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史記 / 高祖本紀

地方二千里,持戟百萬,縣隔千里之外,齊得十二焉。故此東西秦也。非親子弟,莫可使王齊矣。」高祖曰:「善。」賜黃金五百斤。後十餘日,封韓信為淮陰侯,分其地為二國。高祖曰將軍劉賈數有功,以為荊王,王淮東。弟交為楚王,王淮西。子肥為齊王,王七十餘城,民能齊言者皆屬齊。乃論功,與諸列侯剖符行封。徙韓王信太原。七年,匈奴攻韓王信馬邑,信因與謀反太原。白土曼丘臣、王黃立故趙將趙利為王以反,高祖自往擊之。會天寒,士卒墮指者什二三,遂至平城。匈奴圍我平城,七日而後罷去。令樊噲止定代地。立兄劉仲為代王。二月,高祖自平城過趙、雒陽,至長安。長樂宮成,丞相已下徙治長安。八年,高祖東擊韓王信餘反寇於東垣。蕭丞相營作未央宮,立東闕、北闕、前殿、武庫、太倉。高祖還,見宮闕壯甚,怒,謂蕭何曰:「天下匈匈苦戰數歲,成敗未可知,是何治宮室過度也?」蕭何曰:「天下方未定,故可因遂就宮室。且夫天子四海為家,非壯麗無以重威,且無令後世有以加也。」高祖乃說。高祖之東垣,過柏人,趙相貫高等謀弒高祖,高祖心動,因不留。代王劉仲棄國亡,自歸雒陽,廢以為合陽侯。九年,趙相貫高等事發覺,夷三族。

新字:地方二千里,持戟百万,県隔千里之外,斉得十二焉。故此東西秦也。非親子弟,莫可使王斉矣。」高祖曰:「善。」賜黄金五百斤。後十余日,封韓信為淮陰侯,分其地為二国。高祖曰将軍劉賈数有功,以為荊王,王淮東。弟交為楚王,王淮西。子肥為斉王,王七十余城,民能斉言者皆属斉。乃論功,与諸列侯剖符行封。徙韓王信太原。七年,匈奴攻韓王信馬邑,信因与謀反太原。白土曼丘臣、王黄立故趙将趙利為王以反,高祖自往撃之。会天寒,士卒堕指者什二三,遂至平城。匈奴囲我平城,七日而後罷去。令樊噲止定代地。立兄劉仲為代王。二月,高祖自平城過趙、雒陽,至長安。長楽宮成,丞相已下徙治長安。八年,高祖東撃韓王信余反寇於東垣。蕭丞相営作未央宮,立東闕、北闕、前殿、武庫、太倉。高祖還,見宮闕壮甚,怒,謂蕭何曰:「天下匈匈苦戦数歳,成敗未可知,是何治宮室過度也?」蕭何曰:「天下方未定,故可因遂就宮室。且夫天子四海為家,非壮麗無以重威,且無令後世有以加也。」高祖乃説。高祖之東垣,過柏人,趙相貫高等謀弒高祖,高祖心動,因不留。代王劉仲棄国亡,自帰雒陽,廃以為合陽侯。九年,趙相貫高等事発覚,夷三族。

書き下し

地は方二千里、戟を持つもの百万、県隔すること千里の外、斉十に二を得たり。故に此れ東西の秦なり。親子弟に非ずんば、斉に王たらしむべき莫し。」と。高祖曰く、「善し。」と。黄金五百斤を賜ふ。後十余日、韓信を封じて淮陰侯と為し、其の地を分かちて二国と為す。高祖曰く将軍劉賈数(しばしば)功有りと、以て荊王と為し、淮東に王とす。弟交を楚王と為し、淮西に王とす。子肥を斉王と為し、七十余城に王とし、民の能く斉の言をなす者は皆斉に属す。乃ち功を論じ、諸列侯と符を剖きて封を行ふ。韓王信を太原に徙す。七年、匈奴韓王信を馬邑に攻む、信因りて与に謀りて太原に反す。白土の曼丘臣・王黄故の趙の将趙利を立てて王と為して以て反す、高祖自ら往きて之を撃つ。会々天寒く、士卒の指を墮す者什に二三、遂に平城に至る。匈奴我を平城に囲む、七日にして後罷め去る。樊噲をして止まりて代の地を定めしむ。兄劉仲を立てて代王と為す。二月、高祖平城より趙・雒陽を過ぎ、長安に至る。長楽宮成る、丞相已下徙りて長安に治す。八年、高祖東のかた韓王信の余反寇を東垣に撃つ。蕭丞相未央宮を営作し、東闕・北闕・前殿・武庫・太倉を立つ。高祖還り、宮闕の壮なること甚だしきを見て、怒り、蕭何に謂ひて曰く、「天下匈匈として苦戦すること数歳、成敗未だ知るべからず、是れ何ぞ宮室を治むること度を過ぐるや。」と。蕭何曰く、「天下方に未だ定まらず、故に因りて遂に宮室を就すべし。且つ夫れ天子は四海を家と為す、壮麗に非ずんば以て威を重くする無し、且つ後世をして以て加ふる有らしむる無からん。」と。高祖乃ち説ぶ。高祖の東垣に之くや、柏人を過ぐ、趙の相貫高等高祖を弑せんと謀る、高祖心動き、因りて留まらず。代王劉仲国を棄てて亡げ、自ら雒陽に帰る、廃して以て合陽侯と為す。九年、趙の相貫高等の事発覚し、三族を夷ぐ。

現代語訳

(田肯は続けた。)「土地は二千里四方、戟を持つ兵百万に対し、諸侯から千里の外に隔たっていて、斉は二十万で当たることができる。だから斉は東西に並ぶもう一つの秦なのだ。陛下の身内の子弟でなければ、斉の王にしてはならない」。高祖は「よかろう」と言い、黄金五百斤を賜った。十余日後、韓信を淮陰侯に封じ、その領地を分けて二つの国とした。高祖は、将軍劉賈がたびたび功績を挙げたとして、荊王とし、淮水の東の王とした。弟の劉交を楚王とし、淮水の西の王とした。子の劉肥を斉王とし、七十余城の王として、斉の言葉を話す民は皆斉に属させた。そこで功績を論じ、列侯たちと割り符を分け合って領地を与えた。韓王信を太原に移した。七年(前200年)、匈奴が馬邑で韓王信を攻め、韓王信はそのまま匈奴と謀って太原で反乱を起こした。白土の曼丘臣と王黄はもとの趙の将の趙利を王に立てて反乱を起こし、高祖は自ら出向いてこれを攻めた。たまたま寒さが厳しく、凍傷で指を落とした兵士が十人に二、三人もいた。ついに平城に至ると、匈奴は我が軍を平城で包囲し、七日たってようやく包囲を解いて去った。樊噲にとどまって代の地を平定させた。兄の劉仲を代王に立てた。二月、高祖は平城から趙・雒陽を経て長安に至った。長楽宮が完成し、丞相以下の役所が長安に移った。八年(前199年)、高祖は東へ向かい、韓王信の残党の反乱軍を東垣で攻めた。蕭丞相(蕭何)は未央宮を造営し、東の門楼・北の門楼・前殿・武器庫・大きな穀物倉を建てた。高祖は帰ってきて、宮殿と門楼があまりに壮大なのを見て怒り、蕭何に言った。「天下は騒然として数年も苦しい戦いが続き、勝敗もまだ分からないのに、なぜこれほど度を越した宮殿を造るのか」。蕭何は言った。「天下はまだ定まっていないからこそ、この機に宮殿を造り上げるべきなのだ。そもそも天子は天下全体を家とするもの。壮麗でなければ威厳を重くすることはできない。それに、後世の者がこれ以上のものを造る必要がないようにしておくのだ」。高祖はそこで喜んだ。高祖が東垣に向かう途中、柏人を通った。趙の宰相貫高らが高祖を殺そうと謀っていたが、高祖は胸騒ぎがして、そこにとどまらなかった。代王劉仲は国を捨てて逃げ、自ら雒陽に帰ってきたので、王位を廃して合陽侯とした。九年(前198年)、趙の宰相貫高らの陰謀が発覚し、その三族(父母・妻子・兄弟の一族)を皆殺しにした。

解説

統一後の漢の体制づくりと、相次ぐ危機を描く段です。田肯の進言を受け、劉邦は重要な斉を実子劉肥に与え、功臣の韓信は王から淮陰侯に格下げしました。要地は身内で固めるという方針です。北方では匈奴と結んだ韓王信の反乱が起き、劉邦は自ら出陣しましたが、厳寒で兵の指が凍傷で落ちるなか、平城の白登山で匈奴に七日間包囲される危機に陥りました。また、蕭何が壮麗な未央宮を建てると劉邦は怒りますが、蕭何は「天子の威厳を示し、後世に増築の必要をなくすため」と説明し、劉邦も納得します。見た目の豪華さにも、権威を示すという実務上の意味があったのです。趙の宰相貫高の暗殺計画も発覚し、統一後も漢の基盤はなお不安定でした。

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