史記 / 淮南衡山列伝
以章臣安之罪,使天下明知臣子之道,毋敢復有邪僻倍畔之意。」丞相弘、廷尉湯等以聞,天子使宗正以符節治王。未至,淮南王安自剄殺。王后荼、太子遷諸所與謀反者皆族。天子以伍被雅辭多引漢之美,欲勿誅。廷尉湯曰:「被首為王畫反謀,被罪無赦。」遂誅被。國除為九江郡。衡山王賜,王后乘舒生子三人,長男爽為太子,次男孝,次女無采。又姬徐來生子男女四人,美人厥姬生子二人。衡山王、淮南王兄弟相責望禮節,閒不相能。衡山王聞淮南王作為畔逆反具,亦心結賓客以應之,恐為所并。衡山王入朝,其謁者衛慶有方術,欲上書事天子,王怒,故劾慶死罪,彊榜服之。衡山內史以為非是,卻其獄。王使人上書告內史,內史治,言王不直。王又數侵奪人田,壞人冢以為田。有司請逮治衡山王。天子不許,為置吏二百石以上。衡山王以此恚,與奚慈、張廣昌謀,求能為兵法候星氣者,日夜從容王密謀反事。王后乘舒死,立徐來為王后。厥姬俱幸。兩人相妒,厥姬乃惡王后徐來於太子曰:「徐來使婢蠱道殺太子母。」太子心怨徐來。徐來兄至衡山,太子與飲,以刃刺傷王后兄。王后怨怒,數毀惡太子於王。
新字:以章臣安之罪,使天下明知臣子之道,毋敢復有邪僻倍畔之意。」丞相弘、廷尉湯等以聞,天子使宗正以符節治王。未至,淮南王安自剄殺。王后荼、太子遷諸所与謀反者皆族。天子以伍被雅辞多引漢之美,欲勿誅。廷尉湯曰:「被首為王画反謀,被罪無赦。」遂誅被。国除為九江郡。衡山王賜,王后乗舒生子三人,長男爽為太子,次男孝,次女無采。又姫徐来生子男女四人,美人厥姫生子二人。衡山王、淮南王兄弟相責望礼節,閒不相能。衡山王聞淮南王作為畔逆反具,亦心結賓客以応之,恐為所并。衡山王入朝,其謁者衛慶有方術,欲上書事天子,王怒,故劾慶死罪,彊榜服之。衡山内史以為非是,却其獄。王使人上書告内史,内史治,言王不直。王又数侵奪人田,壊人冢以為田。有司請逮治衡山王。天子不許,為置吏二百石以上。衡山王以此恚,与奚慈、張広昌謀,求能為兵法候星気者,日夜従容王密謀反事。王后乗舒死,立徐来為王后。厥姫倶幸。両人相妬,厥姫乃悪王后徐来於太子曰:「徐来使婢蠱道殺太子母。」太子心怨徐来。徐来兄至衡山,太子与飲,以刃刺傷王后兄。王后怨怒,数毀悪太子於王。
書き下し
以て臣安の罪を章かにし、天下をして明らかに臣子の道を知らしめ、敢て復た邪僻倍畔の意有らしむる毋からん」と。丞相弘・廷尉湯等以て聞す、天子宗正をして符節を以て王を治めしむ。未だ至らざるに、淮南王安自剄して殺す。王后荼・太子遷諸々の与に謀反せし者皆族せらる。天子伍被の雅辞多く漢の美を引くを以て、誅すること勿からんと欲す。廷尉湯曰く、「被は首として王の為に反謀を画す、被の罪赦す無し」と。遂に被を誅す。国除かれて九江郡と為る。衡山王賜、王后乗舒子三人を生む、長男爽を太子と為し、次男孝、次女無采。又姫徐来子男女四人を生み、美人厥姫子二人を生む。衡山王・淮南王の兄弟相礼節を責望し、間に相能くせず。衡山王淮南王の畔逆の反具を作為するを聞き、亦心に賓客に結びて以て之に応ぜんとす、并せらるるを恐るればなり。衡山王入朝す、其の謁者衛慶方術有り、上書して天子に事へんと欲す、王怒り、故に慶を死罪に劾し、彊ひて榜ちて之を服せしむ。衡山の内史以て是に非ずと為し、其の獄を卻く。王人をして上書して内史を告げしむ、内史治めらるるに、王の直からざるを言ふ。王又数々人の田を侵奪し、人の冢を壊ちて以て田と為す。有司衡山王を逮治せんことを請ふ。天子許さず、為に吏二百石以上を置く。衡山王此を以て恚り、奚慈・張広昌と謀り、能く兵法を為し星気を候ふ者を求め、日夜王に従容して密かに反事を謀る。王后乗舒死し、徐来を立てて王后と為す。厥姫倶に幸せらる。両人相妒み、厥姫乃ち王后徐来を太子に悪みて曰く、「徐来婢をして蠱道もて太子の母を殺さしむ」と。太子心に徐来を怨む。徐来の兄衡山に至る、太子与に飲み、刃を以て王后の兄を刺傷す。王后怨怒し、数々太子を王に毀悪す。
現代語訳
これによって臣安の罪を明らかにし、天下に臣下の道をはっきりと知らしめ、二度と邪で道に外れた反逆の意図を持つ者がないようにする」。丞相の公孫弘、廷尉の張湯らがこれを上奏すると、天子は宗正に割り符と節を持たせて王を処断させることにした。宗正がまだ着かないうちに、淮南王劉安は自ら首をはねて死んだ。王后荼・太子遷をはじめ、謀反に加わった者たちはみな一族皆殺しとなった。天子は、伍被の上品な言葉に漢の美点を引いたものが多かったので、誅さないでおこうと思った。廷尉の張湯は言った。「伍被は首謀者として王のために謀反の計画を立てた。伍被の罪は赦すことができない」。こうしてついに伍被を誅した。淮南国は廃されて九江郡となった。衡山王の劉賜は、王后の乗舒が三人の子を産み、長男の爽を太子とし、次男は孝、次女は無采であった。また姫の徐来が男女四人の子を産み、美人の厥姫が二人の子を産んだ。衡山王と淮南王の兄弟は互いに礼節を責め合い、仲がうまくいかなかった。衡山王は淮南王が反逆の道具を作っていると聞き、自分も心中で賓客と結んでそれに備えようとした。淮南王に併呑されることを恐れたからである。衡山王が入朝したとき、その謁者の衛慶は方術(神仙術)の心得があり、上書して天子に仕えたいと願った。王は怒り、わざと衛慶を死罪に当たるとして弾劾し、無理に鞭打って罪を認めさせた。衡山の内史はそれは不当だとして、その裁判を退けた。王は人をやって上書させて内史を告発させたが、内史は取り調べを受けると、王のほうが正しくないと述べた。王はまた、たびたび人の田地を奪い、人の墓を壊して田にした。役人は衡山王を逮捕して取り調べるよう願い出た。天子は許さなかったが、衡山国の二百石以上の役人を朝廷が任命することにした。衡山王はこれを恨み、奚慈・張広昌と謀って、兵法に通じ星や雲気で吉凶を占える者を探し求め、彼らは日夜王のそばに仕えて、ひそかに謀反を謀った。王后の乗舒が死ぬと、徐来を王后に立てた。厥姫もともに寵愛を受けていた。二人は互いに嫉妬し、厥姫は太子に王后徐来の悪口を言った。「徐来は侍女に呪いを使わせて太子の母を殺した」。太子は心の中で徐来を恨んだ。徐来の兄が衡山に来たとき、太子は一緒に酒を飲み、刃物で王后の兄を刺して傷つけた。王后は恨み怒って、たびたび王に太子の悪口を言った。
解説
関連する章句
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史記 淮南衡山列伝中尉曰く、「臣詔を受けて使ひす、王に見ゆるを得ず」と。王念ふに独り相を殺して内史・中尉来たらずんば、益無しと、即ち相を罷む。王猶予し、計未だ決せず。太子念ふに坐する所の者は漢の中尉を刺さんと謀るなり、与に謀る所の者已に死す、以て口絶えたりと為し、乃ち王に謂ひて曰く、「群臣の用ふべき者は皆前に繋がる、今与に事を挙ぐるに足る者無し。王時に非ざるを以て発せば、恐らくは功無からん、臣願はくは逮に会はん」と。王も亦偸かに休まんと欲し、即ち太子に許す。太子即ち自剄するも、殊せず。伍被自ら吏に詣り、因りて淮南王と謀反するを告ぐ、反の蹤跡具に此くの如し。吏因りて太子・王后を捕へ、王宮を囲み、尽く王の与に謀反せし賓客の国中に在る者を求め捕へ、反具を索め得て以て聞す。上公卿に下して治めしむ、連引する所の淮南王と謀反せし列侯二千石豪傑数千人、皆罪の軽重を以て誅を受く。衡山王賜は、淮南王の弟なり、当に坐して収めらるべし、有司衡山王を逮捕せんことを請ふ。天子曰く、「諸侯は各々其の国を以て本と為す、当に相坐すべからず。諸侯王・列侯と会して丞相・諸侯に肄して議せしめよ」と。趙王彭祖・列侯臣譲等四十三人議して、皆曰く、「淮南王安甚だ大逆無道、謀反明白なり、当に誅に伏すべし」と。膠西王臣端議して曰く、「淮南王安法を廃し邪を行ひ、詐偽の心を懐き、以て天下を乱し、百姓を熒惑し、宗廟に倍畔し、妄りに妖言を作す。春秋に曰く『臣は将する無し、将すれば誅す』と。安の罪は将より重く、謀反の形已に定まる。臣端の見る所の其の書・節・印・図及び他の逆無道の事の験明白なり、甚だ大逆無道なり、当に其の法に伏すべし。而して国の吏二百石以上及び比する者、宗室近幸の臣の法中に在らざる者を論ずるに、相教ふること能はず、当に皆官を免じ爵を削りて士伍と為し、宦して吏と為るを得る毋かるべし。其の吏に非ざるものは、他は死を贖ふに金二斤八両とせん。
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史記 淮南衡山列伝衡山王敢て淮南王に效ひて天子の位に即かんことを求むるに非ず、淮南の起ちて其の国を并せんことを畏れ、以為へらく淮南已に西せば、兵を発して江淮の間を定めて之を有たんと、望むこと是くの如し。秋、衡山王当に朝すべし、六年淮南を過ぐ、淮南王乃ち昆弟の語をなし、前の卻を除き、反具を約束す。衡山王即ち上書して病と謝す、上書を賜ひて朝せざらしむ。中、衡山王人をして上書して太子爽を廃し、孝を立てて太子と為さんことを請はしむ。爽聞き、即ち善くする所の白嬴をして長安に之きて上書せしめ、孝の輣車・鏃矢を作り、王の御者と姦するを言ひ、以て孝を敗らんと欲す。白嬴長安に至る、未だ上書するに及ばざるに、吏嬴を捕へ、淮南の事を以て繋ぐ。王爽の白嬴をして上書せしむるを聞き、国の陰事を言はんことを恐れ、即ち上書して反りて太子爽の為す所の不道にして棄市の罪なる事を告ぐ。事沛郡に下して治む。元狩元年冬、有司公卿沛郡に下して淮南と謀反せし所の者を求め捕へしむるも未だ得ず、陳喜を衡山王の子孝の家に得。吏孝の首として喜を匿すを劾す。孝以為へらく陳喜は雅より数々王と謀反を計る、其の之を発せんことを恐る、律に先づ自ら告ぐれば其の罪を除くと聞き、又太子の白嬴をして上書して其の事を発せしむるを疑ひ、即ち先づ自ら告げ、与に謀反せし所の者救赫・陳喜等を告ぐ。廷尉治験し、公卿衡山王を逮捕して之を治めんことを請ふ。天子曰く、「捕ふる勿かれ」と。中尉安・大行息を遣はして即に王に問はしむ、王具に情実を以て対ふ。吏皆王宮を囲みて之を守る。中尉・大行還り、以て聞す、公卿宗正・大行と沛郡とを遣はして雑へて王を治めんことを請ふ。王聞き、即ち自剄して殺す。孝は先づ自ら反を告ぐ、其の罪を除く。王の御婢と姦するに坐し、棄市せらる。王后徐来も亦前の王后乗舒を蠱殺するに坐し、及び太子爽王の不孝を告ぐるに坐し、皆棄市せらる。諸々の衡山王と謀反せし者皆族せらる。国除かれて衡山郡と為る。
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史記 淮南衡山列伝淮南王に女陵有り、慧にして、口弁有り。王陵を愛し、常に多く金銭を予へ、為に長安に中詗し、上の左右に約結せしむ。上淮南王に几杖を賜ひ、朝せざらしむ。淮南王の王后荼、王之を愛幸す。王后太子遷を生む、遷王皇太后の外孫修成君の女を取りて妃と為す。王謀りて反具を為る、太子妃の知りて内より事を泄らさんことを畏れ、乃ち太子と謀り、詐りて愛せず、三月席を同じくせざらしむ。王乃ち詳りて太子を怒ると為し、太子を閉ぢて妃と内を同じくせしむること三月、太子終に妃に近づかず。妃去らんことを求む、王乃ち上書して謝して帰して之を去らしむ。王后荼・太子遷及び女陵王に愛幸せらるるを得て、国権を擅にし、民の田宅を侵奪し、妄りに人を繋ぐを致す。太子剣を用ふるを学び、自ら以為へらく人及ぶ莫しと、郎中雷被巧みなりと聞き、乃ち召して与に戯る。被一再辞譲するも、誤りて太子に中つ。太子怒り、被恐る。此の時軍に従はんと欲する者有らば輒ち京師に詣る、被即ち匈奴を奮撃せんことを願ふ。太子遷数々被を王に悪む、王郎中令をして斥け免ぜしめ、以て後を禁ぜんと欲す、被遂に亡げて長安に至り、上書して自ら明らかにす。詔して其の事を廷尉・河南に下す。河南治め、淮南の太子を逮へんとす、王・王后計りて太子を遣はす無からんと欲し、遂に兵を発して反せんとするも、計猶予し、十余日定まらず。会々詔有り、即に太子を訊ふ。是の時に当たり、淮南の相寿春の丞の太子の逮を留めて遣はさざるを怒り、不敬を劾す。王以て相に請ふ、相聴かず。王人をして上書して相を告げしむ、事廷尉に下して治む。蹤跡王に連なる、王人をして漢の公卿を候伺せしむ、公卿淮南王を逮捕して治めんことを請ふ。王事の発せんことを恐る、太子遷謀りて曰く、「漢の使ひ即し王を逮へば、王人をして衛士の衣を衣て、戟を持して庭中に居らしめ、王の旁に是に非ざる有らば、則ち之を刺殺せよ、臣も亦人をして淮南の中尉を刺殺せしめ、乃ち兵を挙ぐるも、未だ晩からず」と。
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史記 淮南衡山列伝是の時上公卿の請ひを許さず、而して漢の中尉宏を遣はして即に王を訊験せしむ。王漢の使ひの来たるを聞き、即ち太子の謀計の如くす。漢の中尉至る、王其の顔色の和らかなるを視る、王を訊ふに雷被を斥くるの事を以てするのみ、王自ら度るに何も無しと、発せず。中尉還り、以て聞す。公卿の治むる者曰く、「淮南王安匈奴を奮撃せんとする者雷被等を擁閼し、明詔を廃格す、当に棄市すべし」と。詔して許さず。公卿廃して王とする勿からんことを請ふ、詔して許さず。公卿五県を削らんことを請ふ、詔して二県を削る。中尉宏をして淮南王の罪を赦し、罰するに削地を以てせしむ。中尉淮南の界に入り、宣言して王を赦す。王初め漢の公卿之を誅せんことを請ふと聞き、未だ地を削らるるを得るを知らず、漢の使ひの来たるを聞き、其の之を捕へんことを恐れ、乃ち太子と謀りて之を刺さんとすること前計の如し。中尉至るに及び、即ち王を賀す、王故を以て発せず。其の後自ら傷みて曰く、「吾仁義を行ひて削らる、甚だ之を恥づ」と。然れども淮南王地を削られし後、其の反謀を為すこと益々甚し。諸々の使ひ道より長安より来たり、妄りに妖言を為し、上に男無く、漢治まらずと言へば、即ち喜ぶ。即し漢廷治まり、男有りと言へば、王怒り、以為へらく妄言なり、非なりと。王日夜伍被・左呉等と輿地図を案じ、兵の従りて入る所を部署す。王曰く、「上に太子無し、宮車即し晏駕せば、廷臣必ず膠東王を徴し、即かずんば常山王、諸侯并び争はん、吾以て備へ無かるべけんや。且つ吾は高祖の孫、親ら仁義を行ふ、陛下我を遇すること厚し、吾能く之を忍ぶ。万世の後、吾寧んぞ能く北面して豎子に臣事せんや」と。
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史記 淮南衡山列伝不害に子建有り、材高く気有り、常に太子の其の父を省みざるを怨望す。又時の諸侯皆子弟を分かちて侯と為すを得、而して淮南は独り二子、一は太子為り、建の父独り侯と為るを得ざるを怨む。建陰に結交し、告げて太子を敗り、其の父を以て之に代へんと欲す。太子之を知り、数々捕繋して建を榜笞す。建具に太子の謀りて漢の中尉を殺さんと欲するを知り、即ち善くする所の寿春の荘芷をして以て天子に上書せしめて曰く、「毒薬は口に苦くして病に利あり、忠言は耳に逆らひて行ひに利あり。今淮南王の孫建、材能高し、淮南王の王后荼、荼の子太子遷常に建を疾害す。建の父不害罪無きに、擅に数々捕繋し、之を殺さんと欲す。今建在り、徴して問ふべし、具に淮南の陰事を知る」と。書聞せられ、上其の事を以て廷尉に下し、廷尉河南に下して治む。是の時故の辟陽侯の孫審卿丞相公孫弘に善し、淮南厲王の其の大父を殺すを怨み、乃ち深く淮南の事を弘に購ふ、弘乃ち淮南に畔逆の計謀有るを疑ひ、深く其の獄を窮治す。河南建を治む、辞淮南の太子及び党与を引く。淮南王之を患ひ、発せんと欲し、伍被に問ひて曰く、「漢廷は治まるか乱るるか」と。伍被曰く、「天下治まれり」と。王意説ばず、伍被に謂ひて曰く、「公何を以て天下治まれりと言ふや」と。被曰く、「被窃かに朝廷の政を観るに、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、皆其の理を得、上の挙錯は古の道に遵ひ、風俗紀綱未だ欠くる所有らざるなり。重装の富賈、天下を周流し、道通ぜざる無し、故に交易の道行はる。南越賓服し、羌僰入りて献じ、東甌入りて降り、長楡を広め、朔方を開き、匈奴翅を折り翼を傷つけ、援けを失ひて振るはず。未だ古の太平の時に及ばずと雖も、然れども猶ほ治まれりと為すなり」と。王怒る、被死罪を謝す。
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史記 淮南衡山列伝臣請ふ蜀郡の厳道の邛郵に処き、其の子母を遣はして従ひて居らしめ、県為に家室を築蓋し、皆廩食し薪菜塩豉炊食器席蓐を給せん。臣等昧死して請ふ、請ふ天下に布告せん」と。制して曰く、「長に食を計りて肉日に五斤、酒二斗を給せよ。故の美人才人の幸を得たる者十人をして従ひて居らしめよ。他は可なり」と。尽く与に謀る所の者を誅す。是に於て乃ち淮南王を遣はし、載するに輜車を以てし、県をして次を以て伝へしむ。是の時袁盎上を諫めて曰く、「上素より淮南王を驕らしめ、為に厳しき傅相を置かず、故を以て此に至る。且つ淮南王人と為り剛なり、今暴かに之を摧折す。臣恐らくは卒に霧露に逢ひて病死せん。陛下弟を殺すの名有るを為さば、柰何せん」と。上曰く、「吾特だ之を苦しむるのみ、今之を復さん」と。県の淮南王を伝ふる者皆敢て車の封を発かず。淮南王乃ち侍者に謂ひて曰く、「誰か乃公を勇者と謂ふ。吾安んぞ能く勇ならん。吾驕るを以ての故に吾が過ちを聞かずして此に至る。人生一世の間、安んぞ能く邑邑たること此くの如くならんや」と。乃ち食はずして死す。雍に至る、雍の令封を発き、死を以て聞す。上哭すること甚だ悲しく、袁盎に謂ひて曰く、「吾公の言を聴かず、卒に淮南王を亡へり」と。盎曰く、「柰何ともすべからず、願はくは陛下自ら寛うせよ」と。上曰く、「之を為すこと柰何」と。盎曰く、「独り丞相・御史を斬りて以て天下に謝せば乃ち可なり」と。上即ち丞相・御史をして諸県の淮南王を伝送して封を発きて侍者に餽らざる者を逮考せしめ、皆棄市す。乃ち列侯を以て淮南王を雍に葬り、冢を守ること三十戸。孝文の八年、上淮南王を憐れむ、淮南王に子四人有り、皆七八歳、乃ち子安を封じて阜陵侯と為し、子勃を安陽侯と為し、子賜を陽周侯と為し、子良を東成侯と為す。
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