史記 / 孝文本紀
淮南王,弟也,秉德以陪朕。豈為不豫哉!諸侯王宗室昆弟有功臣,多賢及有德義者,若舉有德以陪朕之不能終,是社稷之靈,天下之福也。今不選舉焉,而曰必子,人其以朕為忘賢有德者而專於子,非所以憂天下也。朕甚不取也。」有司皆固請曰:「古者殷周有國,治安皆千餘歲,古之有天下者莫長焉,用此道也。立嗣必子,所從來遠矣。高帝親率士大夫,始平天下,建諸侯,為帝者太祖。諸侯王及列侯始受國者皆亦為其國祖。子孫繼嗣,世世弗絕,天下之大義也,故高帝設之以撫海內。今釋宜建而更選於諸侯及宗室,非高帝之志也。更議不宜。子某最長,純厚慈仁,請建以為太子。」上乃許之。因賜天下民當代父後者爵各一級封將軍薄昭為軹侯。三月,有司請立皇后。薄太后曰:「諸侯皆同姓,立太子母為皇后。」皇后姓竇氏。上為立后故,賜天下鰥寡孤獨窮困及年八十已上孤兒九歲已下布帛米肉各有數。上從代來,初即位,施德惠天下,填撫諸侯四夷皆洽驩,乃循從代來功臣。上曰:「方大臣之誅諸呂迎朕,朕狐疑,皆止朕,唯中尉宋昌勸朕,朕以得保奉宗廟。已尊昌為衛將軍,其封昌為壯武侯。諸從朕六人,官皆至九卿。」
新字:淮南王,弟也,秉徳以陪朕。豈為不予哉!諸侯王宗室昆弟有功臣,多賢及有徳義者,若舉有徳以陪朕之不能終,是社稷之霊,天下之福也。今不選舉焉,而曰必子,人其以朕為忘賢有徳者而専於子,非所以憂天下也。朕甚不取也。」有司皆固請曰:「古者殷周有国,治安皆千余歳,古之有天下者莫長焉,用此道也。立嗣必子,所従来遠矣。高帝親率士大夫,始平天下,建諸侯,為帝者太祖。諸侯王及列侯始受国者皆亦為其国祖。子孫継嗣,世世弗絶,天下之大義也,故高帝設之以撫海内。今釈宜建而更選於諸侯及宗室,非高帝之志也。更議不宜。子某最長,純厚慈仁,請建以為太子。」上乃許之。因賜天下民当代父後者爵各一級封将軍薄昭為軹侯。三月,有司請立皇后。薄太后曰:「諸侯皆同姓,立太子母為皇后。」皇后姓竇氏。上為立后故,賜天下鰥寡孤独窮困及年八十已上孤児九歳已下布帛米肉各有数。上従代来,初即位,施徳恵天下,填撫諸侯四夷皆洽驩,乃循従代来功臣。上曰:「方大臣之誅諸呂迎朕,朕狐疑,皆止朕,唯中尉宋昌勧朕,朕以得保奉宗廟。已尊昌為衛将軍,其封昌為壮武侯。諸従朕六人,官皆至九卿。」
書き下し
淮南王は、弟なり、徳を秉りて以て朕に陪す。豈に豫めせずと為さんや。諸侯王宗室昆弟に功臣有り、多く賢及び徳義有る者なり、若し有徳を挙げて以て朕の終ふる能はざるに陪せしめば、是れ社稷の霊、天下の福なり。今選挙せずして、必ず子と曰はば、人其れ朕を以て賢有徳の者を忘れて子に専らにすと為さん、天下を憂ふる所以に非ざるなり。朕甚だ取らざるなり。」と。有司皆固く請ひて曰く、「古者殷周国を有ち、治安なること皆千余歳、古の天下を有つ者焉より長きは莫し、此の道を用ゐればなり。嗣を立つるに必ず子とするは、従りて来たる所遠し。高帝親ら士大夫を率ゐ、始めて天下を平らげ、諸侯を建て、帝者の太祖と為る。諸侯王及び列侯の始めて国を受くる者も皆亦其の国の祖と為る。子孫嗣を継ぎ、世世絶えざるは、天下の大義なり、故に高帝之を設けて以て海内を撫す。今宜しく建つべきを釈きて更に諸侯及び宗室に選ぶは、高帝の志に非ざるなり。更に議するは宜しからず。子某最も長じ、純厚慈仁なり、請ふ建てて以て太子と為さん。」と。上乃ち之を許す。因りて天下の民の当に父の後に代はるべき者に爵各々一級を賜ひ、将軍薄昭を封じて軹侯と為す。三月、有司皇后を立てんことを請ふ。薄太后曰く、「諸侯皆同姓なり、太子の母を立てて皇后と為せ。」と。皇后は姓竇氏なり。上后を立つるが故を為して、天下の鰥寡孤独窮困及び年八十已上、孤児九歳已下に布帛米肉を賜ふこと各々数有り。上代より来り、初めて位に即き、徳恵を天下に施し、諸侯四夷を填撫して皆洽く驩ぶ、乃ち代より来たる功臣を循(ねぎら)ふ。上曰く、「方に大臣の諸呂を誅して朕を迎ふるや、朕狐疑し、皆朕を止む、唯だ中尉宋昌のみ朕に勧む、朕以て宗廟を保ち奉ずるを得たり。已に昌を尊びて衛将軍と為す、其れ昌を封じて壮武侯と為せ。諸々の朕に従ひし六人、官皆九卿に至らしめよ。」と。
現代語訳
(皇帝は続けた。)「淮南王は朕の弟で、徳を守って朕を支えている。これらの者が後継者として準備されていないなどと言えようか。諸侯王や宗室の兄弟、功臣の中には、賢い者や徳義のある者が多い。もし徳のある者を選んで、朕がやり遂げられないことを補わせるなら、それこそ社稷の加護であり、天下の福である。いま人を選ばずに必ず子を立てると言えば、人々は朕が賢者や有徳者を忘れて自分の子ばかりを重んじていると思うだろう。それは天下を思う道ではない。朕は大いによしとしない」。役人たちは皆強く願って言った。「昔、殷や周が国を保ち、平和に治まったのはいずれも千年余りに及び、古来天下を保った者でこれより長い者はいない。それはこの道(子に継がせる道)を用いたからだ。跡継ぎに必ず子を立てることは、昔から行われてきたことだ。高帝は自ら士大夫を率いて初めて天下を平定し、諸侯を立て、帝王の太祖となられた。諸侯王や列侯で初めて国を受けた者も、皆その国の祖となった。子孫が跡を継いで代々絶えないのは天下の大義であり、だから高帝はこの仕組みを設けて天下を治められたのだ。いま立てるべき者をさしおいて、あらためて諸侯や宗室から選ぶのは、高帝のお考えにかなわない。これ以上議論するのはよくない。御子の某(のちの景帝)は最も年長で、純粋で温厚、情け深い方だ。どうかこの方を太子にお立ていただきたい」。主上はそこでこれを許した。これにちなんで、天下の民で父の跡を継ぐべき者に爵位を一級ずつ与え、将軍薄昭を軹侯に封じた。三月、役人たちが皇后を立てるよう願い出た。薄太后は言った。「諸侯は皆同姓(劉氏)だから、太子の母を立てて皇后とせよ」。皇后は竇氏である。主上は皇后を立てたことにちなんで、天下の妻のない老人・夫のない老人・親のない子・子のない老人・困窮者、八十歳以上の者、九歳以下の孤児に、布や絹・米・肉をそれぞれ定めた量だけ与えた。主上は代から来て初めて位に就くと、天下に徳と恵みを施し、諸侯や四方の異民族をなだめ安んじて、皆和やかに喜んだ。そこで代から一緒に来た功臣たちをねぎらった。主上は言った。「大臣たちが呂氏一族を誅して朕を迎えようとしたとき、朕は疑い迷い、皆も朕を止めた。ただ中尉宋昌だけが朕に勧め、朕はおかげで宗廟をお守りすることができた。すでに宋昌を尊んで衛将軍としたが、さらに宋昌を壮武侯に封じよ。朕に従ってきた六人は、官位を皆九卿(大臣級)に上らせよ」。
解説
関連する章句
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史記 孝文本紀太尉身ら襄平侯通を率ゐて節を持ちて詔を承けて北軍に入る。典客劉掲身ら趙王呂禄の印を奪ふ。太尉勃に封を益すこと万戸、金五千斤を賜ふ。丞相陳平・灌将軍嬰に邑各々三千戸、金二千斤。朱虚侯劉章・襄平侯通・東牟侯劉興居に邑各々二千戸、金千斤。典客掲を封じて陽信侯と為し、金千斤を賜ふ。」と。十二月、上曰く、「法は、治の正なり、暴を禁じて善人を率ゐる所以なり。今法を犯して已に論ぜらるるに、而して罪毋き父母妻子同産をして之に坐せしめ、及び収帑と為す、朕甚だ取らず。其れ之を議せよ。」と。有司皆曰く、「民自ら治むる能はず、故に法を為りて以て之を禁ず。相坐し坐して収むるは、其の心を累して、法を犯すことを重んぜしむる所以なり、従りて来たる所遠し。故の如くするが便なり。」と。上曰く、「朕聞く法正しければ則ち民愨(つつし)み、罪当たれば則ち民従ふと。且つ夫れ民を牧して之を善に導く者は、吏なり。其れ既に導く能はず、又不正の法を以て之を罪す、是れ反つて民を害して暴を為す者なり。何を以て之を禁ぜん。朕未だ其の便なるを見ず、其れ孰(つらつら)之を計れ。」と。有司皆曰く、「陛下大恵を加ふ、徳甚だ盛んなり、臣等の及ぶ所に非ざるなり。請ふ詔書を奉じて、収帑諸相坐の律令を除かん。」と。正月、有司言ひて曰く、「蚤く太子を建つるは、宗廟を尊ぶ所以なり。請ふ太子を立てん。」と。上曰く、「朕既に不徳なり、上帝神明未だ歆享せず、天下の人民未だ嗛志有らず。今縦ひ博く天下の賢聖有徳の人を求めて天下を禅(ゆづ)る能はずとも、而して豫め太子を建つと曰ふは、是れ吾が不徳を重ぬるなり。天下を何と謂はん。其れ之を安んぜよ。」と。有司曰く、「豫め太子を建つるは、宗廟社稷を重んじて、天下を忘れざる所以なり。」と。上曰く、「楚王は、季父なり、春秋高く、天下の義理を閲すること多し、国家の大体に明らかなり。呉王は朕に於て、兄なり、恵仁にして以て徳を好む。
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史記 孝文本紀方今高帝の子は独り淮南王と大王とのみ、大王又長じ、賢聖仁孝、天下に聞こゆ、故に大臣天下の心に因りて大王を迎へ立てんと欲す、大王疑ふ勿かれ。」と。代王太后に報じて之を計る、猶与して未だ定まらず。之を亀に卜す、卦兆大横を得たり。占に曰く、「大横庚庚たり、余天王と為り、夏啓以て光あり。」と。代王曰く、「寡人固より已に王為り、又何ぞ王たらん。」と。卜人曰く、「所謂天王とは乃ち天子なり。」と。是に於て代王乃ち太后の弟薄昭を遣はして往きて絳侯に見えしむ、絳侯等具に昭の為に王を迎へ立つる所以の意を言ふ。薄昭還りて報じて曰く、「信なり、疑ふべき者毋し。」と。代王乃ち笑ひて宋昌に謂ひて曰く、「果たして公の言の如し。」と。乃ち宋昌に命じて参乗せしめ、張武等六人伝に乗りて長安に詣る。高陵に至りて休止し、而して宋昌をして先づ馳せて長安に之きて変を観しむ。昌渭橋に至る、丞相以下皆迎ふ。宋昌還りて報ず。代王馳せて渭橋に至る、群臣拝謁して臣と称す。代王車を下りて拝す。太尉勃進みて曰く、「願はくは間言を請はん。」と。宋昌曰く、「言ふ所公ならば、公に之を言へ。言ふ所私ならば、王者は私を受けず。」と。太尉乃ち跪きて天子の璽符を上る。代王謝して曰く、「代邸に至りて之を議せん。」と。遂に馳せて代邸に入る。群臣従ひて至る。丞相陳平・太尉周勃・大将軍陳武・御史大夫張蒼・宗正劉郢・朱虚侯劉章・東牟侯劉興居・典客劉掲皆再拝して言ひて曰く、「子弘等は皆孝恵帝の子に非ず、当に宗廟を奉ずべからず。臣謹みて(与)陰安侯・列侯・頃王后と瑯邪王・宗室・大臣・列侯・吏二千石とに請ひて議して曰く『大王は高帝の長子なり、宜しく高帝の嗣と為るべし』と。願はくは大王天子の位に即け。」と。代王曰く、「高帝の宗廟を奉ずるは、重事なり。寡人不佞にして、以て宗廟に称ふに足らず。
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史記 孝文本紀孝文皇帝は、高祖の中子なり。高祖十一年春、已に陳豨の軍を破り、代の地を定め、立ちて代王と為り、中都に都す。太后薄氏の子なり。即位十七年、高后の八年七月、高后崩ず。九月、諸呂呂産等乱を為し、以て劉氏を危ふくせんと欲す、大臣共に之を誅し、謀りて代王を召して立てんとす、事は呂后の語中に在り。丞相陳平・太尉周勃等人をして代王を迎へしむ。代王左右の郎中令張武等に問ふ。張武等議して曰く、「漢の大臣は皆故の高帝の時の大将なり、兵に習ひ、謀詐多し、此れ其の意を属する所此に止まるに非ざるなり、特に高帝・呂太后の威を畏るるのみ。今已に諸呂を誅し、新たに血を京師に啑(すす)る、此れ大王を迎ふるを以て名と為すも、実は信ずべからず。願はくは大王疾と称して往く毋く、以て其の変を観よ。」と。中尉宋昌進みて曰く、「群臣の議は皆非なり。夫れ秦其の政を失ひ、諸侯豪桀並び起こり、人人自ら以て之を得たりと為す者万を以て数ふ、然れども卒に天子の位を践む者は、劉氏なり、天下望みを絶つ、一なり。高帝子弟を王に封じ、地犬牙相制す、此れ所謂盤石の宗なり、天下其の彊きに服す、二なり。漢興り、秦の苛政を除き、法令を約し、徳恵を施し、人人自ら安んじ、動揺し難し、三なり。夫れ呂太后の厳を以て、諸呂を立てて三王と為し、権を擅にして専制す、然り而して太尉一節を以て北軍に入り、一呼して士皆左袒し、劉氏の為にし、諸呂に叛き、卒に以て之を滅ぼす。此れ乃ち天授にして、人力に非ざるなり。今大臣変を為さんと欲すと雖も、百姓為に使はれず、其の党寧ぞ能く専一ならんや。方今内には朱虚・東牟の親有り、外には呉・楚・淮南・瑯邪・斉・代の彊を畏る。
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史記 孝文本紀願はくは楚王に請ひて宜しき者を計れ、寡人敢へて当たらず。」と。群臣皆伏して固く請ふ。代王西郷して譲る者三たび、南郷して譲る者再びす。丞相平等皆曰く、「臣伏して之を計るに、大王高帝の宗廟を奉ずること最も宜しく称ふ、天下の諸侯万民と雖も以て宜しと為す。臣等宗廟社稷の為に計る、敢へて忽せにせず。願はくは大王幸ひに臣等に聴け。臣謹みて天子の璽符を奉じて再拝して上る。」と。代王曰く、「宗室将相王列侯以為へらく寡人に宜しきは莫しと、寡人敢へて辞せず。」と。遂に天子の位に即く。群臣礼を以て次して侍す。乃ち太僕嬰と東牟侯興居とをして宮を清めしめ、天子の法駕を奉じて、代邸に迎ふ。皇帝即日夕に未央宮に入る。乃ち夜宋昌を拝して衛将軍と為し、南北軍を鎮撫せしむ。張武を以て郎中令と為し、殿中を行(めぐ)らしむ。還りて前殿に坐す。是に於て夜詔書を下して曰く、「間者(このごろ)諸呂事を用ゐて権を擅にし、大逆を為さんと謀り、以て劉氏の宗廟を危ふくせんと欲す、将相列侯宗室大臣の之を誅するに頼りて、皆其の辜に伏す。朕初めて位に即く、其れ天下に赦し、民に爵一級を賜ひ、女子百戸に牛酒、酺すること五日。」と。孝文皇帝の元年十月庚戌、故の琅邪王沢を徙し立てて燕王と為す。辛亥、皇帝阼に即き、高廟に謁す。右丞相平徙りて左丞相と為り、太尉勃を右丞相と為し、大将軍灌嬰を太尉と為す。諸呂の奪ひし所の斉楚の故地は、皆復た之を与ふ。壬子、車騎将軍薄昭を遣はして皇太后を代に迎ふ。皇帝曰く、「呂産自ら置きて相国と為り、呂禄上将軍と為り、擅に矯りて灌将軍嬰を遣はして兵を将ゐて斉を撃たしめ、劉氏に代はらんと欲す、嬰滎陽に留まりて撃たず、諸侯と合謀して以て呂氏を誅す。呂産不善を為さんと欲す、丞相陳平太尉周勃と謀りて呂産等の軍を奪ふ。朱虚侯劉章首め先づ呂産等を捕ふ。
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史記 外戚世家大臣後を立てんことを議し、外家呂氏の彊きを疾み、皆薄氏の仁善を称す、故に代王を迎へ、立てて孝文皇帝と為す、而して太后は号を改めて皇太后と曰ひ、弟薄昭は封じて軹侯と為す。薄太后の母も亦た前に死し、櫟陽の北に葬る。是に於て乃ち薄父を追尊して霊文侯と為し、会稽郡に園邑三百家を置き、長丞已下の吏冢を奉守し、寝廟の上食の祠法の如くす。而して櫟陽の北にも亦た霊文侯夫人の園を置き、霊文侯の園の儀の如くす。薄太后以為へらく、母家は魏王の後なり、早く父母を失ふと。其の薄太后を奉ずる諸魏の力有る者、是に於て魏氏を召復し、[尊を及ぼし]賞賜各々親疏を以て之を受く。薄氏の侯たる者凡そ一人。薄太后は文帝に後るること二年、孝景帝の前二年を以て崩じ、南陵に葬る。呂后長陵に会葬するを以て、故に特に自ら陵を起こし、孝文皇帝の霸陵に近くす。竇太后は、趙の清河観津の人なり。呂太后の時、竇姫良家の子を以て宮に入りて太后に侍す。太后宮人を出だして以て諸王に賜ふ、各々五人、竇姫与に行中に在り。竇姫の家清河に在り、趙に如きて家に近からんことを欲し、其の主遣の宦者の吏に請ふ、「必ず我が籍を趙の伍中に置け」と。宦者之を忘れ、誤りて其の籍を代の伍中に置く。籍奏せられ、詔して可とし、当に行くべし。竇姫涕泣し、其の宦者を怨み、往くを欲せず、相彊ひて、乃ち肯へて行く。代に至り、代王独り竇姫を幸し、女嫖を生み、後に両男を生む。而して代王の王后四男を生む。代王未だ入りて立ちて帝と為らざるに先だちて王后卒す。代王立ちて帝と為るに及び、而して王后の生む所の四男更々病死す。孝文帝立ちて数月、公卿太子を立てんことを請ふ、而して竇姫の長男最も長なり、立てて太子と為す。竇姫を立てて皇后と為し、女嫖を長公主と為す。
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史記 呂太后本紀壬戌、帝の太傅食其を以て復た左丞相と為す。戊辰、済川王を徙して梁に王とし、趙の幽王の子遂を立てて趙王と為す。朱虚侯章を遣はして諸呂氏を誅する事を以て斉王に告げ、兵を罷めしむ。灌嬰の兵も亦滎陽に罷めて帰る。諸大臣相与に陰かに謀りて曰く、「少帝及び梁・淮陽・常山王は、皆真の孝恵の子に非ざるなり。呂后計を以て詐りて他人の子を名づけ、其の母を殺し、後宮に養ひ、孝恵をして之を子とせしめ、立てて以て後と為し、及び諸王とし、以て呂氏を彊くす。今皆已に諸呂を夷滅し、而して立つる所を置かば、即ち長じて事を用ゐば、吾が属類無からん。諸王の最も賢なる者を視て之を立つるに如かず。」と。或るひと言ふ「斉の悼恵王は高帝の長子なり、今其の適子斉王為り、本を推して之を言はば、高帝の適長孫なり、立つべきなり」と。大臣皆曰く、「呂氏は外家の悪を以て幾ど宗廟を危ふくし、功臣を乱す。今斉王の母家は駟(鈞)、駟鈞は、悪人なり。即し斉王を立てば、則ち復た呂氏と為らん。」と。淮南王を立てんと欲するも、以為へらく少なりと、母家も又悪し。乃ち曰く、「代王は方今高帝の見子にして、最も長じ、仁孝寛厚なり。太后の家薄氏は謹良なり。且つ長を立つるは故より順なり、仁孝を以て天下に聞こゆ、便なり。」と。乃ち相与に共に陰かに人をして代王を召さしむ。代王人をして辞謝せしむ。再び反りて、然る後に六乗の伝に乗る。後九月晦日己酉、長安に至り、代邸に舎る。大臣皆往きて謁し、天子の璽を奉じて代王に上り、共に尊びて立てて天子と為す。代王数(しばしば)譲る、群臣固く請ふ、然る後に聴く。東牟侯興居曰く、「呂氏を誅するに吾功無し、請ふ宮を除くことを得ん。」と。乃ち太僕汝陰侯滕公と宮に入り、前みて少帝に謂ひて曰く、「足下は劉氏に非ず、当に立つべからず。」と。乃ち顧みて左右の戟を執る者に麾(さしまね)きて兵を掊(す)てて罷り去らしむ。数人の肯へて兵を去らざる有り、宦者令張沢諭告し、亦兵を去る。
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