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史記 / 孝文本紀

願請楚王計宜者,寡人不敢當。」群臣皆伏固請。代王西鄉讓者三,南鄉讓者再。丞相平等皆曰:「臣伏計之,大王奉高帝宗廟最宜稱,雖天下諸侯萬民以為宜。臣等為宗廟社稷計,不敢忽。願大王幸聽臣等。臣謹奉天子璽符再拜上。」代王曰:「宗室將相王列侯以為莫宜寡人,寡人不敢辭。」遂即天子位。群臣以禮次侍。乃使太仆嬰與東牟侯興居清宮,奉天子法駕,迎于代邸。皇帝即日夕入未央宮。乃夜拜宋昌為衛將軍,鎮撫南北軍。以張武為郎中令,行殿中。還坐前殿。於是夜下詔書曰:「閒者諸呂用事擅權,謀為大逆,欲以危劉氏宗廟,賴將相列侯宗室大臣誅之,皆伏其辜。朕初即位,其赦天下,賜民爵一級,女子百戶牛酒,酺五日。」孝文皇帝元年十月庚戌,徙立故琅邪王澤爲燕王。辛亥,皇帝即阼,謁高廟。右丞相平徙為左丞相,太尉勃為右丞相,大將軍灌嬰為太尉。諸呂所奪齊楚故地,皆復與之。壬子,遣車騎將軍薄昭迎皇太后於代。皇帝曰:「呂產自置為相國,呂祿為上將軍,擅矯遣灌將軍嬰將兵擊齊,欲代劉氏,嬰留滎陽弗擊,與諸侯合謀以誅呂氏。呂產欲為不善,丞相陳平與太尉周勃謀奪呂產等軍。朱虛侯劉章首先捕呂產等。

新字:願請楚王計宜者,寡人不敢当。」群臣皆伏固請。代王西郷譲者三,南郷譲者再。丞相平等皆曰:「臣伏計之,大王奉高帝宗廟最宜称,雖天下諸侯万民以為宜。臣等為宗廟社稷計,不敢忽。願大王幸聴臣等。臣謹奉天子璽符再拝上。」代王曰:「宗室将相王列侯以為莫宜寡人,寡人不敢辞。」遂即天子位。群臣以礼次侍。乃使太仆嬰与東牟侯興居清宮,奉天子法駕,迎于代邸。皇帝即日夕入未央宮。乃夜拝宋昌為衛将軍,鎮撫南北軍。以張武為郎中令,行殿中。還坐前殿。於是夜下詔書曰:「閒者諸呂用事擅権,謀為大逆,欲以危劉氏宗廟,頼将相列侯宗室大臣誅之,皆伏其辜。朕初即位,其赦天下,賜民爵一級,女子百戸牛酒,酺五日。」孝文皇帝元年十月庚戌,徙立故琅邪王沢為燕王。辛亥,皇帝即阼,謁高廟。右丞相平徙為左丞相,太尉勃為右丞相,大将軍灌嬰為太尉。諸呂所奪斉楚故地,皆復与之。壬子,遣車騎将軍薄昭迎皇太后於代。皇帝曰:「呂産自置為相国,呂禄為上将軍,擅矯遣灌将軍嬰将兵撃斉,欲代劉氏,嬰留滎陽弗撃,与諸侯合謀以誅呂氏。呂産欲為不善,丞相陳平与太尉周勃謀奪呂産等軍。朱虚侯劉章首先捕呂産等。

書き下し

願はくは楚王に請ひて宜しき者を計れ、寡人敢へて当たらず。」と。群臣皆伏して固く請ふ。代王西郷して譲る者三たび、南郷して譲る者再びす。丞相平等皆曰く、「臣伏して之を計るに、大王高帝の宗廟を奉ずること最も宜しく称ふ、天下の諸侯万民と雖も以て宜しと為す。臣等宗廟社稷の為に計る、敢へて忽せにせず。願はくは大王幸ひに臣等に聴け。臣謹みて天子の璽符を奉じて再拝して上る。」と。代王曰く、「宗室将相王列侯以為へらく寡人に宜しきは莫しと、寡人敢へて辞せず。」と。遂に天子の位に即く。群臣礼を以て次して侍す。乃ち太僕嬰と東牟侯興居とをして宮を清めしめ、天子の法駕を奉じて、代邸に迎ふ。皇帝即日夕に未央宮に入る。乃ち夜宋昌を拝して衛将軍と為し、南北軍を鎮撫せしむ。張武を以て郎中令と為し、殿中を行(めぐ)らしむ。還りて前殿に坐す。是に於て夜詔書を下して曰く、「間者(このごろ)諸呂事を用ゐて権を擅にし、大逆を為さんと謀り、以て劉氏の宗廟を危ふくせんと欲す、将相列侯宗室大臣の之を誅するに頼りて、皆其の辜に伏す。朕初めて位に即く、其れ天下に赦し、民に爵一級を賜ひ、女子百戸に牛酒、酺すること五日。」と。孝文皇帝の元年十月庚戌、故の琅邪王沢を徙し立てて燕王と為す。辛亥、皇帝阼に即き、高廟に謁す。右丞相平徙りて左丞相と為り、太尉勃を右丞相と為し、大将軍灌嬰を太尉と為す。諸呂の奪ひし所の斉楚の故地は、皆復た之を与ふ。壬子、車騎将軍薄昭を遣はして皇太后を代に迎ふ。皇帝曰く、「呂産自ら置きて相国と為り、呂禄上将軍と為り、擅に矯りて灌将軍嬰を遣はして兵を将ゐて斉を撃たしめ、劉氏に代はらんと欲す、嬰滎陽に留まりて撃たず、諸侯と合謀して以て呂氏を誅す。呂産不善を為さんと欲す、丞相陳平太尉周勃と謀りて呂産等の軍を奪ふ。朱虚侯劉章首め先づ呂産等を捕ふ。

現代語訳

(代王は続けた。)「どうか楚王(高帝の弟劉交)にふさわしい者を諮っていただきたい。私はとてもその任に当たれない」。群臣は皆ひれ伏して強く願った。代王は西を向いて三度辞退し、南を向いて二度辞退した。丞相陳平らは皆言った。「私どもが伏して考えるに、大王こそ高帝の宗廟を奉じるのに最もふさわしい。天下の諸侯や万民もそれがふさわしいと考えるだろう。私どもは宗廟と社稷のためを思って申し上げており、決していい加減な気持ちではない。どうか大王、私どもの願いをお聞き入れいただきたい。私どもは謹んで天子の璽と符を捧げ、再拝して献上する」。代王は言った。「宗室・将軍・宰相・諸王・列侯が、私ほどふさわしい者はいないと考えるのなら、私も辞退はしない」。こうして天子の位に就いた。群臣は礼に従って序列順に並んで控えた。そこで太僕の夏侯嬰と東牟侯劉興居に宮中を清めさせ、天子の正式な車を用意して代の屋敷まで迎えに来させた。皇帝はその日の夕方に未央宮に入った。その夜のうちに宋昌を衛将軍に任じ、南軍と北軍を統率させた。張武を郎中令とし、宮殿の中を巡回させた。皇帝は戻って前殿に座った。そしてその夜、詔書を下した。「近頃、呂氏一族が政治を握って権力をほしいままにし、大逆を企てて劉氏の宗廟を危うくしようとしたが、将軍・宰相・列侯・宗室・大臣たちがこれを誅したおかげで、皆その罪に服した。朕は初めて位に就いた。天下に大赦を行い、民に爵位を一級与え、女子には百戸ごとに牛と酒を与え、五日間の酒宴を許す」。孝文皇帝の元年(前179年)十月庚戌の日、もとの琅邪王劉沢を移して燕王に立てた。辛亥の日、皇帝は正式に即位の儀式を行い、高祖の廟に参拝した。右丞相陳平は左丞相に移り、太尉周勃を右丞相とし、大将軍灌嬰を太尉とした。呂氏一族が奪った斉・楚のもとの領地は、皆元に戻して与えた。壬子の日、車騎将軍薄昭を遣わして皇太后(薄太后)を代から迎えさせた。皇帝は言った。「呂産は自ら相国となり、呂禄は上将軍となって、勝手に天子の命令と偽って灌将軍嬰に兵を率いさせて斉を攻めさせ、劉氏に取って代わろうとした。しかし灌嬰は滎陽にとどまって攻撃せず、諸侯と共謀して呂氏を誅した。呂産が悪事をはたらこうとしたとき、丞相陳平は太尉周勃と謀って呂産らの軍を奪った。朱虚侯劉章が真っ先に呂産らを捕らえた。

解説

文帝の即位と、即位直後の迅速な手配を描く段です。代王は西向きに三度、南向きに二度辞退してから、ついに「宗室や将相が皆そう考えるなら」と帝位を受けました。辞退を重ねるのは謙譲の礼であると同時に、自分が多くの者の総意によって推されたことを明らかにする手続きでもあります。注目したいのは即位の夜の行動です。文帝は代から連れてきた腹心の宋昌を衛将軍として都の南北両軍を押さえさせ、張武に宮中の警護を任せました。呂氏を倒した大臣たちの力が強い中で、まず自分の身辺と軍事を信頼できる者で固めたのです。そのうえで大赦と恩賞を発し、呂氏に奪われた領地を斉・楚に返しました。新しい立場に就いたら、まず足元を固め、次に広く恩恵を示すという順序の確かさが、文帝の政治的な手腕を物語っています。

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