史記 / 呂太后本紀
十一月,太后欲廢王陵,乃拜為帝太傅,奪之相權。王陵遂病免歸。乃以左丞相平為右丞相,以辟陽侯審食其為左丞相。左丞相不治事,令監宮中,如郎中令。食其故得幸太后,常用事,公卿皆因而決事。乃追尊酈侯父為悼武王,欲以王諸呂為漸。四月,太后欲侯諸呂,乃先封高祖之功臣郎中令無擇為博城侯。魯元公主薨,賜謚為魯元太后。子偃為魯王。魯王父,宣平侯張敖也。封齊悼惠王子章為朱虛侯,以呂祿女妻之。齊丞相壽為平定侯。少府延為梧侯。乃封呂種為沛侯,呂平為扶柳侯,張買為南宮侯。太后欲王呂氏,先立孝惠後宮子彊為淮陽王,子不疑為常山王,子山為襄城侯,子朝為軹侯,子武為壺關侯。太后風大臣,大臣請立酈侯呂台為呂王,太后許之。建成康侯釋之卒,嗣子有罪,廢,立其弟呂祿為胡陵侯,續康侯後。二年,常山王薨,以其弟襄城侯山為常山王,更名義。十一月,呂王台薨,謚為肅王,太子嘉代立為王。三年,無事。四年,封呂嬃為臨光侯,呂他為俞侯,呂更始為贅其侯,呂忿為呂城侯,及諸侯丞相五人。宣平侯女為孝惠皇后時,無子,詳為有身,取美人子名之,殺其母,立所名子為太子。孝惠崩,太子立為帝。
新字:十一月,太后欲廃王陵,乃拝為帝太傅,奪之相権。王陵遂病免帰。乃以左丞相平為右丞相,以辟陽侯審食其為左丞相。左丞相不治事,令監宮中,如郎中令。食其故得幸太后,常用事,公卿皆因而決事。乃追尊酈侯父為悼武王,欲以王諸呂為漸。四月,太后欲侯諸呂,乃先封高祖之功臣郎中令無択為博城侯。魯元公主薨,賜謚為魯元太后。子偃為魯王。魯王父,宣平侯張敖也。封斉悼恵王子章為朱虚侯,以呂禄女妻之。斉丞相寿為平定侯。少府延為梧侯。乃封呂種為沛侯,呂平為扶柳侯,張買為南宮侯。太后欲王呂氏,先立孝恵後宮子彊為淮陽王,子不疑為常山王,子山為襄城侯,子朝為軹侯,子武為壺関侯。太后風大臣,大臣請立酈侯呂台為呂王,太后許之。建成康侯釈之卒,嗣子有罪,廃,立其弟呂禄為胡陵侯,続康侯後。二年,常山王薨,以其弟襄城侯山為常山王,更名義。十一月,呂王台薨,謚為粛王,太子嘉代立為王。三年,無事。四年,封呂嬃為臨光侯,呂他為兪侯,呂更始為贅其侯,呂忿為呂城侯,及諸侯丞相五人。宣平侯女為孝恵皇后時,無子,詳為有身,取美人子名之,殺其母,立所名子為太子。孝恵崩,太子立為帝。
書き下し
十一月、太后王陵を廃せんと欲し、乃ち拝して帝の太傅と為し、之が相権を奪ふ。王陵遂に病みて免ぜられて帰る。乃ち左丞相平を以て右丞相と為し、辟陽侯審食其を以て左丞相と為す。左丞相事を治めず、宮中を監せしむること、郎中令の如し。食其故より太后に幸せらるるを得て、常に事を用ゐ、公卿皆因りて事を決す。乃ち酈侯の父を追尊して悼武王と為し、以て諸呂を王とする漸と為さんと欲す。四月、太后諸呂を侯とせんと欲し、乃ち先づ高祖の功臣郎中令無択を封じて博城侯と為す。魯元公主薨ず、謚を賜ひて魯元太后と為す。子偃を魯王と為す。魯王の父は、宣平侯張敖なり。斉の悼恵王の子章を封じて朱虚侯と為し、呂禄の女を以て之に妻はす。斉の丞相寿を平定侯と為す。少府延を梧侯と為す。乃ち呂種を封じて沛侯と為し、呂平を扶柳侯と為し、張買を南宮侯と為す。太后呂氏を王とせんと欲し、先づ孝恵の後宮の子彊を立てて淮陽王と為し、子不疑を常山王と為し、子山を襄城侯と為し、子朝を軹侯と為し、子武を壺関侯と為す。太后大臣に風す、大臣酈侯呂台を立てて呂王と為さんことを請ふ、太后之を許す。建成の康侯釈之卒す、嗣子罪有り、廃す、其の弟呂禄を立てて胡陵侯と為し、康侯の後を続がしむ。二年、常山王薨ず、其の弟襄城侯山を以て常山王と為し、名を義と更む。十一月、呂王台薨ず、謚して粛王と為す、太子嘉代はり立ちて王と為る。三年、事無し。四年、呂嬃を封じて臨光侯と為し、呂他を兪侯と為し、呂更始を贅其侯と為し、呂忿を呂城侯と為し、及び諸侯の丞相五人を封ず。宣平侯の女孝恵の皇后為りし時、子無し、詳りて身有りと為し、美人の子を取りて之に名づけ、其の母を殺し、名づくる所の子を立てて太子と為す。孝恵崩じ、太子立ちて帝と為る。
現代語訳
十一月、太后は王陵を退けようと考え、帝の太傅(教育係)に任じて宰相の権限を奪った。王陵はついに病気を理由に職を免じられて帰郷した。そこで左丞相の陳平を右丞相とし、辟陽侯審食其を左丞相とした。左丞相は政務を執らず、宮中を監督させ、郎中令(宮中の警護長官)のような役目をさせた。審食其は以前から太后の寵愛を受けていたので、いつも政務に関わり、大臣たちは皆彼を通じて事を決めた。そこで酈侯(呂台)の父を追尊して悼武王とし、呂氏一族を王とするための足がかりにしようとした。四月、太后は呂氏一族を侯に封じようとし、まず高祖の功臣で郎中令の無択を博城侯に封じた。魯元公主が亡くなったので、諡を贈って魯元太后とした。その子の張偃を魯王とした。魯王の父は宣平侯張敖である。斉の悼恵王の子の劉章を朱虚侯に封じ、呂禄の娘を妻として与えた。斉の丞相の寿を平定侯とした。少府(宮中の財政長官)の延を梧侯とした。そして呂種を沛侯に、呂平を扶柳侯に、張買を南宮侯に封じた。太后は呂氏を王にしようとして、まず孝恵帝の後宮の子の劉彊を淮陽王に、劉不疑を常山王に立て、劉山を襄城侯に、劉朝を軹侯に、劉武を壺関侯に封じた。太后が大臣たちにそれとなくほのめかすと、大臣たちは酈侯呂台を呂王に立てるよう願い出たので、太后はこれを許した。建成の康侯呂釈之が亡くなり、跡継ぎの子が罪を犯して廃されたので、その弟の呂禄を胡陵侯に立て、康侯の家を継がせた。二年(前186年)、常山王が亡くなったので、その弟の襄城侯劉山を常山王とし、名を義と改めさせた。十一月、呂王呂台が亡くなり、諡して粛王とし、太子の呂嘉が代わって王となった。三年は何事もなかった。四年(前184年)、呂嬃を臨光侯に、呂他を兪侯に、呂更始を贅其侯に、呂忿を呂城侯に封じ、あわせて諸侯の丞相五人を封じた。宣平侯(張敖)の娘は孝恵帝の皇后であったが、子がなかったので、身ごもったふりをして、後宮の美人の子を取って自分の子と名乗らせ、その母を殺して、その子を太子に立てていた。孝恵帝が崩御すると、この太子が即位して皇帝となった。
解説
関連する章句
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史記 呂太后本紀帝壮にして、或いは其の母の死して、真の皇后の子に非ざるを聞き、乃ち言を出だして曰く、「后安んぞ能く吾が母を殺して我を名づくる。我未だ壮ならず、壮ならば即ち変を為さん。」と。太后聞きて之を患ひ、其の乱を為さんことを恐れ、乃ち之を永巷の中に幽し、帝の病甚だしと言ひ、左右見るを得る莫し。太后曰く、「凡そ天下を有ちて治めて万民の命と為す者は、之を蓋ふこと天の如く、之を容るること地の如し、上に歓心有りて以て百姓を安んじ、百姓欣然として以て其の上に事へ、歓欣交通して天下治まる。今皇帝病久しくして已まず、乃ち失惑惛乱し、嗣を継ぎて宗廟の祭祀を奉ずる能はず、天下を属すべからず、其れ之に代へよ。」と。群臣皆頓首して言ふ、「皇太后天下の斉民の為に宗廟社稷を安んずる所以を計ること甚だ深し、群臣頓首して詔を奉ず。」と。帝位を廃せられ、太后之を幽殺す。五月丙辰、常山王義を立てて帝と為し、名を更めて弘と曰ふ。元年と称せざるは、太后天下の事を制するを以てなり。軹侯朝を以て常山王と為す。太尉の官を置き、絳侯勃を太尉と為す。五年八月、淮陽王薨ず、弟壺関侯武を以て淮陽王と為す。六年十月、太后曰く呂王嘉居処驕恣なりと、之を廃し、粛王台の弟呂産を以て呂王と為す。夏、天下に赦す。斉の悼恵王の子興居を封じて東牟侯と為す。七年正月、太后趙王友を召す。友諸呂の女を以て后と受くるも、愛さず、他姫を愛す、諸呂の女妒み、怒りて去り、之を太后に讒し、誣ふるに罪過を以てして、曰く、「呂氏安んぞ王たるを得ん。太后百歳の後、吾必ず之を撃たん」と。太后怒り、故を以て趙王を召す。趙王至る、邸に置きて見ず、衛をして囲みて之を守らしめ、食を与へず。其の群臣或いは竊かに饋る、輒ち捕へて之を論ず、趙王餓ゑ、乃ち歌ひて曰く、「諸呂事を用ゐて劉氏危ふし、王侯を迫脅して彊ひて我に妃を授く。
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史記 呂太后本紀孝恵此を以て日々飲みて淫楽を為し、政を聴かず、故に病有るなり。二年、楚の元王・斉の悼恵王皆来朝す。十月、孝恵斉王と太后の前に燕飲す、孝恵以為へらく斉王は兄なりと、上坐に置き、家人の礼の如くす。太后怒り、乃ち両卮の酖を酌みて、前に置かしめ、斉王をして起ちて寿を為さしむ。斉王起つ、孝恵も亦起ち、卮を取りて倶に寿を為さんと欲す。太后乃ち恐れ、自ら起ちて孝恵の卮を泛(くつがへ)す。斉王之を怪しみ、因りて敢へて飲まず、詳(いつは)り酔ひて去る。問ひて、其の酖なるを知る、斉王恐れ、自ら以為へらく長安を脱するを得ずと、憂ふ。斉の内史士王に説きて曰く、「太后は独り孝恵と魯元公主とを有つ。今王は七十余城を有ち、而して公主は乃ち数城を食む。王誠に一郡を以て太后に上り、公主の湯沐の邑と為さば、太后必ず喜び、王必ず憂ひ無からん。」と。是に於て斉王乃ち城陽の郡を上り、公主を尊びて王太后と為す。呂后喜び、之を許す。乃ち斉の邸に置酒し、楽しみ飲み、罷みて、斉王を帰す。三年、方に長安城を築く、四年に半ばを就し、五年六年に城就る。諸侯来会す。十月朝賀す。七年秋八月戊寅、孝恵帝崩ず。喪を発す、太后哭すれども、泣下らず。留侯の子張辟彊侍中為り、年十五、丞相に謂ひて曰く、「太后は独り孝恵を有つのみ、今崩じて、哭すれども悲しまず、君其の解を知るか。」と。丞相曰く、「何の解ぞ。」と。辟彊曰く、「帝に壮子毋し、太后君等を畏る。君今請ひて呂台・呂産・呂禄を拝して将と為し、兵を将ゐて南北軍に居らしめ、及び諸呂皆宮に入り、中に居りて事を用ゐしめよ、此くの如くならば則ち太后の心安んじ、君等幸ひに禍を脱するを得ん。」と。丞相乃ち辟彊の計の如くす。太后説び、其の哭乃ち哀し。呂氏の権此より起こる。乃ち天下に大赦す。九月辛丑、葬る。太子即位して帝と為り、高廟に謁す。元年、号令一に太后より出づ。
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史記 呂太后本紀呂太后は、高祖の微なりし時の妃なり、孝恵帝・女の魯元太后を生む。高祖の漢王と為るに及び、定陶の戚姫を得て、愛幸し、趙の隠王如意を生む。孝恵人と為り仁弱なり、高祖以為へらく我に類せずと、常に太子を廃して、戚姫の子如意を立てんと欲す、如意我に類すと。戚姫幸せられ、常に上に従ひて関東に之き、日夜啼泣し、其の子を立てて太子に代へんと欲す。呂后年長じ、常に留守し、上に見ゆること希にして、益々疏し。如意立ちて趙王と為りし後、幾ど太子に代はらんとする者数(しばしば)なり、大臣の之を争ひ、及び留侯の策に頼りて、太子廃せらるる毋きを得たり。呂后人と為り剛毅にして、高祖を佐けて天下を定む、誅する所の大臣多く呂后の力なり。呂后の兄二人、皆将と為る。長兄周呂侯事に死し、其の子呂台を封じて酈侯と為し、子産を交侯と為す。次兄呂釈之を建成侯と為す。高祖十二年四月甲辰、長楽宮に崩ず、太子号を襲ひて帝と為る。是の時高祖の八子、長男肥は、孝恵の兄なり、母を異にす、肥は斉王為り。余は皆孝恵の弟なり、戚姫の子如意は趙王為り、薄夫人の子恒は代王為り、諸姫の子子恢は梁王為り、子友は淮陽王為り、子長は淮南王為り、子建は燕王為り。高祖の弟交は楚王為り、兄の子濞は呉王為り。劉氏に非ざる功臣番君呉芮の子臣は長沙王為り。呂后最も戚夫人及び其の子趙王を怨み、乃ち永巷をして戚夫人を囚へしめ、而して趙王を召す。使者三たび反る、趙の相建平侯周昌使者に謂ひて曰く、「高帝臣に趙王を属す、趙王年少なり。竊かに聞く太后戚夫人を怨み、趙王を召して并せて之を誅せんと欲すと、臣敢へて王を遣はさず。王も且つ亦病めり、詔を奉ずる能はず。」と。呂后大いに怒り、乃ち人をして趙の相を召さしむ。趙の相徴されて長安に至る、乃ち人をして復た趙王を召さしむ。王来たるも、未だ到らず。
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史記 呂太后本紀高后已に葬る、左丞相審食其を以て帝の太傅と為す。朱虚侯劉章気力有り、東牟侯興居は其の弟なり。皆斉の哀王の弟にして、長安に居る。是の時に当たりて、諸呂事を用ゐて権を擅にし、乱を為さんと欲す、高帝の故の大臣絳・灌等を畏れ、未だ敢へて発せず。朱虚侯の婦は、呂禄の女なり、陰かに其の謀を知る。誅せられんことを恐れ、乃ち陰かに人をして其の兄斉王に告げしめ、兵を発して西せしめ、諸呂を誅して立たしめんと欲す。
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史記 呂太后本紀朱虚侯中より大臣と応を為さんと欲す。斉王兵を発せんと欲す、其の相聴かず。八月丙午、斉王人をして相を誅せしめんと欲す、相召平乃ち反し、兵を挙げて王を囲まんと欲す、王因りて其の相を殺し、遂に兵を発して東し、詐りて瑯邪王の兵を奪ひ、并せて之に将として西す。語は斉王の語中に在り。斉王乃ち諸侯王に書を遺りて曰く、「高帝天下を平定し、諸子弟を王とし、悼恵王斉に王たり。悼恵王薨ず、孝恵帝留侯良をして臣を立てて斉王と為さしむ。孝恵崩じ、高后事を用ゐ、春秋高く、諸呂に聴き、擅に帝を廃して更に立て、又比(しき)りに三趙王を殺し、梁・趙・燕を滅ぼして以て諸呂を王とし、斉を分かちて四と為す。忠臣進諫するも、上惑乱して聴かず。今高后崩じ、而して帝春秋富み、未だ天下を治むる能はず、固より大臣諸侯を恃む。而るに諸呂又擅に自ら官を尊くし、兵を聚めて威を厳しくし、列侯忠臣を劫かし、制を矯めて以て天下に令す、宗廟の危ふき所以なり。寡人兵を率ゐて入りて当に王たるべからざる者を誅せん。」と。漢之を聞き、相国呂産等乃ち潁陰侯灌嬰を遣はして兵を将ゐて之を撃たしむ。灌嬰滎陽に至り、乃ち謀りて曰く、「諸呂兵を関中に権(にぎ)り、劉氏を危ふくして自立せんと欲す。今我斉を破りて還り報ぜば、此れ呂氏の資を益すなり。」と。乃ち留まりて滎陽に屯し、使をして斉王及び諸侯に諭さしめ、与に連和し、以て呂氏の変を待ちて、共に之を誅せんとす。斉王之を聞き、乃ち兵を還して西界に約を待つ。呂禄・呂産乱を関中に発せんと欲す、内には絳侯・朱虚等を憚り、外には斉・楚の兵を畏れ、又灌嬰の之に畔(そむ)かんことを恐れ、灌嬰の兵の斉と合するを待ちて発せんと欲し、猶予して未だ決せず。是の時に当たりて、済川王太・淮陽王武・常山王朝は名づけて少帝の弟と為し、及び魯元王は呂后の外孫にして、皆年少くして未だ国に之かず、長安に居る。趙王禄・梁王産各々兵を将ゐて南北軍に居る、皆呂氏の人なり。
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史記 呂太后本紀壬戌、帝の太傅食其を以て復た左丞相と為す。戊辰、済川王を徙して梁に王とし、趙の幽王の子遂を立てて趙王と為す。朱虚侯章を遣はして諸呂氏を誅する事を以て斉王に告げ、兵を罷めしむ。灌嬰の兵も亦滎陽に罷めて帰る。諸大臣相与に陰かに謀りて曰く、「少帝及び梁・淮陽・常山王は、皆真の孝恵の子に非ざるなり。呂后計を以て詐りて他人の子を名づけ、其の母を殺し、後宮に養ひ、孝恵をして之を子とせしめ、立てて以て後と為し、及び諸王とし、以て呂氏を彊くす。今皆已に諸呂を夷滅し、而して立つる所を置かば、即ち長じて事を用ゐば、吾が属類無からん。諸王の最も賢なる者を視て之を立つるに如かず。」と。或るひと言ふ「斉の悼恵王は高帝の長子なり、今其の適子斉王為り、本を推して之を言はば、高帝の適長孫なり、立つべきなり」と。大臣皆曰く、「呂氏は外家の悪を以て幾ど宗廟を危ふくし、功臣を乱す。今斉王の母家は駟(鈞)、駟鈞は、悪人なり。即し斉王を立てば、則ち復た呂氏と為らん。」と。淮南王を立てんと欲するも、以為へらく少なりと、母家も又悪し。乃ち曰く、「代王は方今高帝の見子にして、最も長じ、仁孝寛厚なり。太后の家薄氏は謹良なり。且つ長を立つるは故より順なり、仁孝を以て天下に聞こゆ、便なり。」と。乃ち相与に共に陰かに人をして代王を召さしむ。代王人をして辞謝せしむ。再び反りて、然る後に六乗の伝に乗る。後九月晦日己酉、長安に至り、代邸に舎る。大臣皆往きて謁し、天子の璽を奉じて代王に上り、共に尊びて立てて天子と為す。代王数(しばしば)譲る、群臣固く請ふ、然る後に聴く。東牟侯興居曰く、「呂氏を誅するに吾功無し、請ふ宮を除くことを得ん。」と。乃ち太僕汝陰侯滕公と宮に入り、前みて少帝に謂ひて曰く、「足下は劉氏に非ず、当に立つべからず。」と。乃ち顧みて左右の戟を執る者に麾(さしまね)きて兵を掊(す)てて罷り去らしむ。数人の肯へて兵を去らざる有り、宦者令張沢諭告し、亦兵を去る。
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