師導古典を学びたいすべての人に

武士道 / 第九章 忠節・支那は孝を本とし日本は忠を本とす

此れと等しく、日本人の懷抱する如き忠節は、國を異にして、之を頌するものゝ、幾ど稀なるを見ん。然れども此れ、吾人の觀念の非なるが故に相つるとき非ずして却つて居る。彼れにありては既に之を忘却ぜるが故にして、又た日本人の忠節の念に深厚なるは他國の未だ容易に企及する能はざるものあるが爲なるなからん乎を。グリフイス氏が支那に在りては孔教は孝を以て百行の基と爲し、日本に在りては、忠を以て本と爲すと說けるは眞に然り。予は今爰に讀者の或は、吃驚酸鼻すべきを顧みず、沙翁の所謂『落魄の主君に仕へて艱苦を具にし』、以て、『稗史に名を得たる』忠臣の物語を敍せん。其物語は我國史を飾れる清廉高義の人格菅原道眞を寓せるものなり。

新字:此れと等しく、日本人の懐抱する如き忠節は、国を異にして、之を頌するものゝ、幾ど稀なるを見ん。然れども此れ、吾人の観念の非なるが故に相つるとき非ずして却つて居る。彼れにありては既に之を忘却ぜるが故にして、又た日本人の忠節の念に深厚なるは他国の未だ容易に企及する能はざるものあるが為なるなからん乎を。グリフイス氏が支那に在りては孔教は孝を以て百行の基と為し、日本に在りては、忠を以て本と為すと説けるは真に然り。予は今爰に読者の或は、吃驚酸鼻すべきを顧みず、沙翁の所謂『落魄の主君に仕へて艱苦を具にし』、以て、『稗史に名を得たる』忠臣の物語を叙せん。其物語は我国史を飾れる清廉高義の人格菅原道真を寓せるものなり。

書き下し

此れと等しく、日本人の懐抱する如き忠節は、国を異にして之を頌するものの、ほとんど稀なるを見ん。然れども此れ、吾人の観念の非なるが故にあらずして、却つて彼れにありては既に之を忘却せるが故にして、又た日本人の忠節の念に深厚なるは、他国の未だ容易に企及する能はざるものあるが為なるなからんか。グリフィス氏が、支那に在りては孔教は孝を以て百行の基と為し、日本に在りては忠を以て本と為す、と説けるは真に然り。予は今ここに、読者の或は吃驚酸鼻すべきを顧みず、シェイクスピアの所謂『落魄の主君に仕へて艱苦をつぶさにし』、以て『稗史に名を得たる』忠臣の物語を叙せん。其物語は、我国史を飾れる清廉高義の人格、菅原道真を寓せるものなり。

現代語訳

これと同じく、日本人が抱くような忠節は、国を異にして讃える者がほとんど稀であるのが分かるでしょう。しかしこれは私たちの観念が誤っているからではなく、むしろ彼らにおいてはすでにそれを忘れてしまったからであり、また日本人の忠節の念が深いことは、他国が容易に及びえないものがあるからではないでしょうか。グリフィス氏が、中国では儒教が孝をあらゆる行いの基とし、日本では忠を本とする、と説いたのは、まことにそのとおりです。私は今ここで、読者が驚き痛ましく思うのを顧みず、シェイクスピアのいう、落ちぶれた主君に仕えて苦労を尽くし、それによって物語に名を得た忠臣の話を述べましょう。その物語は、わが国の歴史を飾る清廉高義の人物である菅原道真に託したものです。

解説

中国は孝、日本は忠。同じ儒教の伝統を受けながら重心が違うという指摘です。他国に忠節を讃える者が少ないのは、彼らが忘れたからだ、という説明は自国びいきが強く出ています。そしてこれから語る話が、読者を驚かせ痛ましく思わせるものだと予告される。寺子屋の場面、すなわち忠のために我が子を差し出す話へ入っていきます。

この章句が説くこと

比較道真重心

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる