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史記 / 呂太后本紀

我妃既妒兮誣我以惡,讒女亂國兮上曾不寤。我無忠臣兮何故棄國?自決中野兮蒼天舉直!于嗟不可悔兮寧蚤自財。為王而餓死兮誰者憐之!呂氏絕理兮託天報仇。」丁丑,趙王幽死,以民禮葬之長安民冢次。己丑,日食,晝晦。太后惡之,心不樂,乃謂左右曰:「此為我也。」二月,徙梁王恢為趙王。呂王產徙為梁王,梁王不之國,為帝太傅。立皇子平昌侯太為呂王。更名梁曰呂,呂曰濟川。太后女弟呂嬃有女為營陵侯劉澤妻,澤為大將軍。太后王諸呂,恐即崩後劉將軍為害,乃以劉澤為瑯邪王,以慰其心。梁王恢之徙王趙,心懷不樂。太后以呂產女為趙王后。王后從官皆諸呂,擅權,微伺趙王,趙王不得自恣。王有所愛姬,王后使人酖殺之。王乃為歌詩四章,令樂人歌之。王悲,六月即自殺。太后聞之,以為王用婦人棄宗廟禮,廢其嗣。宣平侯張敖卒,以子偃為魯王,敖賜謚為魯元王。秋,太后使使告代王,欲徙王趙。代王謝,願守代邊。太傅產、丞相平等言,武信侯呂祿上侯,位次第一,請立為趙王。太后許之,追尊祿父康侯為趙昭王。九月,燕靈王建薨,有美人子,太后使人殺之,無後,國除。

新字:我妃既妬兮誣我以悪,讒女乱国兮上曽不寤。我無忠臣兮何故棄国?自決中野兮蒼天舉直!于嗟不可悔兮寧蚤自財。為王而餓死兮誰者憐之!呂氏絶理兮託天報仇。」丁丑,趙王幽死,以民礼葬之長安民冢次。己丑,日食,昼晦。太后悪之,心不楽,乃謂左右曰:「此為我也。」二月,徙梁王恢為趙王。呂王産徙為梁王,梁王不之国,為帝太傅。立皇子平昌侯太為呂王。更名梁曰呂,呂曰済川。太后女弟呂嬃有女為営陵侯劉沢妻,沢為大将軍。太后王諸呂,恐即崩後劉将軍為害,乃以劉沢為瑯邪王,以慰其心。梁王恢之徙王趙,心懐不楽。太后以呂産女為趙王后。王后従官皆諸呂,擅権,微伺趙王,趙王不得自恣。王有所愛姫,王后使人酖殺之。王乃為歌詩四章,令楽人歌之。王悲,六月即自殺。太后聞之,以為王用婦人棄宗廟礼,廃其嗣。宣平侯張敖卒,以子偃為魯王,敖賜謚為魯元王。秋,太后使使告代王,欲徙王趙。代王謝,願守代辺。太傅産、丞相平等言,武信侯呂禄上侯,位次第一,請立為趙王。太后許之,追尊禄父康侯為趙昭王。九月,燕霊王建薨,有美人子,太后使人殺之,無後,国除。

書き下し

我が妃既に妒みて我を誣ふるに悪を以てす、讒女国を乱せども上曾て寤らず。我に忠臣無くして何の故に国を棄つる、自ら中野に決せば蒼天直を挙げん。于嗟(ああ)悔ゆべからず寧ろ蚤く自ら財(た)たん。王と為りて餓死す誰か之を憐れまん、呂氏理を絶つ天に託して仇を報いん。」と。丁丑、趙王幽死す、民の礼を以て之を長安の民の冢の次に葬る。己丑、日食し、昼晦し。太后之を悪み、心楽しまず、乃ち左右に謂ひて曰く、「此れ我が為なり。」と。二月、梁王恢を徙して趙王と為す。呂王産徙りて梁王と為る、梁王国に之かず、帝の太傅と為る。皇子平昌侯太を立てて呂王と為す。梁を更名して呂と曰ひ、呂を済川と曰ふ。太后の女弟呂嬃に女有り営陵侯劉沢の妻為り、沢は大将軍為り。太后諸呂を王とし、即ち崩じて後劉将軍の害を為さんことを恐れ、乃ち劉沢を以て瑯邪王と為し、以て其の心を慰む。梁王恢の徙りて趙に王たるや、心に楽しまざるを懐く。太后呂産の女を以て趙王の后と為す。王后の従官皆諸呂にして、権を擅にし、微かに趙王を伺ふ、趙王自ら恣にするを得ず。王に愛する所の姫有り、王后人をして酖して之を殺さしむ。王乃ち歌詩四章を為り、楽人をして之を歌はしむ。王悲しみ、六月即ち自殺す。太后之を聞き、以為へらく王婦人を用ゐて宗廟の礼を棄つと、其の嗣を廃す。宣平侯張敖卒す、子偃を以て魯王と為し、敖に謚を賜ひて魯元王と為す。秋、太后使をして代王に告げしめ、徙して趙に王とせんと欲す。代王謝し、代の辺を守らんことを願ふ。太傅産・丞相平等言ふ、武信侯呂禄は上侯にして、位次第一なり、請ふ立てて趙王と為さんと。太后之を許し、禄の父康侯を追尊して趙の昭王と為す。九月、燕の霊王建薨ず、美人の子有り、太后人をして之を殺さしむ、後無く、国除かる。

現代語訳

(趙王の歌は続く。)「わが妃は嫉妬して、私に悪行の濡れ衣を着せた。讒言する女が国を乱しているのに、太后は少しもお気づきにならない。私に忠臣がいないばかりに、なぜ国を捨てることになったのか。いっそ荒野で自ら命を絶てば、天が正しい者を取り上げてくれただろうに。ああ、悔やんでも取り返しがつかない。いっそ早く自ら死ねばよかった。王でありながら餓死する、誰が憐れんでくれようか。呂氏は道理を踏みにじった。天に託して仇を報いたい」。丁丑の日、趙王は幽閉されたまま死に、庶民の礼で長安の庶民の墓の並びに葬られた。己丑の日、日食があり、昼なのに暗くなった。太后はこれを嫌い、心が晴れず、側近に「これは私のせいだ」と言った。二月、梁王劉恢を移して趙王とした。呂王呂産は移って梁王となったが、梁王は国に赴かず、帝の太傅となった。皇子の平昌侯劉太を呂王に立てた。梁の国名を改めて呂とし、もとの呂を済川とした。太后の妹の呂嬃には娘がいて営陵侯劉沢の妻となっており、劉沢は大将軍であった。太后は呂氏一族を王にしたので、自分の死後に劉将軍(劉沢)が災いをなすのを恐れ、劉沢を瑯邪王として、その心をなだめた。梁王劉恢は趙王に移されたことを、心中快く思っていなかった。太后は呂産の娘を趙王の王后とした。王后に従う役人は皆呂氏一族で、権力をほしいままにし、ひそかに趙王を見張っていたので、趙王は思い通りに振る舞うことができなかった。趙王には愛する側室がいたが、王后は人に命じて毒を盛って殺させた。趙王はそこで四章の詩を作り、楽人に歌わせた。趙王は悲しみ、六月にとうとう自殺した。太后はこれを聞くと、趙王が女のために宗廟の礼を捨てたとして、その跡継ぎを廃した。宣平侯張敖が亡くなり、その子の張偃を魯王とし、張敖には諡を贈って魯元王とした。秋、太后は使者を送って代王(劉恒)に告げさせ、趙王に移そうとした。代王は辞退し、代の辺境を守りたいと願い出た。太傅の呂産や丞相の陳平らが、武信侯呂禄は上位の侯で序列は第一だから、趙王に立てるよう願い出た。太后はこれを許し、呂禄の父の康侯を追尊して趙の昭王とした。九月、燕の霊王劉建が亡くなった。側室の生んだ子がいたが、太后は人に命じてこれを殺させたので、跡継ぎがなく、国は取り潰された。

解説

呂后のもとで劉氏の王たちが次々に命を落としていく段です。趙王劉友の悲痛な歌は、讒言する妃、真実に気づかない権力者、そして忠臣を持たない王の孤独を訴えています。趙王が餓死した直後に日食が起こり、呂后は「これは私のせいだ」と漏らしました。天変地異を為政者の不徳への戒めと見る当時の考え方からすると、呂后自身も後ろめたさを感じていたことがうかがえます。その後も、趙王に移された劉恢は呂氏の王后に監視され、愛する側室を毒殺されて自殺し、燕王劉建の子も殺されて国は取り潰されました。代王劉恒(のちの文帝)が趙への移封を辞退して辺境にとどまったのは、危険な中央から距離を置く賢明な判断でした。権力が偏った組織で、身を守るために何を選ぶかという問いを投げかける段です。

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