呻吟語 / 内篇・修身・善言を聞くこと欣欣然たり
聖人之聞善言也,欣欣然惟恐尼之,故和之以同言,以開其樂告之誠;聖人之聞過言也,引引然惟恐拂之,故內之以溫色,以誘其忠告之實。何也?進德改過為其有益於我也。此之謂至知。
新字:聖人之聞善言也,欣欣然惟恐尼之,故和之以同言,以開其楽告之誠;聖人之聞過言也,引引然惟恐払之,故内之以温色,以誘其忠告之実。何也?進徳改過為其有益於我也。此之謂至知。
書き下し
聖人の善言を聞くや、欣欣然として惟だ之を尼むるを恐る。故に之に和するに同言を以てし、以て其の樂しみて告ぐるの誠を開く。聖人の過言を聞くや、引引然として惟だ之に拂ふを恐る。故に之を內るるに溫色を以てし、以て其の忠告の實を誘ふ。何ぞや。德に進み過ちを改むるは其の我に益有るが為なり。此れを之れ至知と謂ふ。
現代語訳
聖人が善い言葉を聞くときは、嬉しそうにして、ただそれを止めてしまうことを恐れます。だから同じ言葉で受け合い、相手が喜んで語る誠実さを引き出します。聖人が自分の過ちを指摘する言葉を聞くときは、身を引き寄せるようにして、ただ相手に逆らうことを恐れます。だから温かい顔色で受け入れ、忠告の中身を引き出します。なぜでしょうか。徳が進み過ちが改まるのは、自分の利益になるからです。これを至上の知と言います。
解説
人の話の受け方を、二つの場面で描きます。良い話には同じ言葉で受け合い、耳の痛い話には温かい顔で受け入れる。どちらも、相手が話し続けられるようにするための工夫です。そして理由は明確で、自分の利益になるからだと言います。謙虚さを道徳ではなく利得として説明するところが呂坤らしく、これを至知と呼びます。人から本音を引き出す実務の技術として読めます。
この章句が説くこと
傾聴忠告受容態度利益
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