史記 / 高祖本紀
漢將別擊布軍洮水南北,皆大破之,追得斬布鄱陽。樊噲別將兵定代,斬陳豨當城。十一月,高祖自布軍至長安。十二月,高祖曰:「秦始皇帝、楚隱王陳涉、魏安釐王、齊緡王、趙悼襄王皆絕無後,予守冢各十家,秦皇帝二十家,魏公子無忌五家。」赦代地吏民為陳豨、趙利所劫掠者,皆赦之。陳豨降將言豨反時,燕王盧綰使人之豨所,與陰謀。上使辟陽侯迎綰,綰稱病。辟陽侯歸,具言綰反有端矣。二月,使樊噲、周勃將兵擊燕王綰,赦燕吏民與反者。立皇子建為燕王。高祖擊布時,為流矢所中,行道病。病甚,呂后迎良醫,醫入見,高祖問醫,醫曰:「病可治。」於是高祖嫚罵之曰:「吾以布衣提三尺劍取天下,此非天命乎?命乃在天,雖扁鵲何益!」遂不使治病,賜金五十斤罷之。已而呂后問:「陛下百歲後,蕭相國即死,令誰代之?」上曰:「曹參可。」問其次,上曰:「王陵可。然陵少憨,陳平可以助之。陳平智有餘,然難以獨任。周勃重厚少文,然安劉氏者必勃也,可令為太尉。」呂后復問其次,上曰:「此後亦非而所知也。」盧綰與數千騎居塞下候伺,幸上病愈自入謝。四月甲辰,高祖崩長樂宮。四日不發喪。
新字:漢将別撃布軍洮水南北,皆大破之,追得斬布鄱陽。樊噲別将兵定代,斬陳豨当城。十一月,高祖自布軍至長安。十二月,高祖曰:「秦始皇帝、楚隠王陳渉、魏安釐王、斉緡王、趙悼襄王皆絶無後,予守冢各十家,秦皇帝二十家,魏公子無忌五家。」赦代地吏民為陳豨、趙利所劫掠者,皆赦之。陳豨降将言豨反時,燕王盧綰使人之豨所,与陰謀。上使辟陽侯迎綰,綰称病。辟陽侯帰,具言綰反有端矣。二月,使樊噲、周勃将兵撃燕王綰,赦燕吏民与反者。立皇子建為燕王。高祖撃布時,為流矢所中,行道病。病甚,呂后迎良医,医入見,高祖問医,医曰:「病可治。」於是高祖嫚罵之曰:「吾以布衣提三尺剣取天下,此非天命乎?命乃在天,雖扁鵲何益!」遂不使治病,賜金五十斤罷之。已而呂后問:「陛下百歳後,蕭相国即死,令誰代之?」上曰:「曹参可。」問其次,上曰:「王陵可。然陵少憨,陳平可以助之。陳平智有余,然難以独任。周勃重厚少文,然安劉氏者必勃也,可令為太尉。」呂后復問其次,上曰:「此後亦非而所知也。」盧綰与数千騎居塞下候伺,幸上病愈自入謝。四月甲辰,高祖崩長楽宮。四日不発喪。
書き下し
漢の将別に布の軍を洮水の南北に撃ち、皆大いに之を破り、追ひて布を鄱陽に得て斬る。樊噲別に兵を将ゐて代を定め、陳豨を当城に斬る。十一月、高祖布の軍より長安に至る。十二月、高祖曰く、「秦の始皇帝・楚の隠王陳渉・魏の安釐王・斉の緡王・趙の悼襄王皆絶えて後無し、守冢を各々十家予へ、秦の皇帝には二十家、魏の公子無忌には五家。」と。代の地の吏民の陳豨・趙利の為に劫掠せられし者を赦し、皆之を赦す。陳豨の降将言ふ豨の反せし時、燕王盧綰人をして豨の所に之かしめ、与に陰謀すと。上辟陽侯をして綰を迎へしむ、綰病と称す。辟陽侯帰り、具に綰の反に端有るを言ふ。二月、樊噲・周勃をして兵を将ゐて燕王綰を撃たしめ、燕の吏民の反に与る者を赦す。皇子建を立てて燕王と為す。高祖布を撃ちし時、流矢の中つる所と為り、道を行きて病む。病甚だし、呂后良医を迎ふ、医入りて見ゆ、高祖医に問ふ、医曰く、「病治すべし。」と。是に於て高祖之を嫚罵して曰く、「吾布衣を以て三尺の剣を提げて天下を取る、此れ天命に非ずや。命は乃ち天に在り、扁鵲と雖も何の益あらん。」と。遂に病を治せしめず、金五十斤を賜ひて之を罷む。已にして呂后問ふ、「陛下百歳の後、蕭相国即し死せば、誰をして之に代はらしめん。」と。上曰く、「曹参可なり。」と。其の次を問ふ、上曰く、「王陵可なり。然れども陵は少しく憨(こう)なり、陳平以て之を助くべし。陳平は智余り有り、然れども以て独り任じ難し。周勃は重厚にして文少なし、然れども劉氏を安んずる者は必ず勃ならん、太尉と為さしむべし。」と。呂后復た其の次を問ふ、上曰く、「此の後は亦而(なんぢ)の知る所に非ざるなり。」と。盧綰数千騎と塞下に居りて候伺し、上の病愈えなば自ら入りて謝せんことを幸(ねが)ふ。四月甲辰、高祖長楽宮に崩ず。四日喪を発せず。
現代語訳
漢の将たちは別に黥布の軍を洮水の南北で攻撃し、いずれも大いにこれを破り、追撃して鄱陽で黥布を捕らえて斬った。樊噲は別に兵を率いて代を平定し、陳豨を当城で斬った。十一月、高祖は黥布討伐の軍から長安に戻った。十二月、高祖は言った。「秦の始皇帝、楚の隠王陳渉、魏の安釐王、斉の緡王、趙の悼襄王は皆家が絶えて跡継ぎがいない。それぞれに墓守を十家ずつ与え、秦の始皇帝には二十家、魏の公子無忌(信陵君)には五家を与えよ」。代の地の役人や民で、陳豨・趙利に脅されて略奪に加わった者を赦し、皆赦免した。陳豨の降将が、陳豨が反乱を起こしたとき、燕王盧綰が人を陳豨のもとへやって一緒に陰謀を企てていたと言った。主上は辟陽侯(審食其)に盧綰を迎えに行かせたが、盧綰は病気と称して来なかった。辟陽侯は帰って、盧綰の謀反には確かな兆しがあると詳しく報告した。二月、樊噲と周勃に兵を率いさせて燕王盧綰を攻めさせ、燕の役人や民で反乱に加わった者を赦した。皇子の劉建を燕王に立てた。高祖は黥布を攻めたとき流れ矢に当たり、道中で病気になった。病が重くなったので、呂后は名医を迎えた。医者が入って診察し、高祖が尋ねると、医者は「この病は治せる」と言った。すると高祖は医者を罵って言った。「私は平民の身で三尺の剣を引っさげて天下を取った。これは天命ではないか。命は天にあるのだ。扁鵲(伝説の名医)でさえ何の役に立とうか」。そして治療をさせず、黄金五十斤を与えて医者を帰らせた。その後、呂后が尋ねた。「陛下がお亡くなりになった後、蕭相国(蕭何)がもし亡くなったら、誰に代わらせたらよいか」。主上は「曹参がよい」と言った。その次を尋ねると、主上は言った。「王陵がよい。だが王陵は少し愚直すぎるので、陳平に助けさせるのがよい。陳平は知恵が余るほどあるが、一人に任せるのは難しい。周勃は重厚で飾り気がないが、劉氏を安泰にするのは必ず周勃だろう。太尉(軍の最高責任者)にするのがよい」。呂后がさらにその次を尋ねると、主上は言った。「その先は、もうお前の知るところではない」。盧綰は数千騎とともに長城のふもとにとどまって様子をうかがい、主上の病が治ったら自ら都に入って謝罪しようと願っていた。四月甲辰の日、高祖は長楽宮で崩御した。四日間喪は発表されなかった。
解説
関連する章句
-
史記 高祖本紀呂后審食其と謀りて曰く、「諸将帝と編戸の民為り、今北面して臣と為る、此れ常に怏怏たり、今乃ち少主に事ふ、尽く族せざれば、天下安からず。」と。人或いは之を聞き、酈将軍に語る。酈将軍往きて審食其に見えて、曰く、「吾聞く帝已に崩じ、四日喪を発せず、諸将を誅せんと欲すと。誠に此くの如くならば、天下危ふし。陳平・灌嬰十万を将ゐて滎陽を守り、樊噲・周勃二十万を将ゐて燕・代を定む、此れ帝崩じ、諸将皆誅せらるると聞かば、必ず兵を連ねて郷に還りて以て関中を攻めん。大臣内に叛き、諸侯外に反せば、亡ぶること足を翹(つまだ)てて待つべきなり。」と。審食其入りて之を言ふ、乃ち丁未を以て喪を発し、天下に大赦す。盧綰高祖の崩ずるを聞き、遂に亡げて匈奴に入る。丙寅、葬る。己巳、太子を立て、太上皇の廟に至る。群臣皆曰く、「高祖微細より起こり、乱世を撥めて之を正に反し、天下を平定し、漢の太祖と為る、功最も高し。」と。尊号を上りて高皇帝と為す。太子号を襲ひて皇帝と為る、孝恵帝なり。郡国の諸侯をして各々高祖の廟を立て、歳時を以て祠らしむ。孝恵の五年に及び、高祖の沛を悲楽せしを思ひ、沛宮を以て高祖の原廟と為す。高祖の教へし所の歌児百二十人、皆吹楽を為さしめ、後に欠くる有れば、輒ち之を補ふ。高帝の八男、長は庶の斉の悼恵王肥。次は孝恵、呂后の子なり。次は戚夫人の子趙の隠王如意。次は代王恒、已に立ちて孝文帝と為る、薄太后の子なり。次は梁王恢、呂太后の時徙りて趙の共王と為る。次は淮陽王友、呂太后の時徙りて趙の幽王と為る。次は淮南の厲王長。次は燕王建。太史公曰く、夏の政は忠なり。忠の敝は、小人以て野なり、故に殷人之を承くるに敬を以てす。敬の敝は、小人以て鬼なり、故に周人之を承くるに文を以てす。文の敝は、小人以て僿(し)なり、故に僿を救ふは忠を以てするに若くは莫し。
-
史記 韓信盧綰列伝漢樊噲をして豨を撃ちて斬らしむ。其の裨将降り、燕王綰の范斉をして計謀を豨の所に通ぜしむと言ふ。高祖使を使はして盧綰を召すも、綰病と称す。上又辟陽侯審食其(しんいき)・御史大夫趙堯をして往きて燕王を迎へしめ、因りて左右を験問せしむ。綰愈恐れ、閉匿し、其の幸臣に謂ひて曰く、「劉氏に非ずして王たるは、独り我と長沙とのみ。往年の春、漢淮陰を族し、夏、彭越を誅す、皆呂后の計なり。今上病み、呂后に属任す。呂后は婦人にして、専ら事を以て異姓の王者及び大功臣を誅せんと欲す」と。乃ち遂に病と称して行かず。其の左右皆亡匿す。語頗る泄れ、辟陽侯之を聞き、帰りて具に上に報ず。上益怒る。又匈奴の降者を得、降者張勝の亡げて匈奴に在り、燕の使と為ると言ふ。是に於て上曰く、「盧綰果して反せり」と。樊噲をして燕を撃たしむ。燕王綰悉く其の宮人・家属・騎数千を将ゐて長城の下に居り、侯伺し、上の病愈えなば、自ら入りて謝せんことを幸ふ。四月、高祖崩じ、盧綰遂に其の衆を将ゐて亡げて匈奴に入る。匈奴以て東胡の盧王と為す。綰蛮夷の侵奪する所と為り、常に復た帰らんことを思ふ。居ること歳余にして、胡中に死す。
-
史記 高祖本紀趙王敖を廃して宣平侯と為す。是の歳、貴族の楚の昭・屈・景・懐、斉の田氏を関中に徙す。未央宮成る。高祖大いに諸侯群臣を朝し、未央の前殿に置酒す。高祖玉卮を奉じ、起ちて太上皇の為に寿して、曰く、「始め大人常に臣を以て無頼にして、産業を治むる能はず、仲の力むるに如かずと為す。今某の業の就る所仲に孰与(いづれ)ぞ多き。」と。殿上の群臣皆万歳を呼び、大いに笑ひて楽しみと為す。十年十月、淮南王黥布・梁王彭越・燕王盧綰・荊王劉賈・楚王劉交・斉王劉肥・長沙王呉芮皆来りて長楽宮に朝す。春夏事無し。七月、太上皇櫟陽宮に崩ず。楚王・梁王皆来りて葬を送る。櫟陽の囚を赦す。酈邑を更命して新豊と曰ふ。八月、趙の相国陳豨代の地に反す。上曰く、「豨嘗て吾が使と為り、甚だ信有り。代の地は吾の急とする所なり、故に豨を封じて列侯と為し、相国を以て代を守らしむ、今乃ち王黄等と代の地を劫掠す。代の地の吏民は罪有るに非ざるなり。其れ代の吏民を赦せ。」と。九月、上自ら東のかた往きて之を撃つ。邯鄲に至り、上喜びて曰く、「豨南のかた邯鄲に拠りて漳水を阻てず、吾其の能く為す無きを知る。」と。豨の将皆故の賈人なりと聞き、上曰く、「吾之に与ふる所以を知る。」と。乃ち多く金を以て豨の将に啗はす、豨の将多く降る者あり。十一年、高祖邯鄲に在りて豨等を誅すること未だ畢らず、豨の将侯敞万余人を将ゐて游行し、王黄曲逆に軍し、張春河を渡りて聊城を撃つ。漢将軍郭蒙をして斉の将と撃たしめ、大いに之を破る。太尉周勃太原より道して入り、代の地を定む。馬邑に至る、馬邑下らず、即ち攻めて之を残す。豨の将趙利東垣を守る、高祖之を攻むるも、下らず。月余にして、卒高祖を罵る、高祖怒る。城降る、罵る者を出だして之を斬らしめ、罵らざる者は之を原(ゆる)す。
-
史記 高祖本紀項王漢王の父母妻子を帰す、軍中皆万歳を呼ぶ、乃ち帰りて別れ去る。項羽解きて東帰す。漢王引きて西帰せんと欲す、留侯・陳平の計を用ゐ、乃ち兵を進めて項羽を追ひ、陽夏の南に至りて軍を止め、斉王信・建成侯彭越と期会して楚の軍を撃たんとす。固陵に至る、会せず。楚漢の軍を撃ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして之を守る。張良の計を用ゐ、是に於て韓信・彭越皆往く。劉賈楚の地に入り、寿春を囲むに及び、漢王碧陵に敗れ、乃ち使者をして大司馬周殷を召さしめ九江の兵を挙げて(之)武王を迎へ、行くゆく城父を屠り、(何)劉賈・斉梁の諸侯に随ひて皆大いに垓下に会す。武王布を立てて淮南王と為す。五年、高祖諸侯の兵と共に楚の軍を撃ち、項羽と勝ちを垓下に決す。淮陰侯三十万を将ゐて自ら之に当たり、孔将軍左に居り、費将軍右に居り、皇帝後に在り、絳侯・柴将軍皇帝の後に在り。項羽の卒十万可り。淮陰先づ合し、利あらず、卻く。孔将軍・費将軍縦(はな)つ、楚の兵利あらず、淮陰侯復た之に乗じ、大いに垓下に敗る。項羽の卒漢軍の楚歌するを聞き、以為へらく漢尽く楚の地を得たりと、項羽乃ち敗れて走る、是を以て兵大いに敗る。騎将灌嬰をして項羽を東城に追殺せしめ、斬首八万、遂に楚の地を略定す。魯楚の為に堅守して下らず。漢王諸侯の兵を引きて北し、魯の父老に項羽の頭を示す、魯乃ち降る。遂に魯公の号を以て項羽を穀城に葬る。還りて定陶に至り、馳せて斉王の壁に入り、其の軍を奪ふ。正月、諸侯及び将相相与に共に漢王を尊びて皇帝と為さんことを請ふ。漢王曰く、「吾聞く帝は賢者之を有つと、空言虚語は、守る所に非ざるなり、吾敢へて帝位に当たらず。」と。
-
『長短経』覇図高祖、位に在ること十二年、崩ず。年六十二。恵帝立ち、呂后政に臨む。〈呂后の時、陳平、燕居して深く念う。陸生曰く「何ぞ念うことの深きや」と。平曰く「生、吾が何を念うかを揣らんか」と。陸生曰く「足下、位は上相と為り、三万戸侯を食む。極富貴にして欲無しと謂う可し。然れども憂念有るは、諸呂・少主を患うるに過ぎざるのみ」と。平曰く「然り。之を為すこと奈何」と。陸生曰く「天下安ければ、意を相に注ぎ、天下危うければ、意を将に注ぐ。将相和すれば、則ち士は予め附き、士予め附けば、天下に変有りと雖も、則ち権は分かれず。権分かれざれば、則ち社稷の計は両君の掌握に在るのみ。何ぞ太尉と交歓して、深く相い交結せざる」と。平、其の計を用い、竟に諸呂を誅す。初め、呂后の崩ずるや、大臣、諸呂を誅す。呂禄、将と為りて北軍たり。太尉勃、北軍に入るを得ず。時に酈商の子寄、呂禄と善し。是に於て乃ち人をして酈商を刼かさしめ、其の子、呂禄を紿きて之を信ぜしめ、故に与に出遊す。而して太尉、乃ち北軍に入りて呂氏を誅するを得たるなり。〉
-
史記 高祖本紀地は方二千里、戟を持つもの百万、県隔すること千里の外、斉十に二を得たり。故に此れ東西の秦なり。親子弟に非ずんば、斉に王たらしむべき莫し。」と。高祖曰く、「善し。」と。黄金五百斤を賜ふ。後十余日、韓信を封じて淮陰侯と為し、其の地を分かちて二国と為す。高祖曰く将軍劉賈数(しばしば)功有りと、以て荊王と為し、淮東に王とす。弟交を楚王と為し、淮西に王とす。子肥を斉王と為し、七十余城に王とし、民の能く斉の言をなす者は皆斉に属す。乃ち功を論じ、諸列侯と符を剖きて封を行ふ。韓王信を太原に徙す。七年、匈奴韓王信を馬邑に攻む、信因りて与に謀りて太原に反す。白土の曼丘臣・王黄故の趙の将趙利を立てて王と為して以て反す、高祖自ら往きて之を撃つ。会々天寒く、士卒の指を墮す者什に二三、遂に平城に至る。匈奴我を平城に囲む、七日にして後罷め去る。樊噲をして止まりて代の地を定めしむ。兄劉仲を立てて代王と為す。二月、高祖平城より趙・雒陽を過ぎ、長安に至る。長楽宮成る、丞相已下徙りて長安に治す。八年、高祖東のかた韓王信の余反寇を東垣に撃つ。蕭丞相未央宮を営作し、東闕・北闕・前殿・武庫・太倉を立つ。高祖還り、宮闕の壮なること甚だしきを見て、怒り、蕭何に謂ひて曰く、「天下匈匈として苦戦すること数歳、成敗未だ知るべからず、是れ何ぞ宮室を治むること度を過ぐるや。」と。蕭何曰く、「天下方に未だ定まらず、故に因りて遂に宮室を就すべし。且つ夫れ天子は四海を家と為す、壮麗に非ずんば以て威を重くする無し、且つ後世をして以て加ふる有らしむる無からん。」と。高祖乃ち説ぶ。高祖の東垣に之くや、柏人を過ぐ、趙の相貫高等高祖を弑せんと謀る、高祖心動き、因りて留まらず。代王劉仲国を棄てて亡げ、自ら雒陽に帰る、廃して以て合陽侯と為す。九年、趙の相貫高等の事発覚し、三族を夷ぐ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る