史記 / 高祖本紀
廢趙王敖為宣平侯。是歲,徙貴族楚昭、屈、景、懷、齊田氏關中。未央宮成。高祖大朝諸侯群臣,置酒未央前殿。高祖奉玉卮,起為太上皇壽,曰:「始大人常以臣無賴,不能治產業,不如仲力。今某之業所就孰與仲多?」殿上群臣皆呼萬歲,大笑為樂。十年十月,淮南王黥布、梁王彭越、燕王盧綰、荊王劉賈、楚王劉交、齊王劉肥、長沙王吳芮皆來朝長樂宮。春夏無事。七月,太上皇崩櫟陽宮。楚王、梁王皆來送葬。赦櫟陽囚。更命酈邑曰新豐。八月,趙相國陳豨反代地。上曰:「豨嘗為吾使,甚有信。代地吾所急也,故封豨為列侯,以相國守代,今乃與王黃等劫掠代地!代地吏民非有罪也。其赦代吏民。」九月,上自東往擊之。至邯鄲,上喜曰:「豨不南據邯鄲而阻漳水,吾知其無能為也。」聞豨將皆故賈人也,上曰:「吾知所以與之。」乃多以金啗豨將,豨將多降者。十一年,高祖在邯鄲誅豨等未畢,豨將侯敞將萬餘人游行,王黃軍曲逆,張春渡河擊聊城。漢使將軍郭蒙與齊將擊,大破之。太尉周勃道太原入,定代地。至馬邑,馬邑不下,即攻殘之。豨將趙利守東垣,高祖攻之,不下。月餘,卒罵高祖,高祖怒。城降,令出罵者斬之,不罵者原之。
新字:廃趙王敖為宣平侯。是歳,徙貴族楚昭、屈、景、懐、斉田氏関中。未央宮成。高祖大朝諸侯群臣,置酒未央前殿。高祖奉玉卮,起為太上皇寿,曰:「始大人常以臣無頼,不能治産業,不如仲力。今某之業所就孰与仲多?」殿上群臣皆呼万歳,大笑為楽。十年十月,淮南王黥布、梁王彭越、燕王盧綰、荊王劉賈、楚王劉交、斉王劉肥、長沙王呉芮皆来朝長楽宮。春夏無事。七月,太上皇崩櫟陽宮。楚王、梁王皆来送葬。赦櫟陽囚。更命酈邑曰新豊。八月,趙相国陳豨反代地。上曰:「豨嘗為吾使,甚有信。代地吾所急也,故封豨為列侯,以相国守代,今乃与王黄等劫掠代地!代地吏民非有罪也。其赦代吏民。」九月,上自東往撃之。至邯鄲,上喜曰:「豨不南拠邯鄲而阻漳水,吾知其無能為也。」聞豨将皆故賈人也,上曰:「吾知所以与之。」乃多以金啗豨将,豨将多降者。十一年,高祖在邯鄲誅豨等未畢,豨将侯敞将万余人游行,王黄軍曲逆,張春渡河撃聊城。漢使将軍郭蒙与斉将撃,大破之。太尉周勃道太原入,定代地。至馬邑,馬邑不下,即攻残之。豨将趙利守東垣,高祖攻之,不下。月余,卒罵高祖,高祖怒。城降,令出罵者斬之,不罵者原之。
書き下し
趙王敖を廃して宣平侯と為す。是の歳、貴族の楚の昭・屈・景・懐、斉の田氏を関中に徙す。未央宮成る。高祖大いに諸侯群臣を朝し、未央の前殿に置酒す。高祖玉卮を奉じ、起ちて太上皇の為に寿して、曰く、「始め大人常に臣を以て無頼にして、産業を治むる能はず、仲の力むるに如かずと為す。今某の業の就る所仲に孰与(いづれ)ぞ多き。」と。殿上の群臣皆万歳を呼び、大いに笑ひて楽しみと為す。十年十月、淮南王黥布・梁王彭越・燕王盧綰・荊王劉賈・楚王劉交・斉王劉肥・長沙王呉芮皆来りて長楽宮に朝す。春夏事無し。七月、太上皇櫟陽宮に崩ず。楚王・梁王皆来りて葬を送る。櫟陽の囚を赦す。酈邑を更命して新豊と曰ふ。八月、趙の相国陳豨代の地に反す。上曰く、「豨嘗て吾が使と為り、甚だ信有り。代の地は吾の急とする所なり、故に豨を封じて列侯と為し、相国を以て代を守らしむ、今乃ち王黄等と代の地を劫掠す。代の地の吏民は罪有るに非ざるなり。其れ代の吏民を赦せ。」と。九月、上自ら東のかた往きて之を撃つ。邯鄲に至り、上喜びて曰く、「豨南のかた邯鄲に拠りて漳水を阻てず、吾其の能く為す無きを知る。」と。豨の将皆故の賈人なりと聞き、上曰く、「吾之に与ふる所以を知る。」と。乃ち多く金を以て豨の将に啗はす、豨の将多く降る者あり。十一年、高祖邯鄲に在りて豨等を誅すること未だ畢らず、豨の将侯敞万余人を将ゐて游行し、王黄曲逆に軍し、張春河を渡りて聊城を撃つ。漢将軍郭蒙をして斉の将と撃たしめ、大いに之を破る。太尉周勃太原より道して入り、代の地を定む。馬邑に至る、馬邑下らず、即ち攻めて之を残す。豨の将趙利東垣を守る、高祖之を攻むるも、下らず。月余にして、卒高祖を罵る、高祖怒る。城降る、罵る者を出だして之を斬らしめ、罵らざる者は之を原(ゆる)す。
現代語訳
趙王張敖を廃して宣平侯とした。この年、楚の名門の昭・屈・景・懐の一族と、斉の田氏を関中に移住させた。未央宮が完成した。高祖は諸侯や群臣を盛大に朝見させ、未央宮の前殿で酒宴を開いた。高祖は玉の杯を捧げ持ち、立ち上がって太上皇の長寿を祝い、こう言った。「昔、父上はいつも私のことを、ろくでなしで家業も営めず、兄の仲のように働き者ではないと言っておられた。いま私が成し遂げた家業と仲のものとでは、どちらが多いだろうか」。殿上の群臣は皆万歳を叫び、大笑いして楽しんだ。十年(前197年)十月、淮南王黥布・梁王彭越・燕王盧綰・荊王劉賈・楚王劉交・斉王劉肥・長沙王呉芮が皆長楽宮に朝見に来た。春と夏は何事もなかった。七月、太上皇が櫟陽宮で崩御した。楚王と梁王が皆来て葬送に加わった。櫟陽の囚人たちを赦した。酈邑の名を改めて新豊とした。八月、趙の相国陳豨が代の地で反乱を起こした。主上は言った。「陳豨はかつて私の使者となり、たいへん信用のおける者だった。代の地は私にとって重要な所なので、陳豨を列侯に封じ、相国として代を守らせたのに、いま王黄らと代の地で略奪を行っている。代の役人や民に罪があるわけではない。代の役人と民は赦せ」。九月、主上は自ら東へ向かいこれを攻めた。邯鄲に着くと、主上は喜んで言った。「陳豨が南の邯鄲を拠点にして漳水を盾にしなかったのを見れば、彼に何もできないことが分かる」。陳豨の将が皆もと商人だと聞くと、主上は「彼らの扱い方は分かっている」と言い、大金で陳豨の将たちを釣ったので、陳豨の将の多くが降った。十一年(前196年)、高祖が邯鄲で陳豨らの討伐をまだ終えないうちに、陳豨の将侯敞が一万余人を率いて各地を荒らし回り、王黄は曲逆に陣を置き、張春は黄河を渡って聊城を攻めた。漢は将軍郭蒙に斉の将とともに攻撃させ、大いにこれを破った。太尉周勃は太原から入って代の地を平定した。馬邑に至ると、馬邑は降らなかったので、攻めて破壊した。陳豨の将趙利は東垣を守っていたが、高祖が攻めても落ちなかった。一か月余りして、城兵が高祖を罵ったので、高祖は怒った。城が降ると、罵った者を差し出させて斬り、罵らなかった者は許した。
解説
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史記 韓信盧綰列伝趙・代を劫略す。上聞き、乃ち趙・代の吏人の豨の為に詿誤劫略せらるる者を赦し、皆之を赦す。上自ら往き、邯鄲に至り、喜びて曰く、「豨南のかた漳水に拠らず、北のかた邯鄲を守らず。其の能く為す無きを知るなり」と。趙の相奏して常山の守・尉を斬らんとして曰く、「常山の二十五城、豨反して、其の二十城を亡ふ」と。上問ひて曰く、「守・尉反せしか」と。対へて曰く、「反せず」と。上曰く、「是れ力足らざるなり」と。之を赦し、復た以て常山の守・尉と為す。上周昌に問ひて曰く、「趙に亦壮士の将たらしむべき者有りや」と。対へて曰く、「四人有り」と。四人謁す。上謾罵して曰く、「豎子能く将たらんや」と。四人慚ぢて伏す。上之を封ずること各千戸、以て将と為す。左右諫めて曰く、「蜀・漢に入り、楚を伐つに従ひしも、功未だ遍く行はれず。今此れ何の功ありて封ずるや」と。上曰く、「若の知る所に非ず。陳豨反し、邯鄲以北は皆豨の有なり。吾羽檄を以て天下の兵を徴すも、未だ至る者有らず。今唯だ独り邯鄲中の兵のみ。吾胡ぞ四千戸を愛しみて四人を封じ、以て趙の子弟を慰めざらんや」と。皆曰く、「善し」と。是に於て上曰く、「陳豨の将は誰ぞ」と。曰く、「王黄・曼丘臣、皆故の賈人なり」と。上曰く、「吾之を知れり」と。乃ち各千金を以て黄・臣等を購ふ。十一年の冬、漢兵撃ちて陳豨の将侯敞・王黄を曲逆の下に斬り、豨の将張春を聊城に破り、首を斬ること万余。太尉勃入りて太原・代の地を定む。十二月、上自ら東垣を撃つ。東垣下らず、卒上を罵る。東垣降るや、卒の罵りし者は之を斬り、罵らざる者は之を黥す。更めて東垣を命じて真定と為す。王黄・曼丘臣は、其の麾下購賞に之を受け、皆生け得たり。以ての故に陳豨の軍遂に敗る。上還りて洛陽に至る。上曰く、「代は常山の北に居り、趙は乃ち山南より之を有つ、遠し」と。乃ち子恒を立てて代王と為し、中都に都せしめ、代・鴈門皆代に属せしむ。高祖の十二年の冬、樊噲の軍卒追ひて豨を霊丘に斬る。
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史記 高祖本紀地は方二千里、戟を持つもの百万、県隔すること千里の外、斉十に二を得たり。故に此れ東西の秦なり。親子弟に非ずんば、斉に王たらしむべき莫し。」と。高祖曰く、「善し。」と。黄金五百斤を賜ふ。後十余日、韓信を封じて淮陰侯と為し、其の地を分かちて二国と為す。高祖曰く将軍劉賈数(しばしば)功有りと、以て荊王と為し、淮東に王とす。弟交を楚王と為し、淮西に王とす。子肥を斉王と為し、七十余城に王とし、民の能く斉の言をなす者は皆斉に属す。乃ち功を論じ、諸列侯と符を剖きて封を行ふ。韓王信を太原に徙す。七年、匈奴韓王信を馬邑に攻む、信因りて与に謀りて太原に反す。白土の曼丘臣・王黄故の趙の将趙利を立てて王と為して以て反す、高祖自ら往きて之を撃つ。会々天寒く、士卒の指を墮す者什に二三、遂に平城に至る。匈奴我を平城に囲む、七日にして後罷め去る。樊噲をして止まりて代の地を定めしむ。兄劉仲を立てて代王と為す。二月、高祖平城より趙・雒陽を過ぎ、長安に至る。長楽宮成る、丞相已下徙りて長安に治す。八年、高祖東のかた韓王信の余反寇を東垣に撃つ。蕭丞相未央宮を営作し、東闕・北闕・前殿・武庫・太倉を立つ。高祖還り、宮闕の壮なること甚だしきを見て、怒り、蕭何に謂ひて曰く、「天下匈匈として苦戦すること数歳、成敗未だ知るべからず、是れ何ぞ宮室を治むること度を過ぐるや。」と。蕭何曰く、「天下方に未だ定まらず、故に因りて遂に宮室を就すべし。且つ夫れ天子は四海を家と為す、壮麗に非ずんば以て威を重くする無し、且つ後世をして以て加ふる有らしむる無からん。」と。高祖乃ち説ぶ。高祖の東垣に之くや、柏人を過ぐ、趙の相貫高等高祖を弑せんと謀る、高祖心動き、因りて留まらず。代王劉仲国を棄てて亡げ、自ら雒陽に帰る、廃して以て合陽侯と為す。九年、趙の相貫高等の事発覚し、三族を夷ぐ。
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