史記 / 呂太后本紀
八年十月,立呂肅王子東平侯呂通為燕王,封通弟呂莊為東平侯。三月中,呂后祓,還過軹道,見物如蒼犬,據高后掖,忽弗復見。卜之,云趙王如意為祟。高后遂病掖傷。高后為外孫魯元王偃年少,蚤失父母,孤弱,乃封張敖前姬兩子,侈為新都侯,壽為樂昌侯,以輔魯元王偃。及封中大謁者張釋為建陵侯,呂榮為祝茲侯。諸中宦者令丞皆為關內侯,食邑五百戶。七月中,高后病甚,乃令趙王呂祿為上將軍,軍北軍;呂王產居南軍。呂太后誡產、祿曰:「高帝已定天下,與大臣約,曰『非劉氏王者,天下共擊之』。今呂氏王,大臣弗平。我即崩,帝年少,大臣恐為變。必據兵衛宮,慎毋送喪,毋為人所制。」辛巳,高后崩,遺詔賜諸侯王各千金,將相列侯郎吏皆以秩賜金。大赦天下。以呂王產為相國,以呂祿女為帝后。
新字:八年十月,立呂粛王子東平侯呂通為燕王,封通弟呂荘為東平侯。三月中,呂后祓,還過軹道,見物如蒼犬,拠高后掖,忽弗復見。卜之,云趙王如意為祟。高后遂病掖傷。高后為外孫魯元王偃年少,蚤失父母,孤弱,乃封張敖前姫両子,侈為新都侯,寿為楽昌侯,以輔魯元王偃。及封中大謁者張釈為建陵侯,呂栄為祝茲侯。諸中宦者令丞皆為関内侯,食邑五百戸。七月中,高后病甚,乃令趙王呂禄為上将軍,軍北軍;呂王産居南軍。呂太后誡産、禄曰:「高帝已定天下,与大臣約,曰『非劉氏王者,天下共撃之』。今呂氏王,大臣弗平。我即崩,帝年少,大臣恐為変。必拠兵衛宮,慎毋送喪,毋為人所制。」辛巳,高后崩,遺詔賜諸侯王各千金,将相列侯郎吏皆以秩賜金。大赦天下。以呂王産為相国,以呂禄女為帝后。
書き下し
八年十月、呂の粛王の子東平侯呂通を立てて燕王と為し、通の弟呂荘を封じて東平侯と為す。三月中、呂后祓(はらひ)し、還りて軹道を過ぐ、物の蒼犬の如きを見る、高后の掖(わき)に拠り、忽ち復た見えず。之を卜するに、趙王如意祟りを為すと云ふ。高后遂に掖の傷を病む。高后外孫魯元王偃の年少くして、蚤く父母を失ひ、孤弱なるが為に、乃ち張敖の前姫の両子を封じ、侈を新都侯と為し、寿を楽昌侯と為し、以て魯元王偃を輔けしむ。及び中大謁者張釈を封じて建陵侯と為し、呂栄を祝茲侯と為す。諸々の中の宦者の令丞皆関内侯と為し、食邑五百戸。七月中、高后病甚だし、乃ち趙王呂禄をして上将軍と為し、北軍に軍せしむ。呂王産は南軍に居る。呂太后産・禄を誡めて曰く、「高帝已に天下を定め、大臣と約して、曰く『劉氏に非ずして王たる者は、天下共に之を撃て』と。今呂氏王たり、大臣平らかならず。我即し崩ぜば、帝年少なり、大臣恐らくは変を為さん。必ず兵に拠りて宮を衛り、慎みて喪を送る毋かれ、人の制する所と為る毋かれ。」と。辛巳、高后崩ず、遺詔して諸侯王に各々千金を賜ひ、将相列侯郎吏には皆秩を以て金を賜ふ。天下に大赦す。呂王産を以て相国と為し、呂禄の女を以て帝の后と為す。
現代語訳
八年(前180年)十月、呂の粛王(呂台)の子の東平侯呂通を燕王に立て、呂通の弟の呂荘を東平侯に封じた。三月、呂后は祓いの儀式を行い、帰りに軹道を通ったところ、青い犬のようなものが現れて呂后の脇の下に飛びかかり、たちまち見えなくなった。占ってみると、趙王如意が祟っているとのことであった。呂后はとうとう脇の下の傷を病むようになった。呂后は外孫の魯元王張偃が幼くして父母を早く亡くし、孤独でか弱いことを案じて、張敖の以前の側室の二人の子を封じ、張侈を新都侯、張寿を楽昌侯として、魯元王偃を補佐させた。また中大謁者(宮中の取次ぎ長官)の張釈を建陵侯に、呂栄を祝茲侯に封じた。宮中の宦官の長官や次官を皆関内侯とし、それぞれ五百戸の領地を与えた。七月、呂后の病は重くなった。そこで趙王呂禄を上将軍として北軍に置き、呂王呂産を南軍に置いた。呂太后は呂産と呂禄を戒めて言った。「高帝は天下を平定すると、大臣たちと約束して『劉氏でない者が王となったら、天下がともにこれを討て』と言われた。いま呂氏が王になっており、大臣たちは不満に思っている。私がもし死ねば、帝は幼いので、大臣たちはおそらく事を起こすだろう。必ず兵を握って宮中を守り、決して葬送に出てはならない。人に主導権を握られてはならない」。辛巳の日、呂后は崩御した。遺詔によって諸侯王にそれぞれ黄金千斤を与え、将軍・宰相・列侯・郎官や役人には皆その俸禄に応じて黄金を与えた。天下に大赦を行った。呂王呂産を相国とし、呂禄の娘を帝の皇后とした。
解説
関連する章句
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史記 呂太后本紀呂太后は、高祖の微なりし時の妃なり、孝恵帝・女の魯元太后を生む。高祖の漢王と為るに及び、定陶の戚姫を得て、愛幸し、趙の隠王如意を生む。孝恵人と為り仁弱なり、高祖以為へらく我に類せずと、常に太子を廃して、戚姫の子如意を立てんと欲す、如意我に類すと。戚姫幸せられ、常に上に従ひて関東に之き、日夜啼泣し、其の子を立てて太子に代へんと欲す。呂后年長じ、常に留守し、上に見ゆること希にして、益々疏し。如意立ちて趙王と為りし後、幾ど太子に代はらんとする者数(しばしば)なり、大臣の之を争ひ、及び留侯の策に頼りて、太子廃せらるる毋きを得たり。呂后人と為り剛毅にして、高祖を佐けて天下を定む、誅する所の大臣多く呂后の力なり。呂后の兄二人、皆将と為る。長兄周呂侯事に死し、其の子呂台を封じて酈侯と為し、子産を交侯と為す。次兄呂釈之を建成侯と為す。高祖十二年四月甲辰、長楽宮に崩ず、太子号を襲ひて帝と為る。是の時高祖の八子、長男肥は、孝恵の兄なり、母を異にす、肥は斉王為り。余は皆孝恵の弟なり、戚姫の子如意は趙王為り、薄夫人の子恒は代王為り、諸姫の子子恢は梁王為り、子友は淮陽王為り、子長は淮南王為り、子建は燕王為り。高祖の弟交は楚王為り、兄の子濞は呉王為り。劉氏に非ざる功臣番君呉芮の子臣は長沙王為り。呂后最も戚夫人及び其の子趙王を怨み、乃ち永巷をして戚夫人を囚へしめ、而して趙王を召す。使者三たび反る、趙の相建平侯周昌使者に謂ひて曰く、「高帝臣に趙王を属す、趙王年少なり。竊かに聞く太后戚夫人を怨み、趙王を召して并せて之を誅せんと欲すと、臣敢へて王を遣はさず。王も且つ亦病めり、詔を奉ずる能はず。」と。呂后大いに怒り、乃ち人をして趙の相を召さしむ。趙の相徴されて長安に至る、乃ち人をして復た趙王を召さしむ。王来たるも、未だ到らず。
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史記 呂太后本紀十一月、太后王陵を廃せんと欲し、乃ち拝して帝の太傅と為し、之が相権を奪ふ。王陵遂に病みて免ぜられて帰る。乃ち左丞相平を以て右丞相と為し、辟陽侯審食其を以て左丞相と為す。左丞相事を治めず、宮中を監せしむること、郎中令の如し。食其故より太后に幸せらるるを得て、常に事を用ゐ、公卿皆因りて事を決す。乃ち酈侯の父を追尊して悼武王と為し、以て諸呂を王とする漸と為さんと欲す。四月、太后諸呂を侯とせんと欲し、乃ち先づ高祖の功臣郎中令無択を封じて博城侯と為す。魯元公主薨ず、謚を賜ひて魯元太后と為す。子偃を魯王と為す。魯王の父は、宣平侯張敖なり。斉の悼恵王の子章を封じて朱虚侯と為し、呂禄の女を以て之に妻はす。斉の丞相寿を平定侯と為す。少府延を梧侯と為す。乃ち呂種を封じて沛侯と為し、呂平を扶柳侯と為し、張買を南宮侯と為す。太后呂氏を王とせんと欲し、先づ孝恵の後宮の子彊を立てて淮陽王と為し、子不疑を常山王と為し、子山を襄城侯と為し、子朝を軹侯と為し、子武を壺関侯と為す。太后大臣に風す、大臣酈侯呂台を立てて呂王と為さんことを請ふ、太后之を許す。建成の康侯釈之卒す、嗣子罪有り、廃す、其の弟呂禄を立てて胡陵侯と為し、康侯の後を続がしむ。二年、常山王薨ず、其の弟襄城侯山を以て常山王と為し、名を義と更む。十一月、呂王台薨ず、謚して粛王と為す、太子嘉代はり立ちて王と為る。三年、事無し。四年、呂嬃を封じて臨光侯と為し、呂他を兪侯と為し、呂更始を贅其侯と為し、呂忿を呂城侯と為し、及び諸侯の丞相五人を封ず。宣平侯の女孝恵の皇后為りし時、子無し、詳りて身有りと為し、美人の子を取りて之に名づけ、其の母を殺し、名づくる所の子を立てて太子と為す。孝恵崩じ、太子立ちて帝と為る。
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史記 呂太后本紀列侯群臣自ら其の命を堅くする莫し。太尉絳侯勃軍中に入りて兵を主るを得ず。曲周侯酈商老い病み、其の子寄呂禄と善し。絳侯乃ち丞相陳平と謀り、人をして酈商を劫かさしむ。其の子寄をして往きて紿(あざむ)きて呂禄に説かしめて曰く、「高帝呂后と共に天下を定む、劉氏の立つる所の九王、呂氏の立つる所の三王、皆大臣の議なり、事已に諸侯に布告し、諸侯皆以て宜しと為す。今太后崩じ、帝少し、而して足下趙王の印を佩び、急ぎ国に之きて藩を守らず、乃ち上将と為り、兵を将ゐて此に留まる、大臣諸侯の疑ふ所と為る。足下何ぞ印を帰し、兵を以て太尉に属せざる。請ふ梁王をして相国の印を帰し、大臣と盟ひて国に之かしめば、斉の兵必ず罷め、大臣安んずるを得、足下枕を高くして千里に王たらん、此れ万世の利なり。」と。呂禄信に其の計を然りとし、将の印を帰し、兵を以て太尉に属せんと欲す。人をして呂産及び諸呂の老人に報ぜしむ、或いは以て便と為し、或いは便ならずと曰ひ、計猶予して未だ決する所有らず。呂禄酈寄を信じ、時に与に出でて游猟す。其の姑呂嬃を過ぐ、嬃大いに怒りて、曰く、「若将と為りて軍を棄つ、呂氏今に処無からん。」と。乃ち悉く珠玉宝器を出だして堂下に散じて、曰く、「他人の為に守る毋からん。」と。左丞相食其免ぜらる。八月庚申の旦、平陽侯窋御史大夫の事を行ひ、相国産に見えて事を計る。郎中令賈寿使ひして斉より来り、因りて産を数めて曰く、「王蚤く国に之かず、今行かんと欲すと雖も、尚ほ得べけんや。」と。具に灌嬰の斉楚と合従し、諸呂を誅せんと欲するを以て産に告げ、乃ち産を趣して急ぎ宮に入らしむ。平陽侯頗る其の語を聞き、乃ち馳せて丞相・太尉に告ぐ。太尉北軍に入らんと欲す、入るを得ず。襄平侯通符節を尚(つかさど)る。乃ち節を持して矯りて太尉を北軍に内(い)れしむ。
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史記 呂太后本紀我が妃既に妒みて我を誣ふるに悪を以てす、讒女国を乱せども上曾て寤らず。我に忠臣無くして何の故に国を棄つる、自ら中野に決せば蒼天直を挙げん。于嗟(ああ)悔ゆべからず寧ろ蚤く自ら財(た)たん。王と為りて餓死す誰か之を憐れまん、呂氏理を絶つ天に託して仇を報いん。」と。丁丑、趙王幽死す、民の礼を以て之を長安の民の冢の次に葬る。己丑、日食し、昼晦し。太后之を悪み、心楽しまず、乃ち左右に謂ひて曰く、「此れ我が為なり。」と。二月、梁王恢を徙して趙王と為す。呂王産徙りて梁王と為る、梁王国に之かず、帝の太傅と為る。皇子平昌侯太を立てて呂王と為す。梁を更名して呂と曰ひ、呂を済川と曰ふ。太后の女弟呂嬃に女有り営陵侯劉沢の妻為り、沢は大将軍為り。太后諸呂を王とし、即ち崩じて後劉将軍の害を為さんことを恐れ、乃ち劉沢を以て瑯邪王と為し、以て其の心を慰む。梁王恢の徙りて趙に王たるや、心に楽しまざるを懐く。太后呂産の女を以て趙王の后と為す。王后の従官皆諸呂にして、権を擅にし、微かに趙王を伺ふ、趙王自ら恣にするを得ず。王に愛する所の姫有り、王后人をして酖して之を殺さしむ。王乃ち歌詩四章を為り、楽人をして之を歌はしむ。王悲しみ、六月即ち自殺す。太后之を聞き、以為へらく王婦人を用ゐて宗廟の礼を棄つと、其の嗣を廃す。宣平侯張敖卒す、子偃を以て魯王と為し、敖に謚を賜ひて魯元王と為す。秋、太后使をして代王に告げしめ、徙して趙に王とせんと欲す。代王謝し、代の辺を守らんことを願ふ。太傅産・丞相平等言ふ、武信侯呂禄は上侯にして、位次第一なり、請ふ立てて趙王と為さんと。太后之を許し、禄の父康侯を追尊して趙の昭王と為す。九月、燕の霊王建薨ず、美人の子有り、太后人をして之を殺さしむ、後無く、国除かる。
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史記 呂太后本紀帝壮にして、或いは其の母の死して、真の皇后の子に非ざるを聞き、乃ち言を出だして曰く、「后安んぞ能く吾が母を殺して我を名づくる。我未だ壮ならず、壮ならば即ち変を為さん。」と。太后聞きて之を患ひ、其の乱を為さんことを恐れ、乃ち之を永巷の中に幽し、帝の病甚だしと言ひ、左右見るを得る莫し。太后曰く、「凡そ天下を有ちて治めて万民の命と為す者は、之を蓋ふこと天の如く、之を容るること地の如し、上に歓心有りて以て百姓を安んじ、百姓欣然として以て其の上に事へ、歓欣交通して天下治まる。今皇帝病久しくして已まず、乃ち失惑惛乱し、嗣を継ぎて宗廟の祭祀を奉ずる能はず、天下を属すべからず、其れ之に代へよ。」と。群臣皆頓首して言ふ、「皇太后天下の斉民の為に宗廟社稷を安んずる所以を計ること甚だ深し、群臣頓首して詔を奉ず。」と。帝位を廃せられ、太后之を幽殺す。五月丙辰、常山王義を立てて帝と為し、名を更めて弘と曰ふ。元年と称せざるは、太后天下の事を制するを以てなり。軹侯朝を以て常山王と為す。太尉の官を置き、絳侯勃を太尉と為す。五年八月、淮陽王薨ず、弟壺関侯武を以て淮陽王と為す。六年十月、太后曰く呂王嘉居処驕恣なりと、之を廃し、粛王台の弟呂産を以て呂王と為す。夏、天下に赦す。斉の悼恵王の子興居を封じて東牟侯と為す。七年正月、太后趙王友を召す。友諸呂の女を以て后と受くるも、愛さず、他姫を愛す、諸呂の女妒み、怒りて去り、之を太后に讒し、誣ふるに罪過を以てして、曰く、「呂氏安んぞ王たるを得ん。太后百歳の後、吾必ず之を撃たん」と。太后怒り、故を以て趙王を召す。趙王至る、邸に置きて見ず、衛をして囲みて之を守らしめ、食を与へず。其の群臣或いは竊かに饋る、輒ち捕へて之を論ず、趙王餓ゑ、乃ち歌ひて曰く、「諸呂事を用ゐて劉氏危ふし、王侯を迫脅して彊ひて我に妃を授く。
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史記 呂太后本紀孝恵此を以て日々飲みて淫楽を為し、政を聴かず、故に病有るなり。二年、楚の元王・斉の悼恵王皆来朝す。十月、孝恵斉王と太后の前に燕飲す、孝恵以為へらく斉王は兄なりと、上坐に置き、家人の礼の如くす。太后怒り、乃ち両卮の酖を酌みて、前に置かしめ、斉王をして起ちて寿を為さしむ。斉王起つ、孝恵も亦起ち、卮を取りて倶に寿を為さんと欲す。太后乃ち恐れ、自ら起ちて孝恵の卮を泛(くつがへ)す。斉王之を怪しみ、因りて敢へて飲まず、詳(いつは)り酔ひて去る。問ひて、其の酖なるを知る、斉王恐れ、自ら以為へらく長安を脱するを得ずと、憂ふ。斉の内史士王に説きて曰く、「太后は独り孝恵と魯元公主とを有つ。今王は七十余城を有ち、而して公主は乃ち数城を食む。王誠に一郡を以て太后に上り、公主の湯沐の邑と為さば、太后必ず喜び、王必ず憂ひ無からん。」と。是に於て斉王乃ち城陽の郡を上り、公主を尊びて王太后と為す。呂后喜び、之を許す。乃ち斉の邸に置酒し、楽しみ飲み、罷みて、斉王を帰す。三年、方に長安城を築く、四年に半ばを就し、五年六年に城就る。諸侯来会す。十月朝賀す。七年秋八月戊寅、孝恵帝崩ず。喪を発す、太后哭すれども、泣下らず。留侯の子張辟彊侍中為り、年十五、丞相に謂ひて曰く、「太后は独り孝恵を有つのみ、今崩じて、哭すれども悲しまず、君其の解を知るか。」と。丞相曰く、「何の解ぞ。」と。辟彊曰く、「帝に壮子毋し、太后君等を畏る。君今請ひて呂台・呂産・呂禄を拝して将と為し、兵を将ゐて南北軍に居らしめ、及び諸呂皆宮に入り、中に居りて事を用ゐしめよ、此くの如くならば則ち太后の心安んじ、君等幸ひに禍を脱するを得ん。」と。丞相乃ち辟彊の計の如くす。太后説び、其の哭乃ち哀し。呂氏の権此より起こる。乃ち天下に大赦す。九月辛丑、葬る。太子即位して帝と為り、高廟に謁す。元年、号令一に太后より出づ。
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