史記 / 呂太后本紀
帝壯,或聞其母死,非真皇后子,乃出言曰:「后安能殺吾母而名我?我未壯,壯即為變。」太后聞而患之,恐其為亂,乃幽之永卷中,言帝病甚,左右莫得見。太后曰:「凡有天下治為萬民命者,蓋之如天,容之如地,上有歡心以安百姓,百姓欣然以事其上,歡欣交通而天下治。今皇帝病久不已,乃失惑惛亂,不能繼嗣奉宗廟祭祀,不可屬天下,其代之。」群臣皆頓首言:「皇太后為天下齊民計所以安宗廟社稷甚深,群臣頓首奉詔。」帝廢位,太后幽殺之。五月丙辰,立常山王義為帝,更名曰弘。不稱元年者,以太后制天下事也。以軹侯朝為常山王。置太尉官,絳侯勃為太尉。五年八月,淮陽王薨,以弟壺關侯武為淮陽王。六年十月,太后曰呂王嘉居處驕恣,廢之,以肅王台弟呂產為呂王。夏,赦天下。封齊悼惠王子興居為東牟侯。七年正月,太后召趙王友。友以諸呂女為受后,弗愛,愛他姬,諸呂女妒,怒去,讒之於太后,誣以罪過,曰:「呂氏安得王!太后百歲後,吾必擊之」。太后怒,以故召趙王。趙王至,置邸不見,令衛圍守之,弗與食。其群臣或竊饋,輒捕論之,趙王餓,乃歌曰:「諸呂用事兮劉氏危,迫脅王侯兮彊授我妃。
新字:帝壮,或聞其母死,非真皇后子,乃出言曰:「后安能殺吾母而名我?我未壮,壮即為変。」太后聞而患之,恐其為乱,乃幽之永巻中,言帝病甚,左右莫得見。太后曰:「凡有天下治為万民命者,蓋之如天,容之如地,上有歓心以安百姓,百姓欣然以事其上,歓欣交通而天下治。今皇帝病久不已,乃失惑惛乱,不能継嗣奉宗廟祭祀,不可属天下,其代之。」群臣皆頓首言:「皇太后為天下斉民計所以安宗廟社稷甚深,群臣頓首奉詔。」帝廃位,太后幽殺之。五月丙辰,立常山王義為帝,更名曰弘。不称元年者,以太后制天下事也。以軹侯朝為常山王。置太尉官,絳侯勃為太尉。五年八月,淮陽王薨,以弟壺関侯武為淮陽王。六年十月,太后曰呂王嘉居処驕恣,廃之,以粛王台弟呂産為呂王。夏,赦天下。封斉悼恵王子興居為東牟侯。七年正月,太后召趙王友。友以諸呂女為受后,弗愛,愛他姫,諸呂女妬,怒去,讒之於太后,誣以罪過,曰:「呂氏安得王!太后百歳後,吾必撃之」。太后怒,以故召趙王。趙王至,置邸不見,令衛囲守之,弗与食。其群臣或窃饋,輒捕論之,趙王餓,乃歌曰:「諸呂用事兮劉氏危,迫脅王侯兮彊授我妃。
書き下し
帝壮にして、或いは其の母の死して、真の皇后の子に非ざるを聞き、乃ち言を出だして曰く、「后安んぞ能く吾が母を殺して我を名づくる。我未だ壮ならず、壮ならば即ち変を為さん。」と。太后聞きて之を患ひ、其の乱を為さんことを恐れ、乃ち之を永巷の中に幽し、帝の病甚だしと言ひ、左右見るを得る莫し。太后曰く、「凡そ天下を有ちて治めて万民の命と為す者は、之を蓋ふこと天の如く、之を容るること地の如し、上に歓心有りて以て百姓を安んじ、百姓欣然として以て其の上に事へ、歓欣交通して天下治まる。今皇帝病久しくして已まず、乃ち失惑惛乱し、嗣を継ぎて宗廟の祭祀を奉ずる能はず、天下を属すべからず、其れ之に代へよ。」と。群臣皆頓首して言ふ、「皇太后天下の斉民の為に宗廟社稷を安んずる所以を計ること甚だ深し、群臣頓首して詔を奉ず。」と。帝位を廃せられ、太后之を幽殺す。五月丙辰、常山王義を立てて帝と為し、名を更めて弘と曰ふ。元年と称せざるは、太后天下の事を制するを以てなり。軹侯朝を以て常山王と為す。太尉の官を置き、絳侯勃を太尉と為す。五年八月、淮陽王薨ず、弟壺関侯武を以て淮陽王と為す。六年十月、太后曰く呂王嘉居処驕恣なりと、之を廃し、粛王台の弟呂産を以て呂王と為す。夏、天下に赦す。斉の悼恵王の子興居を封じて東牟侯と為す。七年正月、太后趙王友を召す。友諸呂の女を以て后と受くるも、愛さず、他姫を愛す、諸呂の女妒み、怒りて去り、之を太后に讒し、誣ふるに罪過を以てして、曰く、「呂氏安んぞ王たるを得ん。太后百歳の後、吾必ず之を撃たん」と。太后怒り、故を以て趙王を召す。趙王至る、邸に置きて見ず、衛をして囲みて之を守らしめ、食を与へず。其の群臣或いは竊かに饋る、輒ち捕へて之を論ず、趙王餓ゑ、乃ち歌ひて曰く、「諸呂事を用ゐて劉氏危ふし、王侯を迫脅して彊ひて我に妃を授く。
現代語訳
帝は成長するにつれ、実の母が殺されていて、自分は本当の皇后の子ではないということをどこからか聞きつけ、こう口にした。「皇后はどうして私の母を殺して、私を自分の子と名乗らせたのか。私はまだ成人していないが、成人したら必ず事を起こしてやる」。太后はこれを聞いて心配し、帝が乱を起こすのを恐れて、帝を永巷(宮中の獄)に閉じ込め、帝の病が重いと言いふらして、側近の誰も会えないようにした。太后は言った。「およそ天下を保って治め、万民の命を預かる者は、天のように民を覆い、地のように民を受け入れるものだ。上に立つ者が喜ばしい心で民を安んじ、民が喜んで上に仕え、喜びが上下に通い合ってこそ天下は治まる。いま皇帝は病が長く治らず、心が乱れて正気を失い、跡を継いで宗廟の祭祀を行うことができない。天下を任せることはできないから、別の者に代えよ」。群臣は皆頭を地につけて言った。「皇太后が天下の民のために宗廟と社稷を安んじようとお考えになることは、たいへん深いものだ。群臣は謹んで詔をお受けする」。帝は位を廃され、太后はこれを幽閉して殺した。五月丙辰の日、常山王劉義を立てて皇帝とし、名を改めて弘とした。元年と称さなかったのは、太后が天下の政事を取り仕切っていたからである。軹侯劉朝を常山王とした。太尉の官を置き、絳侯周勃を太尉とした。五年(前183年)八月、淮陽王が亡くなり、その弟の壺関侯劉武を淮陽王とした。六年(前182年)十月、太后は呂王呂嘉の暮らしぶりが驕り高ぶってわがままだとして、これを廃し、粛王呂台の弟の呂産を呂王とした。夏、天下に大赦を行った。斉の悼恵王の子の劉興居を東牟侯に封じた。七年(前181年)正月、太后は趙王劉友を呼び寄せた。劉友は呂氏一族の娘を王后として迎えていたが、愛さず、ほかの側室を愛していた。呂氏の娘は嫉妬し、怒って去り、太后に讒言して、罪をでっち上げて言った。「趙王は『呂氏がどうして王になれようか。太后が亡くなった後、私は必ず呂氏を討つ』と言っている」。太后は怒り、そのために趙王を呼び寄せたのである。趙王が都に着くと、太后は屋敷に置いたまま会わず、衛兵に囲ませて見張らせ、食事を与えなかった。趙王の家臣の中にはひそかに食べ物を差し入れる者もいたが、そのたびに捕らえて罰した。趙王は飢え、そこで歌を作って歌った。「呂氏一族が政治を握って劉氏は危うい。王侯を脅して、無理やり私に妃を押しつけた。
解説
関連する章句
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史記 呂太后本紀十一月、太后王陵を廃せんと欲し、乃ち拝して帝の太傅と為し、之が相権を奪ふ。王陵遂に病みて免ぜられて帰る。乃ち左丞相平を以て右丞相と為し、辟陽侯審食其を以て左丞相と為す。左丞相事を治めず、宮中を監せしむること、郎中令の如し。食其故より太后に幸せらるるを得て、常に事を用ゐ、公卿皆因りて事を決す。乃ち酈侯の父を追尊して悼武王と為し、以て諸呂を王とする漸と為さんと欲す。四月、太后諸呂を侯とせんと欲し、乃ち先づ高祖の功臣郎中令無択を封じて博城侯と為す。魯元公主薨ず、謚を賜ひて魯元太后と為す。子偃を魯王と為す。魯王の父は、宣平侯張敖なり。斉の悼恵王の子章を封じて朱虚侯と為し、呂禄の女を以て之に妻はす。斉の丞相寿を平定侯と為す。少府延を梧侯と為す。乃ち呂種を封じて沛侯と為し、呂平を扶柳侯と為し、張買を南宮侯と為す。太后呂氏を王とせんと欲し、先づ孝恵の後宮の子彊を立てて淮陽王と為し、子不疑を常山王と為し、子山を襄城侯と為し、子朝を軹侯と為し、子武を壺関侯と為す。太后大臣に風す、大臣酈侯呂台を立てて呂王と為さんことを請ふ、太后之を許す。建成の康侯釈之卒す、嗣子罪有り、廃す、其の弟呂禄を立てて胡陵侯と為し、康侯の後を続がしむ。二年、常山王薨ず、其の弟襄城侯山を以て常山王と為し、名を義と更む。十一月、呂王台薨ず、謚して粛王と為す、太子嘉代はり立ちて王と為る。三年、事無し。四年、呂嬃を封じて臨光侯と為し、呂他を兪侯と為し、呂更始を贅其侯と為し、呂忿を呂城侯と為し、及び諸侯の丞相五人を封ず。宣平侯の女孝恵の皇后為りし時、子無し、詳りて身有りと為し、美人の子を取りて之に名づけ、其の母を殺し、名づくる所の子を立てて太子と為す。孝恵崩じ、太子立ちて帝と為る。
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史記 呂太后本紀我が妃既に妒みて我を誣ふるに悪を以てす、讒女国を乱せども上曾て寤らず。我に忠臣無くして何の故に国を棄つる、自ら中野に決せば蒼天直を挙げん。于嗟(ああ)悔ゆべからず寧ろ蚤く自ら財(た)たん。王と為りて餓死す誰か之を憐れまん、呂氏理を絶つ天に託して仇を報いん。」と。丁丑、趙王幽死す、民の礼を以て之を長安の民の冢の次に葬る。己丑、日食し、昼晦し。太后之を悪み、心楽しまず、乃ち左右に謂ひて曰く、「此れ我が為なり。」と。二月、梁王恢を徙して趙王と為す。呂王産徙りて梁王と為る、梁王国に之かず、帝の太傅と為る。皇子平昌侯太を立てて呂王と為す。梁を更名して呂と曰ひ、呂を済川と曰ふ。太后の女弟呂嬃に女有り営陵侯劉沢の妻為り、沢は大将軍為り。太后諸呂を王とし、即ち崩じて後劉将軍の害を為さんことを恐れ、乃ち劉沢を以て瑯邪王と為し、以て其の心を慰む。梁王恢の徙りて趙に王たるや、心に楽しまざるを懐く。太后呂産の女を以て趙王の后と為す。王后の従官皆諸呂にして、権を擅にし、微かに趙王を伺ふ、趙王自ら恣にするを得ず。王に愛する所の姫有り、王后人をして酖して之を殺さしむ。王乃ち歌詩四章を為り、楽人をして之を歌はしむ。王悲しみ、六月即ち自殺す。太后之を聞き、以為へらく王婦人を用ゐて宗廟の礼を棄つと、其の嗣を廃す。宣平侯張敖卒す、子偃を以て魯王と為し、敖に謚を賜ひて魯元王と為す。秋、太后使をして代王に告げしめ、徙して趙に王とせんと欲す。代王謝し、代の辺を守らんことを願ふ。太傅産・丞相平等言ふ、武信侯呂禄は上侯にして、位次第一なり、請ふ立てて趙王と為さんと。太后之を許し、禄の父康侯を追尊して趙の昭王と為す。九月、燕の霊王建薨ず、美人の子有り、太后人をして之を殺さしむ、後無く、国除かる。
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史記 呂太后本紀孝恵帝慈仁にして、太后の怒りを知り、自ら趙王を霸上に迎へ、与に宮に入り、自ら挾みて趙王と起居飲食を与にす。太后之を殺さんと欲するも、間を得ず。孝恵の元年十二月、帝晨に出でて射す。趙王少くして、蚤く起くる能はず。太后其の独り居るを聞き、人をして酖を持ちて之に飲ましむ。犁明、孝恵還る、趙王已に死せり。是に於て乃ち淮陽王友を徙して趙王と為す。夏、詔して酈侯の父に賜ひて追謚して令武侯と為す。
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史記 呂太后本紀壬戌、帝の太傅食其を以て復た左丞相と為す。戊辰、済川王を徙して梁に王とし、趙の幽王の子遂を立てて趙王と為す。朱虚侯章を遣はして諸呂氏を誅する事を以て斉王に告げ、兵を罷めしむ。灌嬰の兵も亦滎陽に罷めて帰る。諸大臣相与に陰かに謀りて曰く、「少帝及び梁・淮陽・常山王は、皆真の孝恵の子に非ざるなり。呂后計を以て詐りて他人の子を名づけ、其の母を殺し、後宮に養ひ、孝恵をして之を子とせしめ、立てて以て後と為し、及び諸王とし、以て呂氏を彊くす。今皆已に諸呂を夷滅し、而して立つる所を置かば、即ち長じて事を用ゐば、吾が属類無からん。諸王の最も賢なる者を視て之を立つるに如かず。」と。或るひと言ふ「斉の悼恵王は高帝の長子なり、今其の適子斉王為り、本を推して之を言はば、高帝の適長孫なり、立つべきなり」と。大臣皆曰く、「呂氏は外家の悪を以て幾ど宗廟を危ふくし、功臣を乱す。今斉王の母家は駟(鈞)、駟鈞は、悪人なり。即し斉王を立てば、則ち復た呂氏と為らん。」と。淮南王を立てんと欲するも、以為へらく少なりと、母家も又悪し。乃ち曰く、「代王は方今高帝の見子にして、最も長じ、仁孝寛厚なり。太后の家薄氏は謹良なり。且つ長を立つるは故より順なり、仁孝を以て天下に聞こゆ、便なり。」と。乃ち相与に共に陰かに人をして代王を召さしむ。代王人をして辞謝せしむ。再び反りて、然る後に六乗の伝に乗る。後九月晦日己酉、長安に至り、代邸に舎る。大臣皆往きて謁し、天子の璽を奉じて代王に上り、共に尊びて立てて天子と為す。代王数(しばしば)譲る、群臣固く請ふ、然る後に聴く。東牟侯興居曰く、「呂氏を誅するに吾功無し、請ふ宮を除くことを得ん。」と。乃ち太僕汝陰侯滕公と宮に入り、前みて少帝に謂ひて曰く、「足下は劉氏に非ず、当に立つべからず。」と。乃ち顧みて左右の戟を執る者に麾(さしまね)きて兵を掊(す)てて罷り去らしむ。数人の肯へて兵を去らざる有り、宦者令張沢諭告し、亦兵を去る。
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史記 呂太后本紀朱虚侯中より大臣と応を為さんと欲す。斉王兵を発せんと欲す、其の相聴かず。八月丙午、斉王人をして相を誅せしめんと欲す、相召平乃ち反し、兵を挙げて王を囲まんと欲す、王因りて其の相を殺し、遂に兵を発して東し、詐りて瑯邪王の兵を奪ひ、并せて之に将として西す。語は斉王の語中に在り。斉王乃ち諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王斉に王たり。悼恵王薨ず、孝恵帝留侯良をして臣を立てて斉王と為さしむ。孝恵崩じ、高后事を用ゐ、春秋高く、諸呂に聴き、擅に帝を廃して更に立て、又比(しき)りに三趙王を殺し、梁・趙・燕を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、而して帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸侯を恃む。而るに諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚めて威を厳しくし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。寡人兵を率ゐて入りて当に王たるべからざる者を誅せん。」と。漢之を聞き、相国呂産等乃ち潁陰侯灌嬰を遣はして兵を将ゐて之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を関中に権(にぎ)り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。今我斉を破りて還り報ぜば、此れ呂氏の資を益すなり。」と。乃ち留まりて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に諭さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて、共に之を誅せんとす。斉王之を聞き、乃ち兵を還して西界に約を待つ。呂禄・呂産乱を関中に発せんと欲す、内には絳侯・朱虚等を憚り、外には斉・楚の兵を畏れ、又灌嬰の之に畔(そむ)かんことを恐れ、灌嬰の兵の斉と合するを待ちて発せんと欲し、猶予して未だ決せず。是の時に当たりて、済川王太・淮陽王武・常山王朝は名づけて少帝の弟と為し、及び魯元王は呂后の外孫にして、皆年少くして未だ国に之かず、長安に居る。趙王禄・梁王産各々兵を将ゐて南北軍に居る、皆呂氏の人なり。
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史記 呂太后本紀孝恵此を以て日々飲みて淫楽を為し、政を聴かず、故に病有るなり。二年、楚の元王・斉の悼恵王皆来朝す。十月、孝恵斉王と太后の前に燕飲す、孝恵以為へらく斉王は兄なりと、上坐に置き、家人の礼の如くす。太后怒り、乃ち両卮の酖を酌みて、前に置かしめ、斉王をして起ちて寿を為さしむ。斉王起つ、孝恵も亦起ち、卮を取りて倶に寿を為さんと欲す。太后乃ち恐れ、自ら起ちて孝恵の卮を泛(くつがへ)す。斉王之を怪しみ、因りて敢へて飲まず、詳(いつは)り酔ひて去る。問ひて、其の酖なるを知る、斉王恐れ、自ら以為へらく長安を脱するを得ずと、憂ふ。斉の内史士王に説きて曰く、「太后は独り孝恵と魯元公主とを有つ。今王は七十余城を有ち、而して公主は乃ち数城を食む。王誠に一郡を以て太后に上り、公主の湯沐の邑と為さば、太后必ず喜び、王必ず憂ひ無からん。」と。是に於て斉王乃ち城陽の郡を上り、公主を尊びて王太后と為す。呂后喜び、之を許す。乃ち斉の邸に置酒し、楽しみ飲み、罷みて、斉王を帰す。三年、方に長安城を築く、四年に半ばを就し、五年六年に城就る。諸侯来会す。十月朝賀す。七年秋八月戊寅、孝恵帝崩ず。喪を発す、太后哭すれども、泣下らず。留侯の子張辟彊侍中為り、年十五、丞相に謂ひて曰く、「太后は独り孝恵を有つのみ、今崩じて、哭すれども悲しまず、君其の解を知るか。」と。丞相曰く、「何の解ぞ。」と。辟彊曰く、「帝に壮子毋し、太后君等を畏る。君今請ひて呂台・呂産・呂禄を拝して将と為し、兵を将ゐて南北軍に居らしめ、及び諸呂皆宮に入り、中に居りて事を用ゐしめよ、此くの如くならば則ち太后の心安んじ、君等幸ひに禍を脱するを得ん。」と。丞相乃ち辟彊の計の如くす。太后説び、其の哭乃ち哀し。呂氏の権此より起こる。乃ち天下に大赦す。九月辛丑、葬る。太子即位して帝と為り、高廟に謁す。元年、号令一に太后より出づ。
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