史記 / 高祖本紀
漢王數項羽曰:「始與項羽俱受命懷王,曰先入定關中者王之,項羽負約,王我於蜀漢,罪一。秦項羽矯殺卿子冠軍而自尊,罪二。項羽已救趙,當還報,而擅劫諸侯兵入關,罪三。懷王約入秦無暴掠,項羽燒秦宮室,掘始皇帝冢,私收其財物,罪四。又彊殺秦降王子嬰,罪五。詐阬秦子弟新安二十萬,王其將,罪六。項羽皆王諸將善地,而徙逐故主,令臣下爭叛逆,罪七。項羽出逐義帝彭城,自都之,奪韓王地,并王梁楚,多自予,罪八。項羽使人陰弒義帝江南,罪九。夫為人臣而弒其主,殺已降,為政不平,主約不信,天下所不容,大逆無道,罪十也。吾以義兵從諸侯誅殘賊,使刑餘罪人擊殺項羽,何苦乃與公挑戰!」項羽大怒,伏弩射中漢王。漢王傷匈,乃捫足曰:「虜中吾指!」漢王病創臥,張良彊請漢王起行勞軍,以安士卒,毋令楚乘勝於漢。漢王出行軍,病甚,因馳入成皋。病愈,西入關,至櫟陽,存問父老,置酒,梟故塞王欣頭櫟陽市。留四日,復如軍,軍廣武。關中兵益出。當此時,彭越將兵居梁地,往來苦楚兵,絕其糧食。田橫往從之。項羽數擊彭越等,齊王信又進擊楚。項羽恐,乃與漢王約,中分天下,割鴻溝而西者為漢,鴻溝而東者為楚。
新字:漢王数項羽曰:「始与項羽倶受命懐王,曰先入定関中者王之,項羽負約,王我於蜀漢,罪一。秦項羽矯殺卿子冠軍而自尊,罪二。項羽已救趙,当還報,而擅劫諸侯兵入関,罪三。懐王約入秦無暴掠,項羽焼秦宮室,掘始皇帝冢,私収其財物,罪四。又彊殺秦降王子嬰,罪五。詐阬秦子弟新安二十万,王其将,罪六。項羽皆王諸将善地,而徙逐故主,令臣下争叛逆,罪七。項羽出逐義帝彭城,自都之,奪韓王地,并王梁楚,多自予,罪八。項羽使人陰弒義帝江南,罪九。夫為人臣而弒其主,殺已降,為政不平,主約不信,天下所不容,大逆無道,罪十也。吾以義兵従諸侯誅残賊,使刑余罪人撃殺項羽,何苦乃与公挑戦!」項羽大怒,伏弩射中漢王。漢王傷匈,乃捫足曰:「虜中吾指!」漢王病創臥,張良彊請漢王起行労軍,以安士卒,毋令楚乗勝於漢。漢王出行軍,病甚,因馳入成皋。病愈,西入関,至櫟陽,存問父老,置酒,梟故塞王欣頭櫟陽市。留四日,復如軍,軍広武。関中兵益出。当此時,彭越将兵居梁地,往来苦楚兵,絶其糧食。田横往従之。項羽数撃彭越等,斉王信又進撃楚。項羽恐,乃与漢王約,中分天下,割鴻溝而西者為漢,鴻溝而東者為楚。
書き下し
漢王項羽を数めて曰く、「始め項羽と倶に命を懐王に受く、曰く先づ入りて関中を定むる者は之を王とせんと、項羽約に負き、我を蜀漢に王とす、罪の一なり。項羽卿子冠軍を矯殺して自ら尊ぶ、罪の二なり。項羽已に趙を救ひ、当に還りて報ずべきに、而して擅に諸侯の兵を劫かして関に入る、罪の三なり。懐王約すらく秦に入りて暴掠する無かれと、項羽秦の宮室を焼き、始皇帝の冢を掘り、私に其の財物を収む、罪の四なり。又彊ひて秦の降王子嬰を殺す、罪の五なり。詐りて秦の子弟を新安に阬にすること二十万、其の将を王とす、罪の六なり。項羽皆諸将を善地に王とし、而して故主を徙逐し、臣下をして争ひて叛逆せしむ、罪の七なり。項羽義帝を彭城より出だし逐ひ、自ら之に都し、韓王の地を奪ひ、梁・楚に并せ王とし、多く自ら予ふ、罪の八なり。項羽人をして陰かに義帝を江南に弑せしむ、罪の九なり。夫れ人臣と為りて其の主を弑し、已に降るを殺し、政を為すこと平らかならず、約を主りて信ならず、天下の容れざる所、大逆無道なり、罪の十なり。吾義兵を以て諸侯に従ひて残賊を誅す、刑余の罪人をして項羽を撃殺せしめん、何ぞ苦しみて乃ち公と挑戦せんや。」と。項羽大いに怒り、伏弩もて漢王を射中つ。漢王匈(むね)を傷つく、乃ち足を捫(な)でて曰く、「虜吾が指に中つ。」と。漢王創を病みて臥す、張良彊ひて漢王に起ちて行きて軍を労はんことを請ひ、以て士卒を安んじ、楚をして漢に勝ちに乗ぜしむる毋からしむ。漢王出でて軍を行(めぐ)る、病甚だし、因りて馳せて成皋に入る。病愈え、西して関に入り、櫟陽に至り、父老を存問し、置酒し、故の塞王欣の頭を櫟陽の市に梟す。留まること四日、復た軍に如き、広武に軍す。関中の兵益々出づ。此の時に当たりて、彭越兵を将ゐて梁の地に居り、往来して楚の兵を苦しめ、其の糧食を絶つ。田横往きて之に従ふ。項羽数(しばしば)彭越等を撃つ、斉王信又進みて楚を撃つ。項羽恐れ、乃ち漢王と約し、天下を中分し、鴻溝を割きて西なる者を漢と為し、鴻溝よりして東なる者を楚と為す。
現代語訳
漢王は項羽の罪を数え上げて言った。「はじめ私は項羽とともに懐王から命を受け、先に関中に入って平定した者を王とすると約束した。ところが項羽は約束に背き、私を蜀・漢中の王にした。これが第一の罪だ。項羽は王命と偽って卿子冠軍(宋義)を殺し、自ら上に立った。これが第二の罪だ。項羽は趙を救ったら戻って報告すべきだったのに、勝手に諸侯の兵を脅し従えて関中に入った。これが第三の罪だ。懐王は秦に入っても乱暴や略奪をするなと約束させたのに、項羽は秦の宮殿を焼き、始皇帝の墓を暴き、その財物を私物化した。これが第四の罪だ。また降伏した秦王子嬰を無理やり殺した。これが第五の罪だ。秦の若者二十万人をだまして新安で生き埋めにし、その将たちを王にした。これが第六の罪だ。項羽は自分の将たちを皆良い土地の王にし、もとの主君たちを移したり追い払ったりして、臣下たちを争って反逆させた。これが第七の罪だ。項羽は義帝を彭城から追い出して自らそこを都とし、韓王の土地を奪い、梁と楚を併せて王となり、自分に多くを与えた。これが第八の罪だ。項羽は人をやってひそかに義帝を江南で殺させた。これが第九の罪だ。そもそも人臣でありながら主君を殺し、すでに降った者を殺し、政治は不公平で、約束を取り仕切りながら信義を守らない。これは天下の許さぬところであり、大逆無道である。これが第十の罪だ。私は正義の兵を率い、諸侯とともに残虐な賊を討っている。刑罰を受けた罪人にでも項羽を撃ち殺させればよいのだ。どうして苦労してお前と一騎打ちなどしようか」。項羽は大いに怒り、伏せておいた弩で漢王を射当てた。漢王は胸を傷つけられたが、足をなでて「賊めが私の足の指に当てた」と言った。漢王が傷を病んで寝込んでいると、張良は強いて漢王に起き上がって軍中を回り兵をねぎらうよう求め、兵士たちを安心させて、楚が漢の弱みに乗じることのないようにした。漢王は出て軍中を回ったが、傷はひどく、そのまま馬を走らせて成皋に入った。傷が治ると、西へ向かって関中に入り、櫟陽に至って父老たちを見舞い、酒宴を開き、もとの塞王司馬欣の首を櫟陽の市場にさらした。四日とどまって再び軍に戻り、広武に陣を置いた。関中の兵はますます多く繰り出された。このとき、彭越は兵を率いて梁の地におり、あちこち行き来して楚の兵を苦しめ、その食糧補給を断っていた。田横も彭越のもとへ行って従った。項羽はたびたび彭越らを攻めたが、斉王韓信もまた進撃して楚を攻めた。項羽は恐れ、漢王と約束を結んで天下を二分し、鴻溝より西を漢、鴻溝より東を楚とした。
解説
関連する章句
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史記 高祖本紀或るひと沛公に説きて曰く、「秦の富は天下に十倍し、地形彊し。今聞く章邯項羽に降り、項羽乃ち号して雍王と為し、関中に王たらしむと。今則ち来らば、沛公恐らくは此を有つを得ざらん。急ぎ兵をして函谷関を守らしめ、諸侯の軍を内るる無く、稍々関中の兵を徴して以て自ら益し、之を距ぐべし。」と。沛公其の計を然りとし、之に従ふ。十一月中、項羽果たして諸侯の兵を率ゐて西し、関に入らんと欲す、関門閉づ。沛公已に関中を定むと聞き、大いに怒り、黥布等をして函谷関を攻め破らしむ。十二月中、遂に戯に至る。沛公の左司馬曹無傷項王の怒りて、沛公を攻めんと欲するを聞き、人をして項羽に言はしめて曰く、「沛公関中に王たらんと欲し、子嬰をして相たらしめ、珍宝尽く之を有す。」と。以て封を求めんと欲す。亜父項羽に沛公を撃たんことを勧む。方に士を饗し、旦日合戦せんとす。是の時項羽の兵四十万、百万と号す。沛公の兵十万、二十万と号す、力敵せず。会々項伯張良を活かさんと欲し、夜往きて良に見ゆ、因りて文を以て項羽を諭す、項羽乃ち止む。沛公百余騎を従へ、之を鴻門に駆り、見えて項羽に謝す。項羽曰く、「此れ沛公の左司馬曹無傷之を言ふ。然らずんば、籍何を以て此を生ぜん。」と。沛公樊噲・張良の故を以て、解けて帰るを得たり。帰りて、立ちどころに曹無傷を誅す。項羽遂に西し、咸陽の秦の宮室を屠焼し、過ぐる所残破せざる無し。秦人大いに望みを失ふ、然れども恐れ、敢へて服せずんばあらざるのみ。項羽人をして還りて懐王に報ぜしむ。懐王曰く、「約の如くせよ。」と。項羽懐王の肯へて沛公と倶に西して関に入らしめずして、北のかた趙を救はしめ、天下の約に後れしめしを怨む。乃ち曰く、「懐王は、吾が家項梁の立てし所のみ、功伐有るに非ず、何を以てか約を主るを得ん。本天下を定むるは、諸将及び籍なり。」と。乃ち詳(いつは)りて懐王を尊びて義帝と為し、実は其の命を用ゐず。正月、項羽自ら立ちて西楚の霸王と為り、梁・楚の地九郡に王たり、彭城に都す。
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史記 項羽本紀項王乃ち海春侯大司馬曹咎等に謂ひて曰く、「謹みて成皋を守れ、則ち漢挑戦せんと欲するも、慎みて与に戦ふ勿かれ、東するを得しむる毋きのみ。我十五日にして必ず彭越を誅し、梁の地を定め、復た将軍に従はん。」と。乃ち東し、行くゆく陳留・外黄を撃つ。外黄下らず。数日にして、已に降る、項王怒り、悉く男子の年十五已上をして城東に詣らしめ、之を阬にせんと欲す。外黄の令の舎人の児年十三、往きて項王に説きて曰く、「彭越彊ひて外黄を劫かす、外黄恐る、故に且く降りて、大王を待つ。大王至りて、又皆之を阬にせば、百姓豈に帰心有らんや。此より以東、梁の地十余城皆恐れ、肯へて下る莫からん。」と。項王其の言を然りとし、乃ち外黄の当に阬にすべき者を赦す。東して睢陽に至る、之を聞きて皆争ひて項王に下る。漢果たして数(しばしば)楚の軍に挑みて戦はんとす、楚の軍出でず。人をして之を辱めしむること、五六日、大司馬怒り、兵を汜水に渡す。士卒半ば渡る、漢之を撃ち、大いに楚の軍を破り、尽く楚国の貨賂を得たり。大司馬咎・長史翳・塞王欣皆汜水の上に自剄す。大司馬咎は、故の蘄の獄掾、長史欣も亦故の櫟陽の獄吏、両人嘗て項梁に徳有り、是を以て項王之を信任す。是の時に当たりて、項王睢陽に在り、海春侯の軍敗るると聞き、則ち兵を引きて還る。漢の軍方に鍾離眛を滎陽の東に囲む、項王至る、漢の軍楚を畏れ、尽く険阻に走る。是の時、漢の兵盛んにして食多く、項王の兵罷れて食絶ゆ。漢陸賈を遣はして項王に説き、太公を請はしむ、項王聴かず。漢王復た侯公をして往きて項王に説かしむ、項王乃ち漢と約し、天下を中分し、鴻溝以西を割く者を漢と為し、鴻溝よりして東なる者を楚と為す。項王之を許し、即ち漢王の父母妻子を帰す。軍皆万歳を呼ぶ。漢王乃ち侯公を封じて平国君と為す。匿れて肯へて復た見えず。
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史記 項羽本紀此の時に当たりて、彭越数(しばしば)梁の地に反し、楚の糧食を絶つ、項王之を患ふ。高俎を為り、太公を其の上に置き、漢王に告げて曰く、「今急ぎ下らずんば、吾太公を烹ん。」と。漢王曰く、「吾項羽と倶に北面して命を懐王に受け、曰く『約して兄弟と為る』と、吾が翁は即ち若(なんぢ)が翁なり、必ず而(なんぢ)が翁を烹んと欲せば、則ち幸ひに我に一桮の羹を分かて。」と。項王怒り、之を殺さんと欲す。項伯曰く、「天下の事未だ知るべからず、且つ天下を為むる者は家を顧みず、之を殺すと雖も益無く、秪(ただ)禍を益すのみ。」と。項王之に従ふ。楚漢久しく相持して未だ決せず、丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転漕に罷る。項王漢王に謂ひて曰く、「天下匈匈たること数歳なる者は、徒だ吾が両人を以てのみ、願はくは漢王と挑戦して雌雄を決せん、徒らに天下の民の父子を苦しむるを為す毋からん。」と。漢王笑ひて謝して曰く、「吾寧ろ智を鬬はすも、力を鬬はす能はず。」と。項王壮士をして出でて挑戦せしむ。漢に騎射を善くする者楼煩有り、楚挑戦すること三合、楼煩輒ち之を射殺す。項王大いに怒り、乃ち自ら甲を被り戟を持ちて挑戦す。楼煩之を射んと欲す、項王目を瞋らして之を叱す、楼煩目敢へて視ず、手敢へて発せず、遂に走りて還りて壁に入り、敢へて復た出でず。漢王人をして間かに之を問はしむ、乃ち項王なり。漢王大いに驚く。是に於て項王乃ち漢王に即きて相与に広武の間に臨みて語る。漢王之を数(せ)む、項王怒り、一戦せんと欲す。漢王聴かず、項王伏弩もて漢王を射中つ。漢王傷つき、走りて成皋に入る。項王淮陰侯已に河北を挙げ、斉・趙を破り、且に楚を撃たんと欲すと聞き、乃ち龍且をして往きて之を撃たしむ。淮陰侯与に戦ひ、騎将灌嬰之を撃ち、大いに楚の軍を破り、龍且を殺す。韓信因りて自ら立ちて斉王と為る。項王龍且の軍破るると聞き、則ち恐れ、盱台の人武渉をして往きて淮陰侯に説かしむ。淮陰侯聴かず。是の時、彭越復た反し、梁の地を下し、楚の糧を絶つ。
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史記 高祖本紀約に負き、更めて沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・漢中に王とし、南鄭に都せしむ。関中を三分し、秦の三将を立つ。章邯を雍王と為し、廃丘に都せしむ。司馬欣を塞王と為し、櫟陽に都せしむ。董翳を翟王と為し、高奴に都せしむ。楚の将瑕丘の申陽を河南王と為し、洛陽に都せしむ。趙の将司馬卬を殷王と為し、朝歌に都せしむ。趙王歇徙りて代に王たり。趙の相張耳を常山王と為し、襄国に都せしむ。当陽君黥布を九江王と為し、六に都せしむ。懐王の柱国共敖を臨江王と為し、江陵に都せしむ。番君呉芮を衡山王と為し、邾に都せしむ。燕の将臧荼を燕王と為し、薊に都せしむ。故の燕王韓広徙りて遼東に王たり。広聴かず、臧荼攻めて之を無終に殺す。成安君陳余を河間の三県に封じ、南皮に居らしむ。梅鋗を十万戸に封ず。四月、兵戯下に罷み、諸侯各々国に就く。漢王国に之く、項王卒三万人をして従はしむ、楚と諸侯の慕ひて従ふ者数万人、杜の南より蝕中に入る。去れば輒ち棧道を焼き絶ち、以て諸侯の盗兵の之を襲ふに備へ、亦項羽に東する意無きを示す。南鄭に至る、諸将及び士卒多く道に亡げ帰る、士卒皆歌ひて東帰を思ふ。韓信漢王に説きて曰く、「項羽諸将の功有る者を王とし、而して王独り南鄭に居る、是れ遷なり。軍吏士卒は皆山東の人なり、日夜跂ちて帰らんことを望む、其の鋒に及びて之を用ゐば、以て大功有るべし。天下已に定まらば、人皆自ら寧んじ、復た用ゐるべからず。策を決して東に郷ひ、天下に権を争ふに如かず。」と。項羽関を出で、人をして義帝を徙さしむ。曰く、「古の帝者は地方千里、必ず上游に居る。」と。乃ち使をして義帝を長沙の郴県に徙さしめ、義帝の行を趣す、群臣稍々之に倍叛す、乃ち陰かに衡山王・臨江王をして之を撃たしめ、義帝を江南に殺す。項羽田栄を怨み、斉の将田都を立てて斉王と為す。
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史記 項羽本紀沛公張良に謂ひて曰く、「此の道より吾が軍に至るは、二十里に過ぎざるのみ。我軍中に至るを度りて、公乃ち入れ。」と。沛公已に去り、間(ひそ)かに軍中に至る、張良入りて謝して、曰く、「沛公桮杓に勝へず、辞する能はず。謹みて臣良をして白璧一双を奉じ、再拝して大王の足下に献じ、玉斗一双もて、再拝して大将軍の足下に奉ぜしむ。」と。項王曰く、「沛公安くに在る。」と。良曰く、「大王之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去り、已に軍に至れり。」と。項王則ち璧を受け、之を坐上に置く。亜父玉斗を受け、之を地に置き、剣を抜きて撞きて之を破りて、曰く、「唉(ああ)、豎子与に謀るに足らず。項王の天下を奪ふ者は、必ず沛公ならん、吾が属今に之が虜と為らん。」と。沛公軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅殺す。居ること数日、項羽兵を引きて西のかた咸陽を屠り、秦の降王子嬰を殺し、秦の宮室を焼く、火三月滅せず。其の貨宝婦女を収めて東す。人或いは項王に説きて曰く、「関中は山河を阻てて四塞、地肥饒なり、都して以て霸たるべし。」と。項王秦の宮皆以に焼けて残破せるを見、又心に懐ひて東帰せんことを思欲し、曰く、「富貴にして故郷に帰らざるは、繡を衣て夜行くが如し、誰か之を知る者ぞ。」と。説く者曰く、「人言ふ楚人は沐猴にして冠するのみと、果たして然り。」と。項王之を聞き、説く者を烹る。項王人をして命を懐王に致さしむ。懐王曰く、「約の如くせよ。」と。乃ち懐王を尊びて義帝と為す。項王自ら王たらんと欲し、先づ諸将相を王とす。謂ひて曰く、「天下初めて難を発せし時、仮に諸侯の後を立てて以て秦を伐つ。然れども身堅を被り鋭を執りて事を首め、野に暴露すること三年、秦を滅ぼし天下を定むる者は、皆将相諸君と籍との力なり。義帝は功無しと雖も、故より当に其の地を分かちて之を王とすべし。」と。諸将皆曰く、「善し。」と。乃ち天下を分かち、諸将を立てて侯王と為す。
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史記 高祖本紀項王漢王の父母妻子を帰す、軍中皆万歳を呼ぶ、乃ち帰りて別れ去る。項羽解きて東帰す。漢王引きて西帰せんと欲す、留侯・陳平の計を用ゐ、乃ち兵を進めて項羽を追ひ、陽夏の南に至りて軍を止め、斉王信・建成侯彭越と期会して楚の軍を撃たんとす。固陵に至る、会せず。楚漢の軍を撃ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして之を守る。張良の計を用ゐ、是に於て韓信・彭越皆往く。劉賈楚の地に入り、寿春を囲むに及び、漢王碧陵に敗れ、乃ち使者をして大司馬周殷を召さしめ九江の兵を挙げて(之)武王を迎へ、行くゆく城父を屠り、(何)劉賈・斉梁の諸侯に随ひて皆大いに垓下に会す。武王布を立てて淮南王と為す。五年、高祖諸侯の兵と共に楚の軍を撃ち、項羽と勝ちを垓下に決す。淮陰侯三十万を将ゐて自ら之に当たり、孔将軍左に居り、費将軍右に居り、皇帝後に在り、絳侯・柴将軍皇帝の後に在り。項羽の卒十万可り。淮陰先づ合し、利あらず、卻く。孔将軍・費将軍縦(はな)つ、楚の兵利あらず、淮陰侯復た之に乗じ、大いに垓下に敗る。項羽の卒漢軍の楚歌するを聞き、以為へらく漢尽く楚の地を得たりと、項羽乃ち敗れて走る、是を以て兵大いに敗る。騎将灌嬰をして項羽を東城に追殺せしめ、斬首八万、遂に楚の地を略定す。魯楚の為に堅守して下らず。漢王諸侯の兵を引きて北し、魯の父老に項羽の頭を示す、魯乃ち降る。遂に魯公の号を以て項羽を穀城に葬る。還りて定陶に至り、馳せて斉王の壁に入り、其の軍を奪ふ。正月、諸侯及び将相相与に共に漢王を尊びて皇帝と為さんことを請ふ。漢王曰く、「吾聞く帝は賢者之を有つと、空言虚語は、守る所に非ざるなり、吾敢へて帝位に当たらず。」と。
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