史記 / 高祖本紀
三王之道若循環,終而復始。周秦之閒,可謂文敝矣。秦政不改,反酷刑法,豈不繆乎?故漢興,承敝易變,使人不倦,得天統矣。朝以十月。車服黃屋左纛。葬長陵。
新字:三王之道若循環,終而復始。周秦之閒,可謂文敝矣。秦政不改,反酷刑法,豈不繆乎?故漢興,承敝易変,使人不倦,得天統矣。朝以十月。車服黄屋左纛。葬長陵。
書き下し
三王の道は循環するが若く、終はりて復た始まる。周・秦の間は、文敝すと謂ふべし。秦の政改めず、反つて刑法を酷にす、豈に繆(あやま)りならずや。故に漢興り、敝を承けて変を易(か)へ、人をして倦まざらしむ、天統を得たり。朝するに十月を以てす。車服は黄屋左纛なり。長陵に葬る。
現代語訳
(太史公は続けて言う。)夏・殷・周の三王の道は、輪がめぐるように、終わってはまた始まるものである。周から秦にかけての時代は、「文」が行き過ぎて弊害が出た時代と言える。秦の政治はそれを改めず、かえって刑罰と法律を厳しくした。なんと誤ったことではないか。だから漢が興ると、前代の弊害を受け止めて改め、人々が倦み疲れることのないようにした。こうして天の定めた統治の道を得たのである。諸侯の朝見は十月に行った(十月を年の初めとした)。天子の車と服飾は、黄色い絹の屋根と、車の左に付けた旗飾りであった。高祖を長陵に葬った。
解説
高祖本紀の結びとなる司馬遷の評です。前段の夏の「忠」、殷の「敬」、周の「文」の循環論を受け、周から秦にかけては形式ばかりが整って中身の誠が失われた「文の敝」の時代だったと言います。秦はそれを改めるどころか刑罰を厳しくしたので滅び、漢は前代の弊害を受けて改め、人々を疲れさせない政治を行ったので天の統を得た、と評価します。劉邦が関中で「法三章」を約束して秦の苛酷な法を除いたことなどが念頭にあるのでしょう。最後に、十月を年の初めとしたこと、天子の車の飾り、陵墓の名という事実が淡々と添えられます。組織を立て直すときは、前の体制の欠点を見極め、人々が疲れ切っている点を改めることから始めるべきだ、という示唆として読むことができます。
関連する章句
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史記 秦楚之際月表太史公、秦楚の際を読みて曰く、初めて難を作すは陳渉に発し、虐戾にして秦を滅ぼすは項氏よりし、乱を撥め暴を誅し、海内を平定し、卒に帝祚を践むは漢家に成る。五年の間に、号令三たび嬗る。生民より以来、未だ始めより命を受くること斯くの若く亟やかなる有らざるなり。昔虞・夏の興るや、善を積み功を累ぬること数十年、徳百姓に洽く、政事を摂行し、之を天に考へ、然る後に位に在り。湯・武の王たるは、乃ち契・后稷より仁を修め義を行ふこと十余世に由り、期せずして孟津に会する八百の諸侯あるも、猶以て未だ可ならずと為し、其の後乃ち放弒す。秦は襄公より起こり、文・繆に章はれ、献・孝の後、稍く以て六国を蚕食し、百有余載にして、始皇に至りて乃ち能く冠帯の倫を并す。徳を以てすること彼の若く、力を用ふること此の如し、蓋し一統は斯くの若く難きなり。秦既に帝を称し、兵革の休まざるは、諸侯有るを以てなりと患ひ、是に於いて尺土の封も無く、名城を堕壊し、鋒鏑を銷し、豪桀を鉏き、万世の安きを維がんとす。然れども王跡の興るは、閭巷より起こり、合従して討伐し、三代に軼ぐ。郷の秦の禁は、適々以て賢者の為に駆除の難を資くるに足るのみ。故に憤発して其の天下の雄と為る所、安んぞ土無くして王たらざるに在らんや。此れ乃ち伝の所謂大聖か。豈に天に非ずや、豈に天に非ずや。大聖に非ずんば孰か能く此に当たりて命を受けて帝たらんや。
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史記 暦書夏正は正月を以てし、殷正は十二月を以てし、周正は十一月を以てす。蓋し三王の正は循環するが若し、窮まれば則ち本に反る。天下道有れば、則ち紀序を失はず。道無ければ、則ち正朔諸侯に行はれず。幽・厲の後、周室微にして、陪臣政を執り、史は時を記さず、君は朔を告げず、故に疇人の子弟分散し、或いは諸夏に在り、或いは夷狄に在り、是を以て其の禨祥廃れて統べず。周の襄王の二十六年、三月に閏す、而して春秋之を非とす。先王の時を正すや、端を始めに履み、正を中に挙げ、邪を終はりに帰す。端を始めに履めば、序は則ち愆らず。正を中に挙ぐれば、民は則ち惑はず。邪を終はりに帰せば、事は則ち悖らず。其の後戦国并び争ひ、彊国禽敵、急を救ひ紛を解くに在るのみ、豈に斯を念ふに遑あらんや。是の時独り鄒衍有り、五徳の伝に明らかにして、消息の分を散じ、以て諸侯に顕る。而して亦秦の六国を滅ぼすに因り、兵戎極めて煩しく、又至尊に升る日浅く、未だ暇遑あらざるなり。而して亦頗る五勝を推し、自ら以為へらく水徳の瑞を獲たりと、河を更名して「徳水」と曰ひ、而して正は十月を以てし、色は黒を上ぶ。然れども暦度閏余、未だ能く其の真を睹ざるなり。漢興り、高祖曰く「北畤我を待ちて起こる」と、亦自ら以為へらく水徳の瑞を獲たりと。暦を明習するもの及び張蒼等と雖も、咸以て然りと為す。是の時天下初めて定まり、方に大基を綱紀し、高后は女主にして、皆未だ遑あらず、故に秦の正朔服色を襲ふ。孝文の時に至り、魯人公孫臣、終始五徳を以て上書し、言ふ「漢は土徳を得たり、宜しく元を更め、正朔を改め、服色を易ふべし。当に瑞有るべし、瑞は黄龍見はれん」と。事、丞相張蒼に下る、張蒼も亦律暦を学ぶ、以て是に非ずと為し、之を罷む。其の後黄龍成紀に見はれ、張蒼自ら黜け、論著せんと欲する所成らず。
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『長短経』君徳夏は忠を尚ぶ。忠の弊は野朴なり。故に殷は之を承くるに敬を以てす。敬の弊は鬼なり。故に周は之を承くるに文を以てす。文の弊は薄なり。薄を救うは忠に若くは莫し。三王の道は、周りて復た始まる。周秦の間は、文弊と謂う可し。秦は改めずして、反って刑を酷にす。漢は其の弊を承けて天統を得たり。孔融曰く「周の武は后稷より以来、其の身に至るまで、相い承くること十五世を積む。但だ魚鳥の瑞有るのみ。高祖の如きに至りては、一身徳を修めて、瑞に四五有り。白蛇分かれ、神母哭き、西のかた関に入り、五星聚まる。又た武王は紂を伐ちて、斬りて之を梟す。高祖は秦に入りて、子嬰を赦して之を遣る。是れ其の寛裕、又た高祖に如かず」と。虞南曰く「帝者は師と処り、王者は友と処り、覇者は臣と処る。漢祖の臣は三傑是なり。光武の佐は二十八将是なり。豈に鄧禹・呉漢を以て張良・韓信に匹す可けんや。然れども漢祖の功臣は、皆な強盛にして誅滅せらる。光武の佐命は、悉く優秩を用いて安全なり。君臣の際、良に称す可きなり。長を絶ちて短を補えば、其の次に抑うるなり」と。此に由りて之を言えば、夫れ漢高は秦・項を克平し、漢業を開創す。衣冠礼楽、之を後代に垂る。未だ王道に階らずと雖も、霸徳の盛んなるなり。〕
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史記 礼書秦の天下を有つに至りて、悉く六国の礼儀を内れ、其の善を采択す、聖制に合はずと雖も、其の君を尊び臣を抑へ、朝廷済済たるは、古より以来に依る。高祖に至りて、光に四海を有ち、叔孫通頗る増益減損する所有れども、大抵皆秦の故を襲ふ。天子の称号より下は佐僚及び宮室官名に至るまで、変改する所少なし。孝文即位し、有司議して儀礼を定めんと欲す、孝文は道家の学を好み、以為へらく繁礼飾貌は治に益無し、躬化するは謂何ぞやと、故に之を罷め去る。孝景の時、御史大夫晁錯は世務刑名に明らかにして、数々孝景に干諫して曰く、「諸侯藩輔は、臣子と一例なるは、古今の制なり。今大国は専ら治めて政を異にし、京師に稟けず、恐らくは後に伝ふべからず」と。孝景其の計を用ひて、六国畔逆し、錯を以て首名と為す、天子錯を誅して以て難を解く。事は袁盎の語中に在り。是の後官者は交はりを養ひ禄に安んずるのみ、敢へて復た議する莫し。今上即位し、儒術の士を招致し、共に儀を定めしむるも、十余年就らず。或ひと言ふ、古者太平にして、万民和喜し、瑞応辨く至り、乃ち風俗を采りて、制作を定むと。上之を聞き、御史に制詔して曰く、「蓋し命を受けて王たるは、各々由りて興る所有り、路を殊にして帰を同じくす、民に因りて作り、俗を追ひて制を為すを謂ふなり。議者咸太古を称す、百姓何をか望まん。漢も亦一家の事なり、典法伝はらずんば、子孫を謂何せん。化の隆なる者は閎博、治の浅き者は褊狭、勉めざるべけんや」と。乃ち太初の元を以て正朔を改め、服色を易へ、太山を封じ、宗廟百官の儀を定め、以て典常と為し、之を後に垂ると云ふ。礼は人より起こる。人生まれて欲有り、欲して得ざれば則ち忿り無き能はず、忿りて度量無ければ則ち争ひ、争へば則ち乱る。
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史記 高祖本紀沛公諸県の父老豪桀を召して曰く、「父老秦の苛法に苦しむこと久し、誹謗する者は族し、偶語する者は棄市せらる。父老と約す、法三章のみ、人を殺す者は死し、人を傷つくる及び盗むは罪に抵る。餘は悉く秦法を除去す。凡そ吾が来たる所以は、父老の為に害を除くにして、侵暴する所有るに非ず、恐るる無かれ」と。秦人大いに喜ぶ。
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史記 高祖本紀呂后審食其と謀りて曰く、「諸将帝と編戸の民為り、今北面して臣と為る、此れ常に怏怏たり、今乃ち少主に事ふ、尽く族せざれば、天下安からず。」と。人或いは之を聞き、酈将軍に語る。酈将軍往きて審食其に見えて、曰く、「吾聞く帝已に崩じ、四日喪を発せず、諸将を誅せんと欲すと。誠に此くの如くならば、天下危ふし。陳平・灌嬰十万を将ゐて滎陽を守り、樊噲・周勃二十万を将ゐて燕・代を定む、此れ帝崩じ、諸将皆誅せらるると聞かば、必ず兵を連ねて郷に還りて以て関中を攻めん。大臣内に叛き、諸侯外に反せば、亡ぶること足を翹(つまだ)てて待つべきなり。」と。審食其入りて之を言ふ、乃ち丁未を以て喪を発し、天下に大赦す。盧綰高祖の崩ずるを聞き、遂に亡げて匈奴に入る。丙寅、葬る。己巳、太子を立て、太上皇の廟に至る。群臣皆曰く、「高祖微細より起こり、乱世を撥めて之を正に反し、天下を平定し、漢の太祖と為る、功最も高し。」と。尊号を上りて高皇帝と為す。太子号を襲ひて皇帝と為る、孝恵帝なり。郡国の諸侯をして各々高祖の廟を立て、歳時を以て祠らしむ。孝恵の五年に及び、高祖の沛を悲楽せしを思ひ、沛宮を以て高祖の原廟と為す。高祖の教へし所の歌児百二十人、皆吹楽を為さしめ、後に欠くる有れば、輒ち之を補ふ。高帝の八男、長は庶の斉の悼恵王肥。次は孝恵、呂后の子なり。次は戚夫人の子趙の隠王如意。次は代王恒、已に立ちて孝文帝と為る、薄太后の子なり。次は梁王恢、呂太后の時徙りて趙の共王と為る。次は淮陽王友、呂太后の時徙りて趙の幽王と為る。次は淮南の厲王長。次は燕王建。太史公曰く、夏の政は忠なり。忠の敝は、小人以て野なり、故に殷人之を承くるに敬を以てす。敬の敝は、小人以て鬼なり、故に周人之を承くるに文を以てす。文の敝は、小人以て僿(し)なり、故に僿を救ふは忠を以てするに若くは莫し。
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