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史記 / 淮南衡山列伝

臣請處蜀郡嚴道邛郵,遣其子母從居,縣為筑蓋家室,皆廩食給薪菜鹽豉炊食器席蓐。臣等昧死請,請布告天下。」制曰:「計食長給肉日五斤,酒二斗。令故美人才人得幸者十人從居。他可。」盡誅所與謀者。於是乃遣淮南王,載以輜車,令縣以次傳。是時袁盎諫上曰:「上素驕淮南王,弗為置嚴傅相,以故至此。且淮南王為人剛,今暴摧折之。臣恐卒逢霧露病死。陛下為有殺弟之名,柰何!」上曰:「吾特苦之耳,今復之。」縣傳淮南王者皆不敢發車封。淮南王乃謂侍者曰:「誰謂乃公勇者?吾安能勇!吾以驕故不聞吾過至此。人生一世閒,安能邑邑如此!」乃不食死。至雍,雍令發封,以死聞。上哭甚悲,謂袁盎曰:「吾不聽公言,卒亡淮南王。」盎曰:「不可柰何,願陛下自寬。」上曰:「為之柰何?」盎曰:「獨斬丞相、御史以謝天下乃可。」上即令丞相、御史逮考諸縣傳送淮南王不發封餽侍者,皆棄市。乃以列侯葬淮南王於雍,守冢三十戶。孝文八年,上憐淮南王,淮南王有子四人,皆七八歲,乃封子安為阜陵侯,子勃為安陽侯,子賜為陽周侯,子良為東成侯。

新字:臣請処蜀郡厳道邛郵,遣其子母従居,県為筑蓋家室,皆廩食給薪菜塩豉炊食器席蓐。臣等昧死請,請布告天下。」制曰:「計食長給肉日五斤,酒二斗。令故美人才人得幸者十人従居。他可。」尽誅所与謀者。於是乃遣淮南王,載以輜車,令県以次伝。是時袁盎諫上曰:「上素驕淮南王,弗為置厳傅相,以故至此。且淮南王為人剛,今暴摧折之。臣恐卒逢霧露病死。陛下為有殺弟之名,柰何!」上曰:「吾特苦之耳,今復之。」県伝淮南王者皆不敢発車封。淮南王乃謂侍者曰:「誰謂乃公勇者?吾安能勇!吾以驕故不聞吾過至此。人生一世閒,安能邑邑如此!」乃不食死。至雍,雍令発封,以死聞。上哭甚悲,謂袁盎曰:「吾不聴公言,卒亡淮南王。」盎曰:「不可柰何,願陛下自寛。」上曰:「為之柰何?」盎曰:「独斬丞相、御史以謝天下乃可。」上即令丞相、御史逮考諸県伝送淮南王不発封餽侍者,皆棄市。乃以列侯葬淮南王於雍,守冢三十戸。孝文八年,上憐淮南王,淮南王有子四人,皆七八歳,乃封子安為阜陵侯,子勃為安陽侯,子賜為陽周侯,子良為東成侯。

書き下し

臣請ふ蜀郡の厳道の邛郵に処き、其の子母を遣はして従ひて居らしめ、県為に家室を築蓋し、皆廩食し薪菜塩豉炊食器席蓐を給せん。臣等昧死して請ふ、請ふ天下に布告せん」と。制して曰く、「長に食を計りて肉日に五斤、酒二斗を給せよ。故の美人才人の幸を得たる者十人をして従ひて居らしめよ。他は可なり」と。尽く与に謀る所の者を誅す。是に於て乃ち淮南王を遣はし、載するに輜車を以てし、県をして次を以て伝へしむ。是の時袁盎上を諫めて曰く、「上素より淮南王を驕らしめ、為に厳しき傅相を置かず、故を以て此に至る。且つ淮南王人と為り剛なり、今暴かに之を摧折す。臣恐らくは卒に霧露に逢ひて病死せん。陛下弟を殺すの名有るを為さば、柰何せん」と。上曰く、「吾特だ之を苦しむるのみ、今之を復さん」と。県の淮南王を伝ふる者皆敢て車の封を発かず。淮南王乃ち侍者に謂ひて曰く、「誰か乃公を勇者と謂ふ。吾安んぞ能く勇ならん。吾驕るを以ての故に吾が過ちを聞かずして此に至る。人生一世の間、安んぞ能く邑邑たること此くの如くならんや」と。乃ち食はずして死す。雍に至る、雍の令封を発き、死を以て聞す。上哭すること甚だ悲しく、袁盎に謂ひて曰く、「吾公の言を聴かず、卒に淮南王を亡へり」と。盎曰く、「柰何ともすべからず、願はくは陛下自ら寛うせよ」と。上曰く、「之を為すこと柰何」と。盎曰く、「独り丞相・御史を斬りて以て天下に謝せば乃ち可なり」と。上即ち丞相・御史をして諸県の淮南王を伝送して封を発きて侍者に餽らざる者を逮考せしめ、皆棄市す。乃ち列侯を以て淮南王を雍に葬り、冢を守ること三十戸。孝文の八年、上淮南王を憐れむ、淮南王に子四人有り、皆七八歳、乃ち子安を封じて阜陵侯と為し、子勃を安陽侯と為し、子賜を陽周侯と為し、子良を東成侯と為す。

現代語訳

どうか蜀郡の厳道県の邛郵に置き、その子とその母たちを行かせて一緒に住まわせ、県に家を建てさせ、みな官の倉から食糧を支給し、薪・野菜・塩・豆味噌・炊事道具・むしろや敷物を与えることにしたい。臣らは死を覚悟してお願いする。どうか天下に布告させていただきたい」。天子は詔して言った。「劉長の食事を計って、肉を一日五斤、酒を二斗与えよ。もとの美人・才人(側室)で寵愛を受けた者十人を一緒に住まわせよ。その他は上奏のとおりでよい」。謀に加わった者はことごとく誅された。そこで淮南王を送り出すことになり、幌付きの荷車に乗せ、県ごとに順に護送させた。このとき袁盎が主上を諫めて言った。「主上は日ごろから淮南王を甘やかし、厳しい守り役や宰相を付けなかったので、こんなことになったのだ。しかも淮南王は気性が激しい。今にわかに彼をくじけば、道中で霧や露に当たって病死してしまうのではと恐れる。陛下が弟を殺したという汚名を着ることになったら、どうするのか」。主上は言った。「わたしはただ彼を少し苦しめるだけだ。いずれ元に戻してやる」。淮南王を護送する県の者たちは、誰も車の封印を開けようとしなかった。淮南王は侍者に言った。「誰がこのわしを勇者などと言ったのか。わしのどこが勇者なものか。わしは驕っていたせいで自分の過ちを聞かず、こんなことになった。人の一生のうちで、どうしてこんな鬱々とした思いをしていられようか」。そして食を絶って死んだ。雍に着くと、雍の県令が封印を開け、死んでいることを上聞した。主上はひどく悲しんで泣き、袁盎に言った。「わたしはあなたの言うことを聞かず、とうとう淮南王を死なせてしまった」。袁盎は言った。「もうどうしようもない。どうか陛下はご自分をお責めにならないでいただきたい」。主上は言った。「どうすればよいのか」。袁盎は言った。「丞相と御史大夫を斬って天下に謝罪するしかない」。主上はすぐに丞相と御史大夫に命じて、淮南王を護送した諸県のうち、封印を開けて侍者に食事を届けなかった者を逮捕して取り調べさせ、みな棄市にした。そして列侯の礼で淮南王を雍に葬り、墓守として三十戸を置いた。孝文帝八年、主上は淮南王を哀れみ、淮南王には子が四人いて、みな七、八歳であったので、子の安を阜陵侯に、勃を安陽侯に、賜を陽周侯に、良を東成侯に封じた。

解説

淮南厲王の悲劇的な最期です。文帝は死罪を赦して蜀への流罪とし、肉や酒、側室十人まで付ける温情を示しますが、袁盎は、そもそも厳しい守り役を付けずに甘やかしたのが原因であり、気性の激しい王を急にくじけば道中で死んでしまうと警告しました。文帝は少し懲らしめるだけだと答えますが、護送の役人たちは誰も封印を開けず、厲王は「驕って自分の過ちを聞かなかった」と悔いて食を絶ち、死んでしまいます。文帝は嘆き、袁盎の「丞相と御史を斬れ」という言葉をかわして、護送の県の役人を処刑しました。責任の所在があいまいなまま、現場の者だけが罰せられた結末です。甘やかしから急な厳罰への振れ幅が人を追い詰めることと、上の判断ミスの責任を下が負わされる構図の両方が描かれています。

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