史記 / 孝文本紀
太尉身率襄平侯通持節承詔入北軍。典客劉揭身奪趙王呂祿印。益封太尉勃萬戶,賜金五千斤。丞相陳平、灌將軍嬰邑各三千戶,金二千斤。朱虛侯劉章、襄平侯通、東牟侯劉興居邑各二千戶,金千斤。封典客揭為陽信侯,賜金千斤。」十二月,上曰:「法者,治之正也,所以禁暴而率善人也。今犯法已論,而使毋罪之父母妻子同產坐之,及為收帑,朕甚不取。其議之。」有司皆曰:「民不能自治,故為法以禁之。相坐坐收,所以累其心,使重犯法,所從來遠矣。如故便。」上曰:「朕聞法正則民愨,罪當則民從。且夫牧民而導之善者,吏也。其既不能導,又以不正之法罪之,是反害於民為暴者也。何以禁之?朕未見其便,其孰計之。」有司皆曰:「陛下加大惠,德甚盛,非臣等所及也。請奉詔書,除收帑諸相坐律令。」正月,有司言曰:「蚤建太子,所以尊宗廟。請立太子。」上曰:「朕既不德,上帝神明未歆享,天下人民未有嗛志。今縱不能博求天下賢聖有德之人而禪天下焉,而曰豫建太子,是重吾不德也。謂天下何?其安之。」有司曰:「豫建太子,所以重宗廟社稷,不忘天下也。」上曰:「楚王,季父也,春秋高,閱天下之義理多矣,明於國家之大體。吳王於朕,兄也,惠仁以好德。
新字:太尉身率襄平侯通持節承詔入北軍。典客劉掲身奪趙王呂禄印。益封太尉勃万戸,賜金五千斤。丞相陳平、灌将軍嬰邑各三千戸,金二千斤。朱虚侯劉章、襄平侯通、東牟侯劉興居邑各二千戸,金千斤。封典客掲為陽信侯,賜金千斤。」十二月,上曰:「法者,治之正也,所以禁暴而率善人也。今犯法已論,而使毋罪之父母妻子同産坐之,及為収帑,朕甚不取。其議之。」有司皆曰:「民不能自治,故為法以禁之。相坐坐収,所以累其心,使重犯法,所従来遠矣。如故便。」上曰:「朕聞法正則民愨,罪当則民従。且夫牧民而導之善者,吏也。其既不能導,又以不正之法罪之,是反害於民為暴者也。何以禁之?朕未見其便,其孰計之。」有司皆曰:「陛下加大恵,徳甚盛,非臣等所及也。請奉詔書,除収帑諸相坐律令。」正月,有司言曰:「蚤建太子,所以尊宗廟。請立太子。」上曰:「朕既不徳,上帝神明未歆享,天下人民未有嗛志。今縦不能博求天下賢聖有徳之人而禅天下焉,而曰予建太子,是重吾不徳也。謂天下何?其安之。」有司曰:「予建太子,所以重宗廟社稷,不忘天下也。」上曰:「楚王,季父也,春秋高,閲天下之義理多矣,明於国家之大体。呉王於朕,兄也,恵仁以好徳。
書き下し
太尉身ら襄平侯通を率ゐて節を持ちて詔を承けて北軍に入る。典客劉掲身ら趙王呂禄の印を奪ふ。太尉勃に封を益すこと万戸、金五千斤を賜ふ。丞相陳平・灌将軍嬰に邑各々三千戸、金二千斤。朱虚侯劉章・襄平侯通・東牟侯劉興居に邑各々二千戸、金千斤。典客掲を封じて陽信侯と為し、金千斤を賜ふ。」と。十二月、上曰く、「法は、治の正なり、暴を禁じて善人を率ゐる所以なり。今法を犯して已に論ぜらるるに、而して罪毋き父母妻子同産をして之に坐せしめ、及び収帑と為す、朕甚だ取らず。其れ之を議せよ。」と。有司皆曰く、「民自ら治むる能はず、故に法を為りて以て之を禁ず。相坐し坐して収むるは、其の心を累して、法を犯すことを重んぜしむる所以なり、従りて来たる所遠し。故の如くするが便なり。」と。上曰く、「朕聞く法正しければ則ち民愨(つつし)み、罪当たれば則ち民従ふと。且つ夫れ民を牧して之を善に導く者は、吏なり。其れ既に導く能はず、又不正の法を以て之を罪す、是れ反つて民を害して暴を為す者なり。何を以て之を禁ぜん。朕未だ其の便なるを見ず、其れ孰(つらつら)之を計れ。」と。有司皆曰く、「陛下大恵を加ふ、徳甚だ盛んなり、臣等の及ぶ所に非ざるなり。請ふ詔書を奉じて、収帑諸相坐の律令を除かん。」と。正月、有司言ひて曰く、「蚤く太子を建つるは、宗廟を尊ぶ所以なり。請ふ太子を立てん。」と。上曰く、「朕既に不徳なり、上帝神明未だ歆享せず、天下の人民未だ嗛志有らず。今縦ひ博く天下の賢聖有徳の人を求めて天下を禅(ゆづ)る能はずとも、而して豫め太子を建つと曰ふは、是れ吾が不徳を重ぬるなり。天下を何と謂はん。其れ之を安んぜよ。」と。有司曰く、「豫め太子を建つるは、宗廟社稷を重んじて、天下を忘れざる所以なり。」と。上曰く、「楚王は、季父なり、春秋高く、天下の義理を閲すること多し、国家の大体に明らかなり。呉王は朕に於て、兄なり、恵仁にして以て徳を好む。
現代語訳
(皇帝は続けた。)「太尉は自ら襄平侯紀通を率い、符節を持ち詔を受けて北軍に入った。典客劉掲は自ら趙王呂禄の印を取り上げた。そこで太尉周勃には一万戸を加増し、黄金五千斤を与える。丞相陳平と灌将軍嬰にはそれぞれ三千戸の領地と黄金二千斤を与える。朱虚侯劉章・襄平侯紀通・東牟侯劉興居にはそれぞれ二千戸の領地と黄金千斤を与える。典客劉掲を陽信侯に封じ、黄金千斤を与える」。十二月、主上は言った。「法は政治の正しい基準であり、暴虐を禁じて善人を導くためのものである。いま法を犯した者がすでに裁かれているのに、罪のない父母・妻子・兄弟まで連座させ、さらに妻子を官の奴婢として没収している。朕はこれを大いによしとしない。このことを議論せよ」。役人たちは皆言った。「民は自分で自分を治めることができないので、法を作って禁じている。連座させ、家族を没収するのは、民の心に重荷を負わせて、法を犯すことを重大に考えさせるためであり、昔から行われてきたことだ。これまで通りにするのがよい」。主上は言った。「朕は、法が正しければ民は慎み深くなり、罪に見合った罰であれば民は従うと聞いている。それに、民を治めて善に導くのは役人の務めである。導くこともできずに、そのうえ不正な法で罰するのは、かえって民を害して暴虐を行うことになる。それでどうして悪事を禁じられようか。朕にはそれがよいとは思えない。よく考えよ」。役人たちは皆言った。「陛下は大いなる恵みを加えられ、その徳はたいへん盛んで、私どもの及ぶところではない。どうか詔書を奉じて、妻子の没収や連座の律令を廃止させていただきたい」。正月、役人たちが言った。「早く太子を立てるのは宗廟を尊ぶためである。どうか太子をお立ていただきたい」。主上は言った。「朕はもとより徳が薄く、天の神々もまだ朕の祭りを喜んで受けてはおらず、天下の民もまだ満足していない。いま天下の賢く徳のある人を広く求めて位を譲ることができないにしても、あらかじめ太子を立てると言うのは、朕の不徳をさらに重ねることだ。天下にどう言い訳できようか。この件はしばらく置いておけ」。役人たちは言った。「あらかじめ太子を立てるのは、宗廟と社稷を重んじ、天下を忘れないためである」。主上は言った。「楚王は朕の叔父で、年長であり、天下の道理を多く見てきて、国家の大本をよく心得ている。呉王は朕にとって兄にあたり、情け深く徳を好む人物だ。
解説
関連する章句
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史記 孝文本紀淮南王は、弟なり、徳を秉りて以て朕に陪す。豈に豫めせずと為さんや。諸侯王宗室昆弟に功臣有り、多く賢及び徳義有る者なり、若し有徳を挙げて以て朕の終ふる能はざるに陪せしめば、是れ社稷の霊、天下の福なり。今選挙せずして、必ず子と曰はば、人其れ朕を以て賢有徳の者を忘れて子に専らにすと為さん、天下を憂ふる所以に非ざるなり。朕甚だ取らざるなり。」と。有司皆固く請ひて曰く、「古者殷周国を有ち、治安なること皆千余歳、古の天下を有つ者焉より長きは莫し、此の道を用ゐればなり。嗣を立つるに必ず子とするは、従りて来たる所遠し。高帝親ら士大夫を率ゐ、始めて天下を平らげ、諸侯を建て、帝者の太祖と為る。諸侯王及び列侯の始めて国を受くる者も皆亦其の国の祖と為る。子孫嗣を継ぎ、世世絶えざるは、天下の大義なり、故に高帝之を設けて以て海内を撫す。今宜しく建つべきを釈きて更に諸侯及び宗室に選ぶは、高帝の志に非ざるなり。更に議するは宜しからず。子某最も長じ、純厚慈仁なり、請ふ建てて以て太子と為さん。」と。上乃ち之を許す。因りて天下の民の当に父の後に代はるべき者に爵各々一級を賜ひ、将軍薄昭を封じて軹侯と為す。三月、有司皇后を立てんことを請ふ。薄太后曰く、「諸侯皆同姓なり、太子の母を立てて皇后と為せ。」と。皇后は姓竇氏なり。上后を立つるが故を為して、天下の鰥寡孤独窮困及び年八十已上、孤児九歳已下に布帛米肉を賜ふこと各々数有り。上代より来り、初めて位に即き、徳恵を天下に施し、諸侯四夷を填撫して皆洽く驩ぶ、乃ち代より来たる功臣を循(ねぎら)ふ。上曰く、「方に大臣の諸呂を誅して朕を迎ふるや、朕狐疑し、皆朕を止む、唯だ中尉宋昌のみ朕に勧む、朕以て宗廟を保ち奉ずるを得たり。已に昌を尊びて衛将軍と為す、其れ昌を封じて壮武侯と為せ。諸々の朕に従ひし六人、官皆九卿に至らしめよ。」と。
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史記 孝文本紀願はくは楚王に請ひて宜しき者を計れ、寡人敢へて当たらず。」と。群臣皆伏して固く請ふ。代王西郷して譲る者三たび、南郷して譲る者再びす。丞相平等皆曰く、「臣伏して之を計るに、大王高帝の宗廟を奉ずること最も宜しく称ふ、天下の諸侯万民と雖も以て宜しと為す。臣等宗廟社稷の為に計る、敢へて忽せにせず。願はくは大王幸ひに臣等に聴け。臣謹みて天子の璽符を奉じて再拝して上る。」と。代王曰く、「宗室将相王列侯以為へらく寡人に宜しきは莫しと、寡人敢へて辞せず。」と。遂に天子の位に即く。群臣礼を以て次して侍す。乃ち太僕嬰と東牟侯興居とをして宮を清めしめ、天子の法駕を奉じて、代邸に迎ふ。皇帝即日夕に未央宮に入る。乃ち夜宋昌を拝して衛将軍と為し、南北軍を鎮撫せしむ。張武を以て郎中令と為し、殿中を行(めぐ)らしむ。還りて前殿に坐す。是に於て夜詔書を下して曰く、「間者(このごろ)諸呂事を用ゐて権を擅にし、大逆を為さんと謀り、以て劉氏の宗廟を危ふくせんと欲す、将相列侯宗室大臣の之を誅するに頼りて、皆其の辜に伏す。朕初めて位に即く、其れ天下に赦し、民に爵一級を賜ひ、女子百戸に牛酒、酺すること五日。」と。孝文皇帝の元年十月庚戌、故の琅邪王沢を徙し立てて燕王と為す。辛亥、皇帝阼に即き、高廟に謁す。右丞相平徙りて左丞相と為り、太尉勃を右丞相と為し、大将軍灌嬰を太尉と為す。諸呂の奪ひし所の斉楚の故地は、皆復た之を与ふ。壬子、車騎将軍薄昭を遣はして皇太后を代に迎ふ。皇帝曰く、「呂産自ら置きて相国と為り、呂禄上将軍と為り、擅に矯りて灌将軍嬰を遣はして兵を将ゐて斉を撃たしめ、劉氏に代はらんと欲す、嬰滎陽に留まりて撃たず、諸侯と合謀して以て呂氏を誅す。呂産不善を為さんと欲す、丞相陳平太尉周勃と謀りて呂産等の軍を奪ふ。朱虚侯劉章首め先づ呂産等を捕ふ。
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史記 孝文本紀上曰く、「列侯の高帝に従ひて蜀・漢中に入りし者六十八人皆封を益すこと各々三百戸、故の吏二千石以上の高帝に従ひし潁川の守尊等十人には食邑六百戸、淮陽の守申徒嘉等十人には五百戸、衛尉定等十人には四百戸。淮南王の舅父趙兼を封じて周陽侯と為し、斉王の舅父駟鈞を清郭侯と為す。」と。秋、故の常山の丞相蔡兼を封じて樊侯と為す。人或いは右丞相に説きて曰く、「君本諸呂を誅し、代王を迎ふ、今又其の功を矜り、上賞を受け、尊位に処る、禍且に身に及ばんとす。」と。右丞相勃乃ち病を謝して免じ罷む、左丞相平専ら丞相と為る。二年十月、丞相平卒す、復た絳侯勃を以て丞相と為す。上曰く、「朕聞く古者諸侯国を建つること千余(歳)、各々其の地を守り、時を以て入貢し、民労苦せず、上下驩欣し、遺徳有る靡しと。今列侯多く長安に居り、邑遠く、吏卒の給輸費苦しみ、而して列侯も亦其の民を教馴するに由無し。其れ列侯をして国に之かしめ、吏と為り及び詔して止むる所の者は、太子を遣はせ。」と。十一月晦、日之を食する有り。十二月望、日又食す。上曰く、「朕之を聞く、天蒸民を生じ、之が為に君を置きて以て之を養治せしむ。人主不徳にして、政を布くこと均しからずんば、則ち天之に示すに菑(わざはひ)を以てし、以て治まらざるを誡むと。乃ち十一月晦、日之を食する有り、適(せ)めて天に見はる、菑孰れか焉より大ならん。朕宗廟を保つことを獲、微眇の身を以て兆民君王の上に託す、天下の治乱は、朕一人に在り、唯だ二三の執政は猶ほ吾が股肱のごときなり。朕下は群生を理育する能はず、上は以て三光の明を累す、其の不徳大なり。令至らば、其れ悉く朕の過失、及び知見思の及ばざる所を思ひて、匄(こ)ひて以て朕に告げよ。及び賢良方正にして能く直言極諫する者を挙げて、以て朕の逮ばざるを匡せ。
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史記 孝文本紀因りて各々其の任職を飭(ととの)へ、務めて繇費を省きて以て民に便ならしめよ。朕既に遠く徳する能はず、故に憪然として外人の非有るを念ふ、是を以て備へを設けて未だ息まず。今縦ひ辺の屯戍を罷むる能はずとも、而して又兵を飭へて衛を厚くす、其れ衛将軍の軍を罷めよ。太僕の見馬は財(わづ)かに足るを遺し、余は皆以て伝置に給せよ。」と。正月、上曰く、「農は、天下の本なり、其れ籍田を開け、朕親ら率ゐて耕し、以て宗廟の粢盛に給せん。」と。三月、有司皇子を立てて諸侯王と為さんことを請ふ。上曰く、「趙の幽王幽死す、朕甚だ之を憐れむ、已に其の長子遂を立てて趙王と為す。遂の弟辟彊及び斉の悼恵王の子朱虚侯章・東牟侯興居功有り、王とすべし。」と。乃ち趙の幽王の少子辟彊を立てて河間王と為し、斉の劇郡を以て朱虚侯を立てて城陽王と為し、東牟侯を立てて済北王と為し、皇子武を代王と為し、子参を太原王と為し、子揖を梁王と為す。
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史記 孝文本紀民或いは上を祝詛して以て相約結して後に相謾(あざむ)く、吏以て大逆と為し、其れ他言有れば、而して吏又以て誹謗と為す。此れ細民の愚にして知る無くして死に抵(いた)る、朕甚だ取らず。今より以来、此を犯す者有るも聴治する勿かれ。」と。九月、初めて郡国の守相と銅虎符・竹使符を為る。三年十月丁酉晦、日之を食する有り。十一月、上曰く、「前日(計)[詔]して列侯を遣はして国に之かしむ、或いは辞して未だ行かず。丞相は朕の重んずる所なり、其れ朕の為に列侯を率ゐて国に之け。」と。絳侯勃丞相を免ぜられて国に就く、太尉潁陰侯嬰を以て丞相と為す。太尉の官を罷め、丞相に属せしむ。四月、城陽王章薨ず。淮南王長従者魏敬と辟陽侯審食其を殺す。五月、匈奴北地に入り、河南に居りて寇を為す。帝初めて甘泉に幸す。六月、帝曰く、「漢匈奴と約して昆弟と為り、辺境を害せしむる毋し、匈奴に輸遺する所以甚だ厚し。今右賢王其の国を離れ、衆を将ゐて河南の降地に居る、常の故に非ず、塞に往来して近づき、吏卒を捕殺し、保塞の蛮夷を駆り、其の故に居るを得ざらしめ、辺吏を陵轢し、入りて盗む、甚だ敖(おご)りて無道なり、約に非ざるなり。其れ辺吏の騎八万五千を発して高奴に詣らしめ、丞相潁陰侯灌嬰を遣はして匈奴を撃たしめよ。」と。匈奴去る、中尉の材官を発して衛将軍に属せしめて長安に軍せしむ。辛卯、帝甘泉より高奴に之き、因りて太原に幸し、故の群臣に見えて、皆之に賜ふ。功を挙げ賞を行ひ、諸民の里に牛酒を賜ふ。晋陽・中都の民を復すること三歳。留まりて太原に游ぶこと十余日。済北王興居帝の代に之き、往きて胡を撃たんと欲すと聞き、乃ち反し、兵を発して滎陽を襲はんと欲す。是に於て詔して丞相の兵を罷め、棘蒲侯陳武を遣はして大将軍と為し、十万を将ゐて往きて之を撃たしむ。祁侯賀を将軍と為し、滎陽に軍せしむ。七月辛亥、帝太原より長安に至る。
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史記 孝文本紀中尉亜夫をして車騎将軍と為し、属国悍を将屯将軍と為し、郎中令武を復土将軍と為し、近県の見卒万六千人を発し、内史の卒万五千人を発し、郭を蔵め穿ちて土を復すことを将軍武に属せしむ。乙巳、群臣皆頓首して尊号を上りて孝文皇帝と曰ふ。太子高廟に即位す。丁未、号を襲ひて皇帝と曰ふ。孝景皇帝の元年十月、御史に制詔すらく、「蓋し聞く古者祖は功有りて宗は徳有り、礼楽を制するに各々由有りと。聞く歌は、徳を発する所以なり。舞は、功を明らかにする所以なりと。高廟の酎には、武徳・文始・五行の舞を奏す。孝恵廟の酎には、文始・五行の舞を奏す。孝文皇帝天下に臨み、関梁を通じ、遠方を異にせず。誹謗を除き、肉刑を去り、長老に賞賜し、孤独を収恤し、以て群生を育む。嗜欲を減じ、献を受けず、其の利を私せざるなり。罪人は帑せず、無罪を誅せず。(肉)[宮]刑を除き、美人を出だし、人の世を絶つことを重んず。朕既に不敏にして、識る能はず。此れ皆上古の及ばざる所にして、孝文皇帝親ら之を行ふ。徳の厚きこと天地に侔しく、利沢四海に施し、福を獲ざる靡し。明は日月に象るも、廟楽称はず。朕甚だ懼る。其れ孝文皇帝の廟の為に昭徳の舞を為りて、以て休徳を明らかにせよ。然る後に祖宗の功徳竹帛に著れ、万世に施し、永永窮まり無し、朕甚だ之を嘉す。其れ丞相・列侯・中二千石・礼官と具に礼儀を為りて奏せよ。」と。丞相臣嘉等言ふ、「陛下永く孝道を思ひ、昭徳の舞を立てて以て孝文皇帝の盛徳を明らかにす。皆臣嘉等の愚の及ばざる所なり。臣謹みて議す、世功は高皇帝より大なるは莫く、徳は孝文皇帝より盛んなるは莫し、高皇の廟は宜しく帝者の太祖の廟と為すべく、孝文皇帝の廟は宜しく帝者の太宗の廟と為すべし。天子宜しく世世祖宗の廟に献ずべし。郡国の諸侯は宜しく各々孝文皇帝の為に太宗の廟を立つべし。諸侯王列侯の使者天子に侍祠し、歳ごとに祖宗の廟に献ぜん。請ふ之を竹帛に著し、天下に宣布せん。」と。制して曰く、「可なり。」と。
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