史記 / 高祖本紀
呂后與審食其謀曰:「諸將與帝為編戶民,今北面為臣,此常怏怏,今乃事少主,非盡族是,天下不安。」人或聞之,語酈將軍。酈將軍往見審食其,曰:「吾聞帝已崩,四日不發喪,欲誅諸將。誠如此,天下危矣。陳平、灌嬰將十萬守滎陽,樊噲、周勃將二十萬定燕、代,此聞帝崩,諸將皆誅,必連兵還鄉以攻關中。大臣內叛,諸侯外反,亡可翹足而待也。」審食其入言之,乃以丁未發喪,大赦天下。盧綰聞高祖崩,遂亡入匈奴。丙寅,葬。己巳,立太子,至太上皇廟。群臣皆曰:「高祖起微細,撥亂世反之正,平定天下,為漢太祖,功最高。」上尊號為高皇帝。太子襲號為皇帝,孝惠帝也。令郡國諸侯各立高祖廟,以歲時祠。及孝惠五年,思高祖之悲樂沛,以沛宮為高祖原廟。高祖所教歌兒百二十人,皆令為吹樂,後有缺,輒補之。高帝八男:長庶齊悼惠王肥;次孝惠,呂后子;次戚夫人子趙隱王如意;次代王恒,已立為孝文帝,薄太后子;次梁王恢,呂太后時徙為趙共王;次淮陽王友,呂太后時徙為趙幽王;次淮南厲王長;次燕王建。太史公曰:夏之政忠。忠之敝,小人以野,故殷人承之以敬。敬之敝,小人以鬼,故周人承之以文。文之敝,小人以僿,故救僿莫若以忠。
新字:呂后与審食其謀曰:「諸将与帝為編戸民,今北面為臣,此常怏怏,今乃事少主,非尽族是,天下不安。」人或聞之,語酈将軍。酈将軍往見審食其,曰:「吾聞帝已崩,四日不発喪,欲誅諸将。誠如此,天下危矣。陳平、灌嬰将十万守滎陽,樊噲、周勃将二十万定燕、代,此聞帝崩,諸将皆誅,必連兵還郷以攻関中。大臣内叛,諸侯外反,亡可翹足而待也。」審食其入言之,乃以丁未発喪,大赦天下。盧綰聞高祖崩,遂亡入匈奴。丙寅,葬。己巳,立太子,至太上皇廟。群臣皆曰:「高祖起微細,撥乱世反之正,平定天下,為漢太祖,功最高。」上尊号為高皇帝。太子襲号為皇帝,孝恵帝也。令郡国諸侯各立高祖廟,以歳時祠。及孝恵五年,思高祖之悲楽沛,以沛宮為高祖原廟。高祖所教歌児百二十人,皆令為吹楽,後有欠,輒補之。高帝八男:長庶斉悼恵王肥;次孝恵,呂后子;次戚夫人子趙隠王如意;次代王恒,已立為孝文帝,薄太后子;次梁王恢,呂太后時徙為趙共王;次淮陽王友,呂太后時徙為趙幽王;次淮南厲王長;次燕王建。太史公曰:夏之政忠。忠之敝,小人以野,故殷人承之以敬。敬之敝,小人以鬼,故周人承之以文。文之敝,小人以僿,故救僿莫若以忠。
書き下し
呂后審食其と謀りて曰く、「諸将帝と編戸の民為り、今北面して臣と為る、此れ常に怏怏たり、今乃ち少主に事ふ、尽く族せざれば、天下安からず。」と。人或いは之を聞き、酈将軍に語る。酈将軍往きて審食其に見えて、曰く、「吾聞く帝已に崩じ、四日喪を発せず、諸将を誅せんと欲すと。誠に此くの如くならば、天下危ふし。陳平・灌嬰十万を将ゐて滎陽を守り、樊噲・周勃二十万を将ゐて燕・代を定む、此れ帝崩じ、諸将皆誅せらるると聞かば、必ず兵を連ねて郷に還りて以て関中を攻めん。大臣内に叛き、諸侯外に反せば、亡ぶること足を翹(つまだ)てて待つべきなり。」と。審食其入りて之を言ふ、乃ち丁未を以て喪を発し、天下に大赦す。盧綰高祖の崩ずるを聞き、遂に亡げて匈奴に入る。丙寅、葬る。己巳、太子を立て、太上皇の廟に至る。群臣皆曰く、「高祖微細より起こり、乱世を撥めて之を正に反し、天下を平定し、漢の太祖と為る、功最も高し。」と。尊号を上りて高皇帝と為す。太子号を襲ひて皇帝と為る、孝恵帝なり。郡国の諸侯をして各々高祖の廟を立て、歳時を以て祠らしむ。孝恵の五年に及び、高祖の沛を悲楽せしを思ひ、沛宮を以て高祖の原廟と為す。高祖の教へし所の歌児百二十人、皆吹楽を為さしめ、後に欠くる有れば、輒ち之を補ふ。高帝の八男、長は庶の斉の悼恵王肥。次は孝恵、呂后の子なり。次は戚夫人の子趙の隠王如意。次は代王恒、已に立ちて孝文帝と為る、薄太后の子なり。次は梁王恢、呂太后の時徙りて趙の共王と為る。次は淮陽王友、呂太后の時徙りて趙の幽王と為る。次は淮南の厲王長。次は燕王建。太史公曰く、夏の政は忠なり。忠の敝は、小人以て野なり、故に殷人之を承くるに敬を以てす。敬の敝は、小人以て鬼なり、故に周人之を承くるに文を以てす。文の敝は、小人以て僿(し)なり、故に僿を救ふは忠を以てするに若くは莫し。
現代語訳
呂后は審食其と謀って言った。「将たちはもともと帝と同じく戸籍に登録された一般の民だった。いま北面して臣下となっているが、それを常に不満に思っている。そのうえいま幼い君主に仕えることになれば、一族ごと皆殺しにしてしまわなければ、天下は安定しない」。ある人がこれを聞きつけ、酈将軍(酈商)に話した。酈将軍は審食其に会いに行って言った。「聞くところによれば、帝はすでに崩御されたのに四日も喪を発表せず、将たちを誅殺しようとしているとか。本当にそうなら、天下は危うい。陳平と灌嬰は十万を率いて滎陽を守り、樊噲と周勃は二十万を率いて燕と代を平定している。彼らが、帝が崩御して将たちが皆誅殺されたと聞けば、必ず兵を連ねて引き返し、関中を攻めるだろう。大臣が内で背き、諸侯が外で反乱を起こせば、漢が滅ぶのはつま先立ちして待つほどの間もないだろう」。審食其は宮中に入ってこのことを伝え、丁未の日に喪を発表し、天下に大赦を行った。盧綰は高祖の崩御を聞くと、ついに逃げて匈奴に入った。丙寅の日に葬った。己巳の日に太子を立て、太上皇の廟に参拝した。群臣は皆言った。「高祖は低い身分から身を起こし、乱世を治めて正しい世に戻し、天下を平定して漢の太祖となられた。その功績は最も高い」。そこで尊号を奉って高皇帝とした。太子が帝号を継いで皇帝となった。これが孝恵帝である。郡や諸侯国にそれぞれ高祖の廟を建てさせ、季節ごとに祀らせた。孝恵帝の五年になって、高祖が沛を懐かしみ楽しんでいたことを思い、沛の宮殿を高祖の原廟(本廟とは別に故郷に建てた廟)とした。高祖が歌を教えた子ども百二十人には、皆笛や音楽を奏でさせ、後に欠員が出るたびに補充した。高帝には八人の男子があった。長男は側室の子の斉の悼恵王劉肥。次が孝恵で、呂后の子である。次が戚夫人の子の趙の隠王如意。次が代王劉恒で、後に即位して孝文帝となった。薄太后の子である。次が梁王劉恢で、呂太后の時に移されて趙の共王となった。次が淮陽王劉友で、呂太后の時に移されて趙の幽王となった。次が淮南の厲王劉長。次が燕王劉建である。太史公(司馬遷)は言う。夏の政治は「忠」(まごころ)を重んじた。忠の弊害は、下々の者が粗野になることである。だから殷の人々はこれを受け継いで「敬」(神を敬うこと)を重んじた。敬の弊害は、下々の者が鬼神にとらわれることである。だから周の人々はこれを受け継いで「文」(礼の形式)を重んじた。文の弊害は、下々の者が形ばかりで誠がなくなることである。だから形ばかりの弊を救うには、忠をもってするに越したことはない。
解説
関連する章句
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史記 呂太后本紀呂太后は、高祖の微なりし時の妃なり、孝恵帝・女の魯元太后を生む。高祖の漢王と為るに及び、定陶の戚姫を得て、愛幸し、趙の隠王如意を生む。孝恵人と為り仁弱なり、高祖以為へらく我に類せずと、常に太子を廃して、戚姫の子如意を立てんと欲す、如意我に類すと。戚姫幸せられ、常に上に従ひて関東に之き、日夜啼泣し、其の子を立てて太子に代へんと欲す。呂后年長じ、常に留守し、上に見ゆること希にして、益々疏し。如意立ちて趙王と為りし後、幾ど太子に代はらんとする者数(しばしば)なり、大臣の之を争ひ、及び留侯の策に頼りて、太子廃せらるる毋きを得たり。呂后人と為り剛毅にして、高祖を佐けて天下を定む、誅する所の大臣多く呂后の力なり。呂后の兄二人、皆将と為る。長兄周呂侯事に死し、其の子呂台を封じて酈侯と為し、子産を交侯と為す。次兄呂釈之を建成侯と為す。高祖十二年四月甲辰、長楽宮に崩ず、太子号を襲ひて帝と為る。是の時高祖の八子、長男肥は、孝恵の兄なり、母を異にす、肥は斉王為り。余は皆孝恵の弟なり、戚姫の子如意は趙王為り、薄夫人の子恒は代王為り、諸姫の子子恢は梁王為り、子友は淮陽王為り、子長は淮南王為り、子建は燕王為り。高祖の弟交は楚王為り、兄の子濞は呉王為り。劉氏に非ざる功臣番君呉芮の子臣は長沙王為り。呂后最も戚夫人及び其の子趙王を怨み、乃ち永巷をして戚夫人を囚へしめ、而して趙王を召す。使者三たび反る、趙の相建平侯周昌使者に謂ひて曰く、「高帝臣に趙王を属す、趙王年少なり。竊かに聞く太后戚夫人を怨み、趙王を召して并せて之を誅せんと欲すと、臣敢へて王を遣はさず。王も且つ亦病めり、詔を奉ずる能はず。」と。呂后大いに怒り、乃ち人をして趙の相を召さしむ。趙の相徴されて長安に至る、乃ち人をして復た趙王を召さしむ。王来たるも、未だ到らず。
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史記 高祖本紀漢の将別に布の軍を洮水の南北に撃ち、皆大いに之を破り、追ひて布を鄱陽に得て斬る。樊噲別に兵を将ゐて代を定め、陳豨を当城に斬る。十一月、高祖布の軍より長安に至る。十二月、高祖曰く、「秦の始皇帝・楚の隠王陳渉・魏の安釐王・斉の緡王・趙の悼襄王皆絶えて後無し、守冢を各々十家予へ、秦の皇帝には二十家、魏の公子無忌には五家。」と。代の地の吏民の陳豨・趙利の為に劫掠せられし者を赦し、皆之を赦す。陳豨の降将言ふ豨の反せし時、燕王盧綰人をして豨の所に之かしめ、与に陰謀すと。上辟陽侯をして綰を迎へしむ、綰病と称す。辟陽侯帰り、具に綰の反に端有るを言ふ。二月、樊噲・周勃をして兵を将ゐて燕王綰を撃たしめ、燕の吏民の反に与る者を赦す。皇子建を立てて燕王と為す。高祖布を撃ちし時、流矢の中つる所と為り、道を行きて病む。病甚だし、呂后良医を迎ふ、医入りて見ゆ、高祖医に問ふ、医曰く、「病治すべし。」と。是に於て高祖之を嫚罵して曰く、「吾布衣を以て三尺の剣を提げて天下を取る、此れ天命に非ずや。命は乃ち天に在り、扁鵲と雖も何の益あらん。」と。遂に病を治せしめず、金五十斤を賜ひて之を罷む。已にして呂后問ふ、「陛下百歳の後、蕭相国即し死せば、誰をして之に代はらしめん。」と。上曰く、「曹参可なり。」と。其の次を問ふ、上曰く、「王陵可なり。然れども陵は少しく憨(こう)なり、陳平以て之を助くべし。陳平は智余り有り、然れども以て独り任じ難し。周勃は重厚にして文少なし、然れども劉氏を安んずる者は必ず勃ならん、太尉と為さしむべし。」と。呂后復た其の次を問ふ、上曰く、「此の後は亦而(なんぢ)の知る所に非ざるなり。」と。盧綰数千騎と塞下に居りて候伺し、上の病愈えなば自ら入りて謝せんことを幸(ねが)ふ。四月甲辰、高祖長楽宮に崩ず。四日喪を発せず。
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史記 孝文本紀孝文皇帝は、高祖の中子なり。高祖十一年春、已に陳豨の軍を破り、代の地を定め、立ちて代王と為り、中都に都す。太后薄氏の子なり。即位十七年、高后の八年七月、高后崩ず。九月、諸呂呂産等乱を為し、以て劉氏を危ふくせんと欲す、大臣共に之を誅し、謀りて代王を召して立てんとす、事は呂后の語中に在り。丞相陳平・太尉周勃等人をして代王を迎へしむ。代王左右の郎中令張武等に問ふ。張武等議して曰く、「漢の大臣は皆故の高帝の時の大将なり、兵に習ひ、謀詐多し、此れ其の意を属する所此に止まるに非ざるなり、特に高帝・呂太后の威を畏るるのみ。今已に諸呂を誅し、新たに血を京師に啑(すす)る、此れ大王を迎ふるを以て名と為すも、実は信ずべからず。願はくは大王疾と称して往く毋く、以て其の変を観よ。」と。中尉宋昌進みて曰く、「群臣の議は皆非なり。夫れ秦其の政を失ひ、諸侯豪桀並び起こり、人人自ら以て之を得たりと為す者万を以て数ふ、然れども卒に天子の位を践む者は、劉氏なり、天下望みを絶つ、一なり。高帝子弟を王に封じ、地犬牙相制す、此れ所謂盤石の宗なり、天下其の彊きに服す、二なり。漢興り、秦の苛政を除き、法令を約し、徳恵を施し、人人自ら安んじ、動揺し難し、三なり。夫れ呂太后の厳を以て、諸呂を立てて三王と為し、権を擅にして専制す、然り而して太尉一節を以て北軍に入り、一呼して士皆左袒し、劉氏の為にし、諸呂に叛き、卒に以て之を滅ぼす。此れ乃ち天授にして、人力に非ざるなり。今大臣変を為さんと欲すと雖も、百姓為に使はれず、其の党寧ぞ能く専一ならんや。方今内には朱虚・東牟の親有り、外には呉・楚・淮南・瑯邪・斉・代の彊を畏る。
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史記 呂太后本紀壬戌、帝の太傅食其を以て復た左丞相と為す。戊辰、済川王を徙して梁に王とし、趙の幽王の子遂を立てて趙王と為す。朱虚侯章を遣はして諸呂氏を誅する事を以て斉王に告げ、兵を罷めしむ。灌嬰の兵も亦滎陽に罷めて帰る。諸大臣相与に陰かに謀りて曰く、「少帝及び梁・淮陽・常山王は、皆真の孝恵の子に非ざるなり。呂后計を以て詐りて他人の子を名づけ、其の母を殺し、後宮に養ひ、孝恵をして之を子とせしめ、立てて以て後と為し、及び諸王とし、以て呂氏を彊くす。今皆已に諸呂を夷滅し、而して立つる所を置かば、即ち長じて事を用ゐば、吾が属類無からん。諸王の最も賢なる者を視て之を立つるに如かず。」と。或るひと言ふ「斉の悼恵王は高帝の長子なり、今其の適子斉王為り、本を推して之を言はば、高帝の適長孫なり、立つべきなり」と。大臣皆曰く、「呂氏は外家の悪を以て幾ど宗廟を危ふくし、功臣を乱す。今斉王の母家は駟(鈞)、駟鈞は、悪人なり。即し斉王を立てば、則ち復た呂氏と為らん。」と。淮南王を立てんと欲するも、以為へらく少なりと、母家も又悪し。乃ち曰く、「代王は方今高帝の見子にして、最も長じ、仁孝寛厚なり。太后の家薄氏は謹良なり。且つ長を立つるは故より順なり、仁孝を以て天下に聞こゆ、便なり。」と。乃ち相与に共に陰かに人をして代王を召さしむ。代王人をして辞謝せしむ。再び反りて、然る後に六乗の伝に乗る。後九月晦日己酉、長安に至り、代邸に舎る。大臣皆往きて謁し、天子の璽を奉じて代王に上り、共に尊びて立てて天子と為す。代王数(しばしば)譲る、群臣固く請ふ、然る後に聴く。東牟侯興居曰く、「呂氏を誅するに吾功無し、請ふ宮を除くことを得ん。」と。乃ち太僕汝陰侯滕公と宮に入り、前みて少帝に謂ひて曰く、「足下は劉氏に非ず、当に立つべからず。」と。乃ち顧みて左右の戟を執る者に麾(さしまね)きて兵を掊(す)てて罷り去らしむ。数人の肯へて兵を去らざる有り、宦者令張沢諭告し、亦兵を去る。
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史記 孝文本紀淮南王は、弟なり、徳を秉りて以て朕に陪す。豈に豫めせずと為さんや。諸侯王宗室昆弟に功臣有り、多く賢及び徳義有る者なり、若し有徳を挙げて以て朕の終ふる能はざるに陪せしめば、是れ社稷の霊、天下の福なり。今選挙せずして、必ず子と曰はば、人其れ朕を以て賢有徳の者を忘れて子に専らにすと為さん、天下を憂ふる所以に非ざるなり。朕甚だ取らざるなり。」と。有司皆固く請ひて曰く、「古者殷周国を有ち、治安なること皆千余歳、古の天下を有つ者焉より長きは莫し、此の道を用ゐればなり。嗣を立つるに必ず子とするは、従りて来たる所遠し。高帝親ら士大夫を率ゐ、始めて天下を平らげ、諸侯を建て、帝者の太祖と為る。諸侯王及び列侯の始めて国を受くる者も皆亦其の国の祖と為る。子孫嗣を継ぎ、世世絶えざるは、天下の大義なり、故に高帝之を設けて以て海内を撫す。今宜しく建つべきを釈きて更に諸侯及び宗室に選ぶは、高帝の志に非ざるなり。更に議するは宜しからず。子某最も長じ、純厚慈仁なり、請ふ建てて以て太子と為さん。」と。上乃ち之を許す。因りて天下の民の当に父の後に代はるべき者に爵各々一級を賜ひ、将軍薄昭を封じて軹侯と為す。三月、有司皇后を立てんことを請ふ。薄太后曰く、「諸侯皆同姓なり、太子の母を立てて皇后と為せ。」と。皇后は姓竇氏なり。上后を立つるが故を為して、天下の鰥寡孤独窮困及び年八十已上、孤児九歳已下に布帛米肉を賜ふこと各々数有り。上代より来り、初めて位に即き、徳恵を天下に施し、諸侯四夷を填撫して皆洽く驩ぶ、乃ち代より来たる功臣を循(ねぎら)ふ。上曰く、「方に大臣の諸呂を誅して朕を迎ふるや、朕狐疑し、皆朕を止む、唯だ中尉宋昌のみ朕に勧む、朕以て宗廟を保ち奉ずるを得たり。已に昌を尊びて衛将軍と為す、其れ昌を封じて壮武侯と為せ。諸々の朕に従ひし六人、官皆九卿に至らしめよ。」と。
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史記 高祖本紀群臣皆曰く、「大王微細より起こり、暴逆を誅し、四海を平定し、功有る者は輒ち地を裂きて封じて王侯と為す。大王号を尊ばずんば、皆疑ひて信ぜず。臣等死を以て之を守らん。」と。漢王三たび譲る、已むを得ずして、曰く、「諸君必ず以て便と為さば、国家に便ならん。」と。甲午、乃ち皇帝の位に汜水の陽に即く。皇帝曰く義帝後無しと。斉王韓信楚の風俗に習ふ、徙して楚王と為し、下邳に都せしむ。建成侯彭越を立てて梁王と為し、定陶に都せしむ。故の韓王信を韓王と為し、陽翟に都せしむ。衡山王呉芮を徙して長沙王と為し、臨湘に都せしむ。番君の将梅鋗功有り、従ひて武関に入る、故に番君を徳とす。淮南王布・燕王臧荼・趙王敖皆故の如し。天下大いに定まる。高祖雒陽に都す、諸侯皆臣属す。故の臨江王驩項羽の為に漢に叛く、盧綰・劉賈をして之を囲ましむ、下らず。数月にして降る、之を雒陽に殺す。五月、兵皆罷めて家に帰る。諸侯の子の関中に在る者は之を復すること十二歳、其の帰る者は之を復すること六歳、之に食ましむること一歳。高祖雒陽の南宮に置酒す。高祖曰く、「列侯諸将敢へて朕に隠す無く、皆其の情を言へ。吾の天下を有する所以の者は何ぞ。項氏の天下を失ふ所以の者は何ぞ。」と。
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