史記 / 孝文本紀
方今高帝子獨淮南王與大王,大王又長,賢聖仁孝,聞於天下,故大臣因天下之心而欲迎立大王,大王勿疑也。」代王報太后計之,猶與未定。卜之龜,卦兆得大橫。占曰:「大橫庚庚,余為天王,夏啟以光。」代王曰:「寡人固已為王矣,又何王?」卜人曰:「所謂天王者乃天子。」於是代王乃遣太后弟薄昭往見絳侯,絳侯等具為昭言所以迎立王意。薄昭還報曰:「信矣,毋可疑者。」代王乃笑謂宋昌曰:「果如公言。」乃命宋昌參乘,張武等六人乘傳詣長安。至高陵休止,而使宋昌先馳之長安觀變。昌至渭橋,丞相以下皆迎。宋昌還報。代王馳至渭橋,群臣拜謁稱臣。代王下車拜。太尉勃進曰:「願請閒言。」宋昌曰:「所言公,公言之。所言私,王者不受私。」太尉乃跪上天子璽符。代王謝曰:「至代邸而議之。」遂馳入代邸。群臣從至。丞相陳平、太尉周勃、大將軍陳武、御史大夫張蒼、宗正劉郢、朱虛侯劉章、東牟侯劉興居、典客劉揭皆再拜言曰:「子弘等皆非孝惠帝子,不當奉宗廟。臣謹請陰安侯列侯頃王后與瑯邪王、宗室、大臣、列侯、吏二千石議曰:『大王高帝長子,宜為高帝嗣。』願大王即天子位。」代王曰:「奉高帝宗廟,重事也。寡人不佞,不足以稱宗廟。
新字:方今高帝子独淮南王与大王,大王又長,賢聖仁孝,聞於天下,故大臣因天下之心而欲迎立大王,大王勿疑也。」代王報太后計之,猶与未定。卜之亀,卦兆得大横。占曰:「大横庚庚,余為天王,夏啓以光。」代王曰:「寡人固已為王矣,又何王?」卜人曰:「所謂天王者乃天子。」於是代王乃遣太后弟薄昭往見絳侯,絳侯等具為昭言所以迎立王意。薄昭還報曰:「信矣,毋可疑者。」代王乃笑謂宋昌曰:「果如公言。」乃命宋昌参乗,張武等六人乗伝詣長安。至高陵休止,而使宋昌先馳之長安観変。昌至渭橋,丞相以下皆迎。宋昌還報。代王馳至渭橋,群臣拝謁称臣。代王下車拝。太尉勃進曰:「願請閒言。」宋昌曰:「所言公,公言之。所言私,王者不受私。」太尉乃跪上天子璽符。代王謝曰:「至代邸而議之。」遂馳入代邸。群臣従至。丞相陳平、太尉周勃、大将軍陳武、御史大夫張蒼、宗正劉郢、朱虚侯劉章、東牟侯劉興居、典客劉掲皆再拝言曰:「子弘等皆非孝恵帝子,不当奉宗廟。臣謹請陰安侯列侯頃王后与瑯邪王、宗室、大臣、列侯、吏二千石議曰:『大王高帝長子,宜為高帝嗣。』願大王即天子位。」代王曰:「奉高帝宗廟,重事也。寡人不佞,不足以称宗廟。
書き下し
方今高帝の子は独り淮南王と大王とのみ、大王又長じ、賢聖仁孝、天下に聞こゆ、故に大臣天下の心に因りて大王を迎へ立てんと欲す、大王疑ふ勿かれ。」と。代王太后に報じて之を計る、猶与して未だ定まらず。之を亀に卜す、卦兆大横を得たり。占に曰く、「大横庚庚たり、余天王と為り、夏啓以て光あり。」と。代王曰く、「寡人固より已に王為り、又何ぞ王たらん。」と。卜人曰く、「所謂天王とは乃ち天子なり。」と。是に於て代王乃ち太后の弟薄昭を遣はして往きて絳侯に見えしむ、絳侯等具に昭の為に王を迎へ立つる所以の意を言ふ。薄昭還りて報じて曰く、「信なり、疑ふべき者毋し。」と。代王乃ち笑ひて宋昌に謂ひて曰く、「果たして公の言の如し。」と。乃ち宋昌に命じて参乗せしめ、張武等六人伝に乗りて長安に詣る。高陵に至りて休止し、而して宋昌をして先づ馳せて長安に之きて変を観しむ。昌渭橋に至る、丞相以下皆迎ふ。宋昌還りて報ず。代王馳せて渭橋に至る、群臣拝謁して臣と称す。代王車を下りて拝す。太尉勃進みて曰く、「願はくは間言を請はん。」と。宋昌曰く、「言ふ所公ならば、公に之を言へ。言ふ所私ならば、王者は私を受けず。」と。太尉乃ち跪きて天子の璽符を上る。代王謝して曰く、「代邸に至りて之を議せん。」と。遂に馳せて代邸に入る。群臣従ひて至る。丞相陳平・太尉周勃・大将軍陳武・御史大夫張蒼・宗正劉郢・朱虚侯劉章・東牟侯劉興居・典客劉掲皆再拝して言ひて曰く、「子弘等は皆孝恵帝の子に非ず、当に宗廟を奉ずべからず。臣謹みて(与)陰安侯・列侯・頃王后と瑯邪王・宗室・大臣・列侯・吏二千石とに請ひて議して曰く『大王は高帝の長子なり、宜しく高帝の嗣と為るべし』と。願はくは大王天子の位に即け。」と。代王曰く、「高帝の宗廟を奉ずるは、重事なり。寡人不佞にして、以て宗廟に称ふに足らず。
現代語訳
(宋昌は続けた。)「いま高帝の子で残っているのは淮南王と大王だけで、大王のほうが年長であり、賢明で徳が高く、仁愛と孝行は天下に知られている。だから大臣たちは天下の人々の心に従って大王を迎え立てようとしているのだ。大王は疑われることはない」。代王は母の薄太后に報告して相談したが、迷ってまだ決まらなかった。亀の甲羅で占うと、「大横」という兆しが出た。占いの言葉にはこうあった。「大横の兆しは堂々とし、われは天王となり、夏の啓のように光り輝く」。代王は言った。「私はもとより既に王である。このうえどんな王になるというのか」。占い師は言った。「ここでいう天王とは、天子のことだ」。そこで代王は薄太后の弟の薄昭を遣わして絳侯(周勃)に会わせた。絳侯らは薄昭に、代王を迎え立てようとする意図を詳しく語った。薄昭は戻ってきて報告した。「本当だ。疑うべきことは何もない」。代王は笑って宋昌に言った。「果たしてあなたの言った通りだった」。そこで宋昌に命じて車に同乗させ、張武ら六人は駅伝の車に乗って長安に向かった。高陵まで来て休息し、宋昌を先に長安へ馬で走らせて様子を探らせた。宋昌が渭橋に着くと、丞相以下が皆出迎えていた。宋昌は戻って報告した。代王は馬を走らせて渭橋に至り、群臣は拝謁して臣と称した。代王も車を降りて拝礼を返した。太尉周勃が進み出て「内密にお話ししたいことがある」と言った。宋昌が言った。「お話しになることが公のことなら、公の場で話されよ。私的なことなら、王者は私的な話を受けない」。太尉はそこでひざまずいて天子の璽と符を差し出した。代王は辞退して「代の屋敷に着いてから協議しよう」と言った。そのまま馬を走らせて代の屋敷に入った。群臣もついて来た。丞相陳平・太尉周勃・大将軍陳武・御史大夫張蒼・宗正劉郢・朱虚侯劉章・東牟侯劉興居・典客劉掲は皆二度拝礼して言った。「子弘(少帝)らは皆孝恵帝の子ではなく、宗廟の祭祀を担うべきではない。私どもは謹んで、陰安侯・列侯・頃王后と、瑯邪王・宗室・大臣・列侯・二千石の役人たちに諮り、『大王は高帝の現存する最年長の子であり、高帝の跡継ぎとなるべきだ』と議決した。どうか大王、天子の位にお就きいただきたい」。代王は言った。「高帝の宗廟を奉じるのは重大な事だ。私は才能に乏しく、宗廟にふさわしくない。
解説
関連する章句
-
史記 呂太后本紀壬戌、帝の太傅食其を以て復た左丞相と為す。戊辰、済川王を徙して梁に王とし、趙の幽王の子遂を立てて趙王と為す。朱虚侯章を遣はして諸呂氏を誅する事を以て斉王に告げ、兵を罷めしむ。灌嬰の兵も亦滎陽に罷めて帰る。諸大臣相与に陰かに謀りて曰く、「少帝及び梁・淮陽・常山王は、皆真の孝恵の子に非ざるなり。呂后計を以て詐りて他人の子を名づけ、其の母を殺し、後宮に養ひ、孝恵をして之を子とせしめ、立てて以て後と為し、及び諸王とし、以て呂氏を彊くす。今皆已に諸呂を夷滅し、而して立つる所を置かば、即ち長じて事を用ゐば、吾が属類無からん。諸王の最も賢なる者を視て之を立つるに如かず。」と。或るひと言ふ「斉の悼恵王は高帝の長子なり、今其の適子斉王為り、本を推して之を言はば、高帝の適長孫なり、立つべきなり」と。大臣皆曰く、「呂氏は外家の悪を以て幾ど宗廟を危ふくし、功臣を乱す。今斉王の母家は駟(鈞)、駟鈞は、悪人なり。即し斉王を立てば、則ち復た呂氏と為らん。」と。淮南王を立てんと欲するも、以為へらく少なりと、母家も又悪し。乃ち曰く、「代王は方今高帝の見子にして、最も長じ、仁孝寛厚なり。太后の家薄氏は謹良なり。且つ長を立つるは故より順なり、仁孝を以て天下に聞こゆ、便なり。」と。乃ち相与に共に陰かに人をして代王を召さしむ。代王人をして辞謝せしむ。再び反りて、然る後に六乗の伝に乗る。後九月晦日己酉、長安に至り、代邸に舎る。大臣皆往きて謁し、天子の璽を奉じて代王に上り、共に尊びて立てて天子と為す。代王数(しばしば)譲る、群臣固く請ふ、然る後に聴く。東牟侯興居曰く、「呂氏を誅するに吾功無し、請ふ宮を除くことを得ん。」と。乃ち太僕汝陰侯滕公と宮に入り、前みて少帝に謂ひて曰く、「足下は劉氏に非ず、当に立つべからず。」と。乃ち顧みて左右の戟を執る者に麾(さしまね)きて兵を掊(す)てて罷り去らしむ。数人の肯へて兵を去らざる有り、宦者令張沢諭告し、亦兵を去る。
-
史記 孝文本紀孝文皇帝は、高祖の中子なり。高祖十一年春、已に陳豨の軍を破り、代の地を定め、立ちて代王と為り、中都に都す。太后薄氏の子なり。即位十七年、高后の八年七月、高后崩ず。九月、諸呂呂産等乱を為し、以て劉氏を危ふくせんと欲す、大臣共に之を誅し、謀りて代王を召して立てんとす、事は呂后の語中に在り。丞相陳平・太尉周勃等人をして代王を迎へしむ。代王左右の郎中令張武等に問ふ。張武等議して曰く、「漢の大臣は皆故の高帝の時の大将なり、兵に習ひ、謀詐多し、此れ其の意を属する所此に止まるに非ざるなり、特に高帝・呂太后の威を畏るるのみ。今已に諸呂を誅し、新たに血を京師に啑(すす)る、此れ大王を迎ふるを以て名と為すも、実は信ずべからず。願はくは大王疾と称して往く毋く、以て其の変を観よ。」と。中尉宋昌進みて曰く、「群臣の議は皆非なり。夫れ秦其の政を失ひ、諸侯豪桀並び起こり、人人自ら以て之を得たりと為す者万を以て数ふ、然れども卒に天子の位を践む者は、劉氏なり、天下望みを絶つ、一なり。高帝子弟を王に封じ、地犬牙相制す、此れ所謂盤石の宗なり、天下其の彊きに服す、二なり。漢興り、秦の苛政を除き、法令を約し、徳恵を施し、人人自ら安んじ、動揺し難し、三なり。夫れ呂太后の厳を以て、諸呂を立てて三王と為し、権を擅にして専制す、然り而して太尉一節を以て北軍に入り、一呼して士皆左袒し、劉氏の為にし、諸呂に叛き、卒に以て之を滅ぼす。此れ乃ち天授にして、人力に非ざるなり。今大臣変を為さんと欲すと雖も、百姓為に使はれず、其の党寧ぞ能く専一ならんや。方今内には朱虚・東牟の親有り、外には呉・楚・淮南・瑯邪・斉・代の彊を畏る。
-
史記 孝文本紀願はくは楚王に請ひて宜しき者を計れ、寡人敢へて当たらず。」と。群臣皆伏して固く請ふ。代王西郷して譲る者三たび、南郷して譲る者再びす。丞相平等皆曰く、「臣伏して之を計るに、大王高帝の宗廟を奉ずること最も宜しく称ふ、天下の諸侯万民と雖も以て宜しと為す。臣等宗廟社稷の為に計る、敢へて忽せにせず。願はくは大王幸ひに臣等に聴け。臣謹みて天子の璽符を奉じて再拝して上る。」と。代王曰く、「宗室将相王列侯以為へらく寡人に宜しきは莫しと、寡人敢へて辞せず。」と。遂に天子の位に即く。群臣礼を以て次して侍す。乃ち太僕嬰と東牟侯興居とをして宮を清めしめ、天子の法駕を奉じて、代邸に迎ふ。皇帝即日夕に未央宮に入る。乃ち夜宋昌を拝して衛将軍と為し、南北軍を鎮撫せしむ。張武を以て郎中令と為し、殿中を行(めぐ)らしむ。還りて前殿に坐す。是に於て夜詔書を下して曰く、「間者(このごろ)諸呂事を用ゐて権を擅にし、大逆を為さんと謀り、以て劉氏の宗廟を危ふくせんと欲す、将相列侯宗室大臣の之を誅するに頼りて、皆其の辜に伏す。朕初めて位に即く、其れ天下に赦し、民に爵一級を賜ひ、女子百戸に牛酒、酺すること五日。」と。孝文皇帝の元年十月庚戌、故の琅邪王沢を徙し立てて燕王と為す。辛亥、皇帝阼に即き、高廟に謁す。右丞相平徙りて左丞相と為り、太尉勃を右丞相と為し、大将軍灌嬰を太尉と為す。諸呂の奪ひし所の斉楚の故地は、皆復た之を与ふ。壬子、車騎将軍薄昭を遣はして皇太后を代に迎ふ。皇帝曰く、「呂産自ら置きて相国と為り、呂禄上将軍と為り、擅に矯りて灌将軍嬰を遣はして兵を将ゐて斉を撃たしめ、劉氏に代はらんと欲す、嬰滎陽に留まりて撃たず、諸侯と合謀して以て呂氏を誅す。呂産不善を為さんと欲す、丞相陳平太尉周勃と謀りて呂産等の軍を奪ふ。朱虚侯劉章首め先づ呂産等を捕ふ。
-
史記 孝文本紀淮南王は、弟なり、徳を秉りて以て朕に陪す。豈に豫めせずと為さんや。諸侯王宗室昆弟に功臣有り、多く賢及び徳義有る者なり、若し有徳を挙げて以て朕の終ふる能はざるに陪せしめば、是れ社稷の霊、天下の福なり。今選挙せずして、必ず子と曰はば、人其れ朕を以て賢有徳の者を忘れて子に専らにすと為さん、天下を憂ふる所以に非ざるなり。朕甚だ取らざるなり。」と。有司皆固く請ひて曰く、「古者殷周国を有ち、治安なること皆千余歳、古の天下を有つ者焉より長きは莫し、此の道を用ゐればなり。嗣を立つるに必ず子とするは、従りて来たる所遠し。高帝親ら士大夫を率ゐ、始めて天下を平らげ、諸侯を建て、帝者の太祖と為る。諸侯王及び列侯の始めて国を受くる者も皆亦其の国の祖と為る。子孫嗣を継ぎ、世世絶えざるは、天下の大義なり、故に高帝之を設けて以て海内を撫す。今宜しく建つべきを釈きて更に諸侯及び宗室に選ぶは、高帝の志に非ざるなり。更に議するは宜しからず。子某最も長じ、純厚慈仁なり、請ふ建てて以て太子と為さん。」と。上乃ち之を許す。因りて天下の民の当に父の後に代はるべき者に爵各々一級を賜ひ、将軍薄昭を封じて軹侯と為す。三月、有司皇后を立てんことを請ふ。薄太后曰く、「諸侯皆同姓なり、太子の母を立てて皇后と為せ。」と。皇后は姓竇氏なり。上后を立つるが故を為して、天下の鰥寡孤独窮困及び年八十已上、孤児九歳已下に布帛米肉を賜ふこと各々数有り。上代より来り、初めて位に即き、徳恵を天下に施し、諸侯四夷を填撫して皆洽く驩ぶ、乃ち代より来たる功臣を循(ねぎら)ふ。上曰く、「方に大臣の諸呂を誅して朕を迎ふるや、朕狐疑し、皆朕を止む、唯だ中尉宋昌のみ朕に勧む、朕以て宗廟を保ち奉ずるを得たり。已に昌を尊びて衛将軍と為す、其れ昌を封じて壮武侯と為せ。諸々の朕に従ひし六人、官皆九卿に至らしめよ。」と。
-
史記 外戚世家大臣之を征し、天其の統を誘き、卒に呂氏を滅ぼす。唯独り孝恵皇后を置きて北宮に居らしむ。代王を迎立す、是れを孝文帝と為し、漢の宗廟を奉ず。此れ豈に天に非ずや。天命に非ずんば孰か能く之に当たらん。薄太后は、父は呉人、姓は薄氏、秦の時に故の魏王の宗家の女魏媼と通じ、薄姫を生む、而して薄父山陰に死し、因りて焉に葬る。諸侯の秦に畔くに及び、魏豹立ちて魏王と為る、而して魏媼其の女を魏の宮に内る。媼の許負の所に之きて相せしむ、薄姫を相して、当に天子を生むべしと云ふ。是の時項羽方に漢王と滎陽に相距ぎ、天下未だ定まる所有らず。豹初め漢と楚を撃つ、許負の言を聞くに及び、心に独り喜び、因りて漢に背きて畔き、中立し、更に楚と連和す。漢、曹参等をして魏王豹を撃虜せしめ、其の国を以て郡と為す、而して薄姫は織室に輸さる。豹已に死す、漢王織室に入り、薄姫の色有るを見て、詔して後宮に内る、歳余幸を得ず。始め姫少き時、管夫人・趙子児と相愛し、約して曰く、「先に貴くならば相忘るること無からん」と。已にして管夫人・趙子児先に漢王に幸せらる。漢王河南宮の成皋台に坐す、此の両美人相与に薄姫の初時の約を笑ふ。漢王之を聞き、其の故を問ふ、両人具に実を以て漢王に告ぐ。漢王心惨然として、薄姫を憐れみ、是の日召して之を幸す。薄姫曰く、「昨暮夜、妾夢みるに蒼龍吾が腹に拠る」と。高帝曰く、「此れ貴徴なり、吾女の為に遂に之を成さん」と。一たび幸せられて男を生む、是れを代王と為す。其の後薄姫希に高祖に見ゆ。高祖崩じ、諸々の御幸の姫戚夫人の属、呂太后怒りて、皆之を幽し、宮を出づるを得ず。而して薄姫は希に見ゆるの故を以て、出づるを得、子に従ひて代に之き、代王の太后と為る。太后の弟薄昭従ひて代に如く。代王立ちて十七年、高后崩ず。
-
史記 呂太后本紀滕公乃ち乗輿の車を召して少帝を載せて出づ。少帝曰く、「我を将ゐて安くに之かんと欲するか。」と。滕公曰く「出でて舎に就け。」と。少府に舎る。乃ち天子の法駕を奉じ、代王を邸に迎ふ。報じて曰く、「宮謹みて除せり。」と。代王即夕に未央宮に入る。謁者十人有り戟を持ちて端門を衛り、曰く、「天子在り、足下何為る者ぞ入る。」と。代王乃ち太尉に謂ふ。太尉往きて諭す、謁者十人皆兵を掊てて去る。代王遂に入りて政を聴く。夜、有司部を分かちて梁・淮陽・常山王及び少帝を邸に誅滅す。代王立ちて天子と為る。二十三年にして崩じ、謚して孝文皇帝と為す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る