫁の慣行を廃止した一段です。漢の文帝は、こう述べて、「祕祝(ひしゅく)」という官職の慣行を、廃止しました。祕祝とは、災いが起きたとき、その責任(過ち)を、天に対して、皇帝から、臣下や民の側へと、(ひそかに祈って)なすりつける、という役目でした。文帝は、この慣行を、こう批判します。「私はこう聞いている。天の道においては、災い(禍)は、(人々の)怨みから起こり、幸い(福)は、(為政者の)徳によって興る、と。ならば、多くの役人たちの過ち(百官之非)も、(その責任は、)まさに、この私自身に、帰すべきものだ(宜由朕躬)。(上に立つ私の徳が足りないから、下でも過ちが起きるのだ。)」と。問題の責任を、下(臣下・民)にではなく、まず自分自身に求めたのです。そして、続けます。「それなのに、今、祕祝の官は、(災いの)責任を、下の者へと、なすりつけている。これは、(かえって、責任転嫁をする)私の不徳を、天下に、はっきりと示すようなものだ(以彰吾之不德)。私は、まったく、感心しない。この慣行を、廃止せよ(其除之)」と。災いの責任を、部下や民に転嫁するのではなく、自らの不徳として引き受けることこそが、上に立つ者の、あるべき姿だ、というのです。ここに、責任の引き受け方についての教訓があります。第一に、問題や、うまくいかないこと、災いの責任を、部下や下の者に転嫁するのではなく、まず、上に立つ自分自身の至らなさとして、引き受けること(百官之非、宜由朕躬)。組織で起きた問題は、突き詰めれば、それを率いる者の責任である。第二に、責任を下になすりつけること(祕祝=責任転嫁の慣行)は、その場は取り繕えても、かえって、その者の器の小ささ(不徳)を、周囲に露呈させるということ(以彰吾之不德)。責任逃れは、信頼を失わせる。第三に、上に立つ者が、進んで責任を引き受ける姿勢こそが、部下の信頼を集め、組織を引き締めるということ。組織やリーダーの立場で、問題の責任を部下に転嫁せずまず自らの至らなさとして引き受けること、責任逃れがかえって器の小ささを露呈させると知ること、そして進んで責任を引き受ける姿勢が信頼を集めると理解すること——文帝の詔は、責任を引き受けるリーダーの徳を教えます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
漢文帝秘祝を除く責任を部下に転嫁しない百官之非宜由朕躬問題は率いる者の責任責任逃れは器の小ささを露呈
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