史記 / 高祖本紀
於是乃分趙山北,立子恒以為代王,都晉陽。春,淮陰侯韓信謀反關中,夷三族。夏,梁王彭越謀反,廢遷蜀;復欲反,遂夷三族。立子恢為梁王,子友為淮陽王。秋七月,淮南王黥布反,東并荊王劉賈地,北渡淮,楚王交走入薛。高祖自往擊之。立子長為淮南王。十二年,十月,高祖已擊布軍會甀,布走,令別將追之。高祖還歸,過沛,留。置酒沛宮,悉召故人父老子弟縱酒,發沛中兒得百二十人,教之歌。酒酣,高祖擊筑,自為歌詩曰:「大風起兮雲飛揚,威加海內兮歸故鄉,安得猛士兮守四方!」令兒皆和習之。高祖乃起舞,慷慨傷懷,泣數行下。謂沛父兄曰:「游子悲故鄉。吾雖都關中,萬歲後吾魂魄猶樂思沛。且朕自沛公以誅暴逆,遂有天下,其以沛為朕湯沐邑,復其民,世世無有所與。」沛父兄諸母故人日樂飲極驩,道舊故為笑樂。十餘日,高祖欲去,沛父兄固請留高祖。高祖曰:「吾人眾多,父兄不能給。」乃去。沛中空縣皆之邑西獻。高祖復留止,張飲三日。沛父兄皆頓首曰:「沛幸得復,豐未復,唯陛下哀憐之。」高祖曰:「豐吾所生長,極不忘耳,吾特為其以雍齒故反我為魏。」沛父兄固請,乃并復豐,比沛。於是拜沛侯劉濞為吳王。
新字:於是乃分趙山北,立子恒以為代王,都晋陽。春,淮陰侯韓信謀反関中,夷三族。夏,梁王彭越謀反,廃遷蜀;復欲反,遂夷三族。立子恢為梁王,子友為淮陽王。秋七月,淮南王黥布反,東并荊王劉賈地,北渡淮,楚王交走入薛。高祖自往撃之。立子長為淮南王。十二年,十月,高祖已撃布軍会甀,布走,令別将追之。高祖還帰,過沛,留。置酒沛宮,悉召故人父老子弟縦酒,発沛中児得百二十人,教之歌。酒酣,高祖撃筑,自為歌詩曰:「大風起兮雲飛揚,威加海内兮帰故郷,安得猛士兮守四方!」令児皆和習之。高祖乃起舞,慷慨傷懐,泣数行下。謂沛父兄曰:「游子悲故郷。吾雖都関中,万歳後吾魂魄猶楽思沛。且朕自沛公以誅暴逆,遂有天下,其以沛為朕湯沐邑,復其民,世世無有所与。」沛父兄諸母故人日楽飲極驩,道旧故為笑楽。十余日,高祖欲去,沛父兄固請留高祖。高祖曰:「吾人衆多,父兄不能給。」乃去。沛中空県皆之邑西献。高祖復留止,張飲三日。沛父兄皆頓首曰:「沛幸得復,豊未復,唯陛下哀憐之。」高祖曰:「豊吾所生長,極不忘耳,吾特為其以雍歯故反我為魏。」沛父兄固請,乃并復豊,比沛。於是拝沛侯劉濞為呉王。
書き下し
是に於て乃ち趙の山北を分かち、子恒を立てて以て代王と為し、晋陽に都せしむ。春、淮陰侯韓信関中に謀反す、三族を夷ぐ。夏、梁王彭越謀反す、廃して蜀に遷す。復た反せんと欲す、遂に三族を夷ぐ。子恢を立てて梁王と為し、子友を淮陽王と為す。秋七月、淮南王黥布反し、東のかた荊王劉賈の地を并せ、北のかた淮を渡る、楚王交走りて薛に入る。高祖自ら往きて之を撃つ。子長を立てて淮南王と為す。十二年、十月、高祖已に布の軍を会甀に撃つ、布走る、別将をして之を追はしむ。高祖還り帰る、沛を過ぎ、留まる。沛宮に置酒し、悉く故人父老子弟を召して縦酒し、沛中の児を発して百二十人を得、之に歌を教ふ。酒酣にして、高祖筑を撃ち、自ら歌詩を為りて曰く、「大風起こりて雲飛揚す、威海内に加はりて故郷に帰る、安くにか猛士を得て四方を守らしめん。」と。児をして皆和して之を習はしむ。高祖乃ち起ちて舞ひ、慷慨傷懐し、泣数行下る。沛の父兄に謂ひて曰く、「游子故郷を悲しむ。吾関中に都すと雖も、万歳の後吾が魂魄猶ほ沛を楽しみ思はん。且つ朕沛公より以て暴逆を誅し、遂に天下を有つ、其れ沛を以て朕の湯沐の邑と為し、其の民を復し、世世与る所有る無からしめん。」と。沛の父兄諸母故人日に楽飲して驩を極め、旧故を道ひて笑楽を為す。十余日、高祖去らんと欲す、沛の父兄固く高祖を留めんことを請ふ。高祖曰く、「吾が人衆多し、父兄給する能はず。」と。乃ち去る。沛中県を空しくして皆邑の西に之きて献ず。高祖復た留止し、張飲すること三日。沛の父兄皆頓首して曰く、「沛は幸ひに復を得たり、豊は未だ復せず、唯だ陛下之を哀憐せよ。」と。高祖曰く、「豊は吾が生長せし所、極めて忘れざるのみ、吾特に其の雍歯の故を以て我に反きて魏の為にせしが為なり。」と。沛の父兄固く請ふ、乃ち并せて豊を復し、沛に比す。是に於て沛侯劉濞を拝して呉王と為す。
現代語訳
そこで趙の常山以北の地を分け、子の劉恒を代王に立てて晋陽を都とさせた。春、淮陰侯韓信が関中で謀反を企て、その三族を皆殺しにした。夏、梁王彭越が謀反を企てたので、王位を廃して蜀に流したが、再び反乱を企てたので、ついに三族を皆殺しにした。子の劉恢を梁王に、子の劉友を淮陽王に立てた。秋七月、淮南王黥布が反乱を起こし、東の荊王劉賈の領地を併せ、北の淮水を渡ったので、楚王劉交は逃げて薛に入った。高祖は自ら出向いてこれを攻めた。子の劉長を淮南王に立てた。十二年(前195年)十月、高祖は黥布の軍を会甀で撃ち、黥布は逃げたので、別働隊の将に追わせた。高祖は都へ帰る途中、沛に立ち寄ってとどまった。沛の宮で酒宴を開き、昔なじみや父老・子弟を皆呼び集めて心ゆくまで酒を飲ませ、沛の子ども百二十人を集めて歌を教えた。宴たけなわになると、高祖は筑(竹で打って鳴らす弦楽器)を打ち、自ら詩を作って歌った。「大風が吹き起こって雲は飛び舞う。威光は天下に行き渡り、いま故郷に帰ってきた。どうにかして勇猛な士を得て、四方を守らせたいものだ」。子どもたちに皆これに合わせて歌わせ、習わせた。高祖は立ち上がって舞い、感情が高ぶって胸がいっぱいになり、幾筋も涙を流した。そして沛の父兄に言った。「旅に出た者は故郷を恋しく思うものだ。私は関中を都としているが、死んだ後も私の魂はなお沛を懐かしく思うだろう。それに朕は沛公として暴虐な者を討ち、ついに天下を取った。沛を朕の湯沐の邑(直轄の領地)とし、その民の税と労役を免除して、代々負担を課さないことにしよう」。沛の父兄やおばたち、昔なじみは毎日楽しく酒を飲んで喜びを尽くし、昔話をしては笑い楽しんだ。十余日たって高祖が去ろうとすると、沛の父兄たちは強く引き留めた。高祖は「私の供の者は多いので、父兄の皆さんでは賄いきれないだろう」と言って去った。すると沛の県じゅうの人がこぞって町の西まで見送りに行き、献上品を差し出した。高祖は再びとどまり、幕を張って三日間酒宴を開いた。沛の父兄たちは皆頭を地につけて言った。「沛は幸いに免除をいただいたが、豊はまだ免除されていない。どうか陛下、豊を哀れんでいただきたい」。高祖は言った。「豊は私が生まれ育った所で、決して忘れはしない。ただ、豊が雍歯のせいで私に背いて魏についたことがあったからだ」。沛の父兄たちが強く願ったので、豊も併せて免除し、沛と同じ扱いにした。そこで沛侯劉濞を呉王に任じた。
解説
関連する章句
-
史記 高祖本紀地は方二千里、戟を持つもの百万、県隔すること千里の外、斉十に二を得たり。故に此れ東西の秦なり。親子弟に非ずんば、斉に王たらしむべき莫し。」と。高祖曰く、「善し。」と。黄金五百斤を賜ふ。後十余日、韓信を封じて淮陰侯と為し、其の地を分かちて二国と為す。高祖曰く将軍劉賈数(しばしば)功有りと、以て荊王と為し、淮東に王とす。弟交を楚王と為し、淮西に王とす。子肥を斉王と為し、七十余城に王とし、民の能く斉の言をなす者は皆斉に属す。乃ち功を論じ、諸列侯と符を剖きて封を行ふ。韓王信を太原に徙す。七年、匈奴韓王信を馬邑に攻む、信因りて与に謀りて太原に反す。白土の曼丘臣・王黄故の趙の将趙利を立てて王と為して以て反す、高祖自ら往きて之を撃つ。会々天寒く、士卒の指を墮す者什に二三、遂に平城に至る。匈奴我を平城に囲む、七日にして後罷め去る。樊噲をして止まりて代の地を定めしむ。兄劉仲を立てて代王と為す。二月、高祖平城より趙・雒陽を過ぎ、長安に至る。長楽宮成る、丞相已下徙りて長安に治す。八年、高祖東のかた韓王信の余反寇を東垣に撃つ。蕭丞相未央宮を営作し、東闕・北闕・前殿・武庫・太倉を立つ。高祖還り、宮闕の壮なること甚だしきを見て、怒り、蕭何に謂ひて曰く、「天下匈匈として苦戦すること数歳、成敗未だ知るべからず、是れ何ぞ宮室を治むること度を過ぐるや。」と。蕭何曰く、「天下方に未だ定まらず、故に因りて遂に宮室を就すべし。且つ夫れ天子は四海を家と為す、壮麗に非ずんば以て威を重くする無し、且つ後世をして以て加ふる有らしむる無からん。」と。高祖乃ち説ぶ。高祖の東垣に之くや、柏人を過ぐ、趙の相貫高等高祖を弑せんと謀る、高祖心動き、因りて留まらず。代王劉仲国を棄てて亡げ、自ら雒陽に帰る、廃して以て合陽侯と為す。九年、趙の相貫高等の事発覚し、三族を夷ぐ。
-
史記 高祖本紀趙王敖を廃して宣平侯と為す。是の歳、貴族の楚の昭・屈・景・懐、斉の田氏を関中に徙す。未央宮成る。高祖大いに諸侯群臣を朝し、未央の前殿に置酒す。高祖玉卮を奉じ、起ちて太上皇の為に寿して、曰く、「始め大人常に臣を以て無頼にして、産業を治むる能はず、仲の力むるに如かずと為す。今某の業の就る所仲に孰与(いづれ)ぞ多き。」と。殿上の群臣皆万歳を呼び、大いに笑ひて楽しみと為す。十年十月、淮南王黥布・梁王彭越・燕王盧綰・荊王劉賈・楚王劉交・斉王劉肥・長沙王呉芮皆来りて長楽宮に朝す。春夏事無し。七月、太上皇櫟陽宮に崩ず。楚王・梁王皆来りて葬を送る。櫟陽の囚を赦す。酈邑を更命して新豊と曰ふ。八月、趙の相国陳豨代の地に反す。上曰く、「豨嘗て吾が使と為り、甚だ信有り。代の地は吾の急とする所なり、故に豨を封じて列侯と為し、相国を以て代を守らしむ、今乃ち王黄等と代の地を劫掠す。代の地の吏民は罪有るに非ざるなり。其れ代の吏民を赦せ。」と。九月、上自ら東のかた往きて之を撃つ。邯鄲に至り、上喜びて曰く、「豨南のかた邯鄲に拠りて漳水を阻てず、吾其の能く為す無きを知る。」と。豨の将皆故の賈人なりと聞き、上曰く、「吾之に与ふる所以を知る。」と。乃ち多く金を以て豨の将に啗はす、豨の将多く降る者あり。十一年、高祖邯鄲に在りて豨等を誅すること未だ畢らず、豨の将侯敞万余人を将ゐて游行し、王黄曲逆に軍し、張春河を渡りて聊城を撃つ。漢将軍郭蒙をして斉の将と撃たしめ、大いに之を破る。太尉周勃太原より道して入り、代の地を定む。馬邑に至る、馬邑下らず、即ち攻めて之を残す。豨の将趙利東垣を守る、高祖之を攻むるも、下らず。月余にして、卒高祖を罵る、高祖怒る。城降る、罵る者を出だして之を斬らしめ、罵らざる者は之を原(ゆる)す。
-
史記 高祖本紀群臣皆曰く、「大王微細より起こり、暴逆を誅し、四海を平定し、功有る者は輒ち地を裂きて封じて王侯と為す。大王号を尊ばずんば、皆疑ひて信ぜず。臣等死を以て之を守らん。」と。漢王三たび譲る、已むを得ずして、曰く、「諸君必ず以て便と為さば、国家に便ならん。」と。甲午、乃ち皇帝の位に汜水の陽に即く。皇帝曰く義帝後無しと。斉王韓信楚の風俗に習ふ、徙して楚王と為し、下邳に都せしむ。建成侯彭越を立てて梁王と為し、定陶に都せしむ。故の韓王信を韓王と為し、陽翟に都せしむ。衡山王呉芮を徙して長沙王と為し、臨湘に都せしむ。番君の将梅鋗功有り、従ひて武関に入る、故に番君を徳とす。淮南王布・燕王臧荼・趙王敖皆故の如し。天下大いに定まる。高祖雒陽に都す、諸侯皆臣属す。故の臨江王驩項羽の為に漢に叛く、盧綰・劉賈をして之を囲ましむ、下らず。数月にして降る、之を雒陽に殺す。五月、兵皆罷めて家に帰る。諸侯の子の関中に在る者は之を復すること十二歳、其の帰る者は之を復すること六歳、之に食ましむること一歳。高祖雒陽の南宮に置酒す。高祖曰く、「列侯諸将敢へて朕に隠す無く、皆其の情を言へ。吾の天下を有する所以の者は何ぞ。項氏の天下を失ふ所以の者は何ぞ。」と。
-
史記 高祖本紀敗れて後乃ち独り孝恵を得たり、六月、立てて太子と為し、大いに罪人を赦す。太子をして櫟陽を守らしめ、諸侯の子の関中に在る者皆櫟陽に集まりて衛と為る。水を引きて廃丘に灌ぐ、廃丘降り、章邯自殺す。廃丘を更名して槐里と為す。是に於て祠官をして天地四方上帝山川を祀らしめ、時を以て之を祀る。関内の卒を興して塞に乗らしむ。是の時九江王布龍且と戦ひ、勝たず、随何と間行して漢に帰す。漢王稍々士卒を収め、諸将及び関中の卒と益々出づ、是を以て兵大いに滎陽に振るひ、楚を京・索の間に破る。三年、魏王豹謁して帰りて親の疾を視んとす、至れば即ち河津を絶ち、反きて楚と為る。漢王酈生をして豹に説かしむ、豹聴かず。漢王将軍韓信を遣はして撃たしめ、大いに之を破り、豹を虜にす。遂に魏の地を定め、三郡を置く、河東・太原・上党と曰ふ。漢王乃ち張耳と韓信とをして遂に東のかた井陘を下りて趙を撃たしめ、陳余・趙王歇を斬る。其の明年、張耳を立てて趙王と為す。漢王滎陽の南に軍し、甬道を築きて之を河に属し、以て敖倉を取る。項羽と相距ぐこと歳余。項羽数(しばしば)漢の甬道を侵奪す、漢の軍食に乏し、遂に漢王を囲む。漢王和を請ひ、滎陽以西を割く者を漢と為さんとす。項王聴かず。漢王之を患ひ、乃ち陳平の計を用ゐ、陳平に金四万斤を予へ、以て楚の君臣を間疏せしむ。是に於て項羽乃ち亜父を疑ふ。亜父是の時項羽に遂に滎陽を下さんことを勧む、其の疑はるるに及び、乃ち怒り、老を辞し、骸骨を賜ひて卒伍に帰らんことを願ふ、未だ彭城に至らずして死す。漢の軍食を絶つ、乃ち夜女子を東門より出だすこと二千余人、甲を被らしむ、楚因りて四面より之を撃つ。将軍紀信乃ち王の駕に乗り、詐りて漢王と為り、楚を誑す、楚皆万歳を呼び、城東に之きて観る、故を以て漢王数十騎と西門より出でて遁るるを得たり。
-
史記 高祖本紀人乃ち嫗を以て誠ならずと為し、之を告げんと欲す、嫗因りて忽ち見えず。後人至る、高祖覚む。後人高祖に告ぐ、高祖乃ち心に独り喜び、自ら負む。諸々の従者日に益々之を畏る。秦の始皇帝常て曰く「東南に天子の気有り」と、是に於て因りて東游して以て之を厭(おさ)ふ。高祖即ち自ら疑ひ、亡匿し、芒・碭の山沢巌石の間に隠る。呂后人と倶に求むるに、常に之を得たり。高祖怪しみて之に問ふ。呂后曰く、「季の居る所の上常に雲気有り、故に従ひ往きて常に季を得たり。」と。高祖心に喜ぶ。沛中の子弟或いは之を聞き、附かんと欲する者多し。秦の二世元年秋、陳勝等蘄に起こり、陳に至りて王たり、号して「張楚」と為す。諸郡県皆多く其の長吏を殺して以て陳渉に応ず。沛の令恐れ、沛を以て渉に応ぜんと欲す。掾・主吏の蕭何・曹参乃ち曰く、「君は秦の吏為り、今之に背き、沛の子弟を率ゐんと欲するも、恐らくは聴かざらん。願はくは君諸々の亡げて外に在る者を召せ、数百人を得べし、因りて衆を劫かさば、衆敢へて聴かずんばあらず。」と。乃ち樊噲をして劉季を召さしむ。劉季の衆已に数十百人なり。是に於て樊噲劉季に従ひて来る。沛の令後に悔い、其の変有らんことを恐れ、乃ち城を閉ぢて城守し、蕭・曹を誅せんと欲す。蕭・曹恐れ、城を踰えて劉季に保(たよ)る。劉季乃ち帛に書きて城上に射、沛の父老に謂ひて曰く、「天下秦に苦しむこと久し。今父老沛の令の為に守ると雖も、諸侯並び起こり、今に沛を屠らん。沛今共に令を誅し、子弟の立つべき者を択びて之を立て、以て諸侯に応ぜば、則ち家室完からん。然らずんば、父子倶に屠られん、為す無きなり。」と。父老乃ち子弟を率ゐて共に沛の令を殺し、城門を開きて劉季を迎へ、以て沛の令と為さんと欲す。劉季曰く、「天下方に擾れ、諸侯並び起こる、今将を置くこと善からずんば、壹たび敗れて地に塗れん。吾敢へて自ら愛するに非ず、能の薄くして、父兄子弟を完うする能はざらんことを恐る。此れ大事なり、願はくは更に相推して可なる者を択べ。」と。
-
史記 高祖本紀田栄怒り、因りて自ら立ちて斉王と為り、田都を殺して楚に反す。彭越に将軍の印を予へ、梁の地に反せしむ。楚蕭公角をして彭越を撃たしむ、彭越大いに之を破る。陳余項羽の己を王とせざるを怨み、夏説をして田栄に説かしめ、兵を請ひて張耳を撃たんとす。斉陳余に兵を予へ、常山王張耳を撃破す、張耳亡げて漢に帰す。趙王歇を代に迎へ、復た立てて趙王と為す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。項羽大いに怒り、北のかた斉を撃つ。八月、漢王韓信の計を用ゐ、故道より還り、雍王章邯を襲ふ。邯漢を陳倉に迎撃す、雍の兵敗れ、還り走る。止まりて好畤に戦ふ、又復た敗れ、廃丘に走る。漢王遂に雍の地を定む。東して咸陽に至り、兵を引きて雍王を廃丘に囲み、而して諸将を遣はして隴西・北地・上郡を略定せしむ。将軍薛欧・王吸をして武関を出でしめ、王陵の兵の南陽に在るに因り、以て太公・呂后を沛に迎へしむ。楚之を聞き、兵を発して之を陽夏に距ぐ、前むを得ず。故の呉の令鄭昌をして韓王と為し、漢の兵を距がしむ。二年、漢王東のかた地を略す、塞王欣・翟王翳・河南王申陽皆降る。韓王昌聴かず、韓信をして撃ちて之を破らしむ。是に於て隴西・北地・上郡・渭南・河上・中地の郡を置く。関外に河南郡を置く。更めて韓の太尉信を立てて韓王と為す。諸将の万人若しくは一郡を以て降る者は、万戸に封ず。河上の塞を繕治す。諸々の故の秦の苑囿園池は、皆人をして之を田(たがや)すを得しむ。正月、雍王の弟章平を虜にす。大いに罪人を赦す。漢王の関を出でて陝に至るや、関外の父老を撫し、還るに、張耳来り見ゆ、漢王厚く之を遇す。二月、秦の社稷を除き、更めて漢の社稷を立てしむ。三月、漢王臨晋より渡る、魏王豹兵を将ゐて従ふ。河内を下し、殷王を虜にし、河内郡を置く。南のかた平陰津を渡り、雒陽に至る。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る