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史記 / 高祖本紀

項王歸漢王父母妻子,軍中皆呼萬歲,乃歸而別去。項羽解而東歸。漢王欲引而西歸,用留侯、陳平計,乃進兵追項羽,至陽夏南止軍,與齊王信、建成侯彭越期會而擊楚軍。至固陵,不會。楚擊漢軍,大破之。漢王復入壁,深塹而守之。用張良計,於是韓信、彭越皆往。及劉賈入楚地,圍壽春,漢王敗碧陵,乃使使者召大司馬周殷舉九江兵而迎武王,行屠城父,隨劉賈、齊梁諸侯皆大會垓下。立武王布為淮南王。五年,高祖與諸侯兵共擊楚軍,與項羽決勝垓下。淮陰侯將三十萬自當之,孔將軍居左,費將軍居右,皇帝在後,絳侯、柴將軍在皇帝後。項羽之卒可十萬。淮陰先合,不利,卻。孔將軍、費將軍縱,楚兵不利,淮陰侯復乘之,大敗垓下。項羽卒聞漢軍之楚歌,以為漢盡得楚地,項羽乃敗而走,是以兵大敗。使騎將灌嬰追殺項羽東城,斬首八萬,遂略定楚地。魯為楚堅守不下。漢王引諸侯兵北,示魯父老項羽頭,魯乃降。遂以魯公號葬項羽穀城。還至定陶,馳入齊王壁,奪其軍。正月,諸侯及將相相與共請尊漢王為皇帝。漢王曰:「吾聞帝賢者有也,空言虛語,非所守也,吾不敢當帝位。」

新字:項王帰漢王父母妻子,軍中皆呼万歳,乃帰而別去。項羽解而東帰。漢王欲引而西帰,用留侯、陳平計,乃進兵追項羽,至陽夏南止軍,与斉王信、建成侯彭越期会而撃楚軍。至固陵,不会。楚撃漢軍,大破之。漢王復入壁,深塹而守之。用張良計,於是韓信、彭越皆往。及劉賈入楚地,囲寿春,漢王敗碧陵,乃使使者召大司馬周殷舉九江兵而迎武王,行屠城父,随劉賈、斉梁諸侯皆大会垓下。立武王布為淮南王。五年,高祖与諸侯兵共撃楚軍,与項羽決勝垓下。淮陰侯将三十万自当之,孔将軍居左,費将軍居右,皇帝在後,絳侯、柴将軍在皇帝後。項羽之卒可十万。淮陰先合,不利,却。孔将軍、費将軍縦,楚兵不利,淮陰侯復乗之,大敗垓下。項羽卒聞漢軍之楚歌,以為漢尽得楚地,項羽乃敗而走,是以兵大敗。使騎将灌嬰追殺項羽東城,斬首八万,遂略定楚地。魯為楚堅守不下。漢王引諸侯兵北,示魯父老項羽頭,魯乃降。遂以魯公号葬項羽穀城。還至定陶,馳入斉王壁,奪其軍。正月,諸侯及将相相与共請尊漢王為皇帝。漢王曰:「吾聞帝賢者有也,空言虚語,非所守也,吾不敢当帝位。」

書き下し

項王漢王の父母妻子を帰す、軍中皆万歳を呼ぶ、乃ち帰りて別れ去る。項羽解きて東帰す。漢王引きて西帰せんと欲す、留侯・陳平の計を用ゐ、乃ち兵を進めて項羽を追ひ、陽夏の南に至りて軍を止め、斉王信・建成侯彭越と期会して楚の軍を撃たんとす。固陵に至る、会せず。楚漢の軍を撃ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして之を守る。張良の計を用ゐ、是に於て韓信・彭越皆往く。劉賈楚の地に入り、寿春を囲むに及び、漢王碧陵に敗れ、乃ち使者をして大司馬周殷を召さしめ九江の兵を挙げて(之)武王を迎へ、行くゆく城父を屠り、(何)劉賈・斉梁の諸侯に随ひて皆大いに垓下に会す。武王布を立てて淮南王と為す。五年、高祖諸侯の兵と共に楚の軍を撃ち、項羽と勝ちを垓下に決す。淮陰侯三十万を将ゐて自ら之に当たり、孔将軍左に居り、費将軍右に居り、皇帝後に在り、絳侯・柴将軍皇帝の後に在り。項羽の卒十万可り。淮陰先づ合し、利あらず、卻く。孔将軍・費将軍縦(はな)つ、楚の兵利あらず、淮陰侯復た之に乗じ、大いに垓下に敗る。項羽の卒漢軍の楚歌するを聞き、以為へらく漢尽く楚の地を得たりと、項羽乃ち敗れて走る、是を以て兵大いに敗る。騎将灌嬰をして項羽を東城に追殺せしめ、斬首八万、遂に楚の地を略定す。魯楚の為に堅守して下らず。漢王諸侯の兵を引きて北し、魯の父老に項羽の頭を示す、魯乃ち降る。遂に魯公の号を以て項羽を穀城に葬る。還りて定陶に至り、馳せて斉王の壁に入り、其の軍を奪ふ。正月、諸侯及び将相相与に共に漢王を尊びて皇帝と為さんことを請ふ。漢王曰く、「吾聞く帝は賢者之を有つと、空言虚語は、守る所に非ざるなり、吾敢へて帝位に当たらず。」と。

現代語訳

項王は漢王の父母と妻子を帰し、両軍は皆万歳を叫んだ。こうして互いに帰って別れ去った。項羽は包囲を解いて東へ帰った。漢王も兵を引いて西へ帰ろうとしたが、留侯(張良)と陳平の計略を用いて、兵を進めて項羽を追い、陽夏の南まで来て軍を止め、斉王韓信・建成侯彭越と期日を決めて合流し、楚の軍を撃とうとした。ところが固陵に着いても、彼らは合流しなかった。楚は漢の軍を攻撃して大いに破った。漢王は再び砦に入り、堀を深くして守った。張良の計略を用いると、韓信と彭越は皆出陣した。劉賈が楚の地に入って寿春を包囲すると、漢王は碧陵で敗れたが、使者を送って楚の大司馬周殷を招き寄せ、周殷は九江の兵を挙げて武王(黥布)を迎え、途中で城父を攻め落として皆殺しにし、劉賈や斉・梁の諸侯に従って、皆垓下に大挙して集まった。武王黥布を淮南王に立てた。五年(前202年)、高祖は諸侯の兵とともに楚の軍を攻め、項羽と垓下で決戦した。淮陰侯(韓信)は三十万の兵を率いて自ら正面に当たり、孔将軍が左に、費将軍が右に陣取り、皇帝はその後ろにいて、絳侯(周勃)と柴将軍が皇帝のさらに後ろにいた。項羽の兵はおよそ十万であった。淮陰侯がまず戦いを交えたが、不利で退いた。そこで孔将軍と費将軍が左右から兵を繰り出すと、楚の兵は不利になり、淮陰侯が再びこれに乗じて、垓下で楚軍を大いに破った。項羽の兵は漢軍が楚の歌を歌うのを聞いて、漢がすでに楚の地をすべて手に入れたと思い込んだ。項羽はそこで敗れて逃げ、そのために楚の兵は大敗した。騎兵の将灌嬰に項羽を東城まで追わせて殺させ、首を斬ること八万に及び、ついに楚の地を平定した。魯は楚のために堅く守って降らなかった。漢王は諸侯の兵を率いて北へ向かい、魯の父老に項羽の首を見せると、魯はようやく降った。そこで魯公の称号をもって項羽を穀城に葬った。引き返して定陶に至ると、斉王(韓信)の砦に馬で駆け込み、その軍の指揮権を奪った。正月、諸侯と将軍・宰相たちはともに漢王を尊んで皇帝になっていただきたいと願い出た。漢王は言った。「帝の位は賢者が持つものだと聞いている。中身のない言葉や名ばかりのものは、守るべきものではない。私は帝位に就くわけにはいかない」。

解説

垓下の決戦から、劉邦が皇帝に推される直前までの段です。項羽本紀が項羽の悲劇に焦点を当てたのに対し、ここでは布陣が具体的に書かれています。韓信が三十万で正面に当たり、いったん退いて楚軍を引き込んだところを、左右の孔将軍・費将軍が挟撃し、韓信が再び押し返すという用兵でした。項羽の兵は四面の楚歌に戦意を失って崩れます。注目したいのは、戦いが終わるとすぐに劉邦が定陶で韓信の陣に駆け込み、軍の指揮権を取り上げたことです。最大の功労者でありながら最大の潜在的脅威でもある韓信から、まず兵力を切り離しました。そして諸侯が帝位を勧めると、劉邦は一度辞退します。勝利の直後にこそ、権力の構造を整え直す冷静さが求められることがよく分かる場面です。

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