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史記 / 孝文本紀

乃詔有司曰:「濟北王背德反上,詿誤吏民,為大逆。濟北吏民兵未至先自定,及以軍地邑降者,皆赦之,復官爵。與王興居去來,亦赦之。」八月,破濟北軍,虜其王。赦濟北諸吏民與王反者。六年,有司言淮南王長廢先帝法,不聽天子詔,居處毋度,出入擬於天子,擅為法令,與棘蒲侯太子奇謀反,遣人使閩越及匈奴,發其兵,欲以危宗廟社稷。群臣議,皆曰「長當棄市」帝不忍致法於王,赦其罪,廢勿王。群臣請處王蜀嚴道、邛都,帝許之。長未到處所,行病死,上憐之。後十六年,追尊淮南王長謚為厲王,立其子三人為淮南王、衡山王、廬江王。

新字:乃詔有司曰:「済北王背徳反上,詿誤吏民,為大逆。済北吏民兵未至先自定,及以軍地邑降者,皆赦之,復官爵。与王興居去来,亦赦之。」八月,破済北軍,虜其王。赦済北諸吏民与王反者。六年,有司言淮南王長廃先帝法,不聴天子詔,居処毋度,出入擬於天子,擅為法令,与棘蒲侯太子奇謀反,遣人使閩越及匈奴,発其兵,欲以危宗廟社稷。群臣議,皆曰「長当棄市」帝不忍致法於王,赦其罪,廃勿王。群臣請処王蜀厳道、邛都,帝許之。長未到処所,行病死,上憐之。後十六年,追尊淮南王長謚為厲王,立其子三人為淮南王、衡山王、廬江王。

書き下し

乃ち有司に詔して曰く、「済北王徳に背き上に反し、吏民を詿誤(くわいご)す、大逆為り。済北の吏民の兵未だ至らざるに先づ自ら定め、及び軍地邑を以て降る者は、皆之を赦し、官爵を復せよ。王興居と去来せしも、亦之を赦せ。」と。八月、済北の軍を破り、其の王を虜にす。済北の諸吏民の王と反せし者を赦す。六年、有司言ふ淮南王長先帝の法を廃し、天子の詔を聴かず、居処度毋く、出入天子に擬し、擅に法令を為り、棘蒲侯の太子奇と謀反し、人を遣はして閩越及び匈奴に使ひせしめ、其の兵を発し、以て宗廟社稷を危ふくせんと欲すと。群臣議す、皆曰く「長は当に棄市すべし」と。帝法を王に致すに忍びず、其の罪を赦し、廃して王とする勿し。群臣王を蜀の厳道・邛都に処らしめんことを請ふ、帝之を許す。長未だ処所に到らず、行くゆく病みて死す、上之を憐れむ。後十六年、淮南王長を追尊して謚して厲王と為し、其の子三人を立てて淮南王・衡山王・廬江王と為す。

現代語訳

そこで役人たちに詔を下した。「済北王は恩徳に背いて主上に反逆し、役人や民を惑わせて誤らせた。これは大逆である。済北の役人や民で、朝廷の兵が到着する前に自ら反乱から離れて落ち着いた者、および軍や土地・町ごと降った者は、皆赦して官位と爵位を元に戻せ。王興居と行き来していた者も、また赦せ」。八月、済北の軍を破り、その王を捕虜にした。済北の役人や民で王とともに反乱に加わった者は赦した。六年(前174年)、役人たちが次のように言った。淮南王劉長は先帝の法を廃し、天子の詔に従わず、暮らしぶりに節度がなく、出入りは天子をまねており、勝手に法令を作り、棘蒲侯の太子の奇とともに謀反を企て、人を閩越(今の福建の国)や匈奴に使者として送り、その兵を動員して宗廟と社稷を危うくしようとした、と。群臣が協議し、皆「劉長は市場で死刑にして遺体をさらすべきだ」と言った。帝は王に法を適用するのに忍びず、その罪を赦し、王位を廃して王としないことにした。群臣が王を蜀の厳道・邛都に住まわせるよう願い出たので、帝はこれを許した。劉長は流刑地に着かないうちに、途中で病死した。主上はこれを哀れんだ。その後、十六年になって、淮南王劉長に諡を追贈して厲王とし、その子三人を淮南王・衡山王・廬江王に立てた。

解説

済北王の反乱の処理と、弟の淮南王劉長の謀反を描く段です。文帝は済北王の反乱に対し、自ら反乱から離れた者や降伏した者は皆赦して官位を戻すと詔しました。首謀者と従った者を分け、従った者に戻る道を開いたのです。弟の淮南王劉長は、天子のように振る舞い、勝手に法令を作り、異民族と結んで謀反を企てました。群臣は死刑を求めましたが、文帝は弟を法で裁くに忍びず、王位を廃して蜀へ流すことにとどめます。しかし劉長は護送の途中で死にました。史記の淮南衡山列伝によれば、劉長は食を断って死んだとされ、民間では兄弟が相容れなかったと風刺する歌も作られました。文帝は後に劉長の子三人を王に立てて償おうとしています。寛大さと法の公正、そして肉親の情とをどう両立させるか。組織の身内の不祥事に向き合う難しさを示す段です。

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