史記 / 高祖本紀
漢王使酈生往說齊王田廣,廣叛楚,與漢和,共擊項羽。韓信用蒯通計,遂襲破齊。齊王烹酈生,東走高密。項羽聞韓信已舉河北兵破齊、趙,且欲擊楚,則使龍且、周蘭往擊之。韓信與戰,騎將灌嬰擊,大破楚軍,殺龍且。齊王廣奔彭越。當此時,彭越將兵居梁地,往來苦楚兵,絕其糧食。四年,項羽乃謂海春侯大司馬曹咎曰:「謹守成皋。若漢挑戰,慎勿與戰,無令得東而已。我十五日必定梁地,復從將軍。」乃行擊陳留、外黃、睢陽,下之。漢果數挑楚軍,楚軍不出,使人辱之五六日,大司馬怒,度兵汜水。士卒半渡,漢擊之,大破楚軍,盡得楚國金玉貨賂。大司馬咎、長史欣皆自剄汜水上。項羽至睢陽,聞海春侯破,乃引兵還。漢軍方圍鐘離眛於滎陽東,項羽至,盡走險阻。韓信已破齊,使人言曰:「齊邊楚,權輕,不為假王,恐不能安齊。」漢王欲攻之。留侯曰:「不如因而立之,使自為守。」乃遣張良操印綬立韓信為齊王。項羽聞龍且軍破,則恐,使盱臺人武涉往說韓信。韓信不聽。楚漢久相持未決,丁壯苦軍旅,老弱罷轉饟。漢王項羽相與臨廣武之閒而語。項羽欲與漢王獨身挑戰。
新字:漢王使酈生往説斉王田広,広叛楚,与漢和,共撃項羽。韓信用蒯通計,遂襲破斉。斉王烹酈生,東走高密。項羽聞韓信已舉河北兵破斉、趙,且欲撃楚,則使竜且、周蘭往撃之。韓信与戦,騎将灌嬰撃,大破楚軍,殺竜且。斉王広奔彭越。当此時,彭越将兵居梁地,往来苦楚兵,絶其糧食。四年,項羽乃謂海春侯大司馬曹咎曰:「謹守成皋。若漢挑戦,慎勿与戦,無令得東而已。我十五日必定梁地,復従将軍。」乃行撃陳留、外黄、睢陽,下之。漢果数挑楚軍,楚軍不出,使人辱之五六日,大司馬怒,度兵汜水。士卒半渡,漢撃之,大破楚軍,尽得楚国金玉貨賂。大司馬咎、長史欣皆自剄汜水上。項羽至睢陽,聞海春侯破,乃引兵還。漢軍方囲鐘離眛於滎陽東,項羽至,尽走険阻。韓信已破斉,使人言曰:「斉辺楚,権軽,不為仮王,恐不能安斉。」漢王欲攻之。留侯曰:「不如因而立之,使自為守。」乃遣張良操印綬立韓信為斉王。項羽聞竜且軍破,則恐,使盱台人武渉往説韓信。韓信不聴。楚漢久相持未決,丁壮苦軍旅,老弱罷転饟。漢王項羽相与臨広武之閒而語。項羽欲与漢王独身挑戦。
書き下し
漢王酈生をして往きて斉王田広に説かしむ、広楚に叛き、漢と和し、共に項羽を撃たんとす。韓信蒯通の計を用ゐ、遂に襲ひて斉を破る。斉王酈生を烹、東のかた高密に走る。項羽韓信已に河北の兵を挙げて斉・趙を破り、且に楚を撃たんと欲すと聞き、則ち龍且・周蘭をして往きて之を撃たしむ。韓信与に戦ふ、騎将灌嬰撃ちて、大いに楚の軍を破り、龍且を殺す。斉王広彭越に奔る。此の時に当たりて、彭越兵を将ゐて梁の地に居り、往来して楚の兵を苦しめ、其の糧食を絶つ。四年、項羽乃ち海春侯大司馬曹咎に謂ひて曰く、「謹みて成皋を守れ。若し漢挑戦すとも、慎みて与に戦ふ勿かれ、東するを得しむる無きのみ。我十五日にして必ず梁の地を定め、復た将軍に従はん。」と。乃ち行きて陳留・外黄・睢陽を撃ち、之を下す。漢果たして数(しばしば)楚の軍に挑む、楚の軍出でず、人をして之を辱めしむること五六日、大司馬怒り、兵を汜水に度す。士卒半ば渡る、漢之を撃ち、大いに楚の軍を破り、尽く楚国の金玉貨賂を得たり。大司馬咎・長史欣皆汜水の上に自剄す。項羽睢陽に至り、海春侯の破るるを聞き、乃ち兵を引きて還る。漢の軍方に鍾離眛を滎陽の東に囲む、項羽至る、尽く険阻に走る。韓信已に斉を破り、人をして言はしめて曰く、「斉は楚に辺し、権軽し、仮王と為らずんば、恐らくは斉を安んずる能はざらん。」と。漢王之を攻めんと欲す。留侯曰く、「因りて之を立て、自ら守りを為さしむるに如かず。」と。乃ち張良を遣はして印綬を操りて韓信を立てて斉王と為す。項羽龍且の軍の破るるを聞き、則ち恐れ、盱台の人武渉をして往きて韓信に説かしむ。韓信聴かず。楚漢久しく相持して未だ決せず、丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転饟に罷る。漢王・項羽相与に広武の間に臨みて語る。項羽漢王と独身にて挑戦せんと欲す。
現代語訳
漢王は酈生(酈食其)を斉王田広のもとへやって説得させ、田広は楚に背いて漢と和睦し、ともに項羽を撃つことにした。ところが韓信は蒯通の計略を用いて、そのまま斉を襲って破った。斉王は酈生を釜ゆでにして、東の高密へ逃げた。項羽は、韓信がすでに黄河の北の兵を挙げて斉と趙を破り、さらに楚を攻めようとしていると聞くと、龍且と周蘭を送ってこれを攻めさせた。韓信はこれと戦い、騎兵の将灌嬰が攻撃して楚の軍を大いに破り、龍且を殺した。斉王田広は彭越のもとへ逃げた。このとき彭越は兵を率いて梁の地におり、あちこち行き来して楚の兵を苦しめ、その食糧補給を断っていた。四年(前203年)、項羽は海春侯・大司馬の曹咎に言った。「成皋を慎重に守れ。もし漢が挑戦してきても、決して戦ってはならない。ただ漢を東へ進ませなければそれでよい。私は十五日で必ず梁の地を平定し、再び将軍と合流する」。そして陳留・外黄・睢陽を攻めに行き、これらを降した。漢は案の定、何度も楚軍に戦いを挑んだが、楚軍は出てこなかった。人をやって楚軍を辱めさせること五、六日に及ぶと、大司馬は怒り、兵を汜水の向こうへ渡らせた。兵士が半分渡ったところで漢が攻撃し、楚の軍を大いに破って、楚国の黄金・玉・財宝をすべて手に入れた。大司馬曹咎と長史司馬欣は皆汜水のほとりで自ら首をはねて死んだ。項羽は睢陽まで来たところで海春侯の敗北を聞き、兵を率いて引き返した。漢の軍はちょうど鍾離眛を滎陽の東で包囲していたが、項羽が到着すると、皆険しい地形の所へ逃げ込んだ。韓信は斉を破ると、人をよこして言った。「斉は楚と境を接しており、私の権限が軽いままでは治まらない。仮の王とならなければ、斉を安定させることはできないだろう」。漢王は韓信を攻めようとした。留侯(張良)が言った。「このまま韓信を王に立て、自ら斉を守らせるに越したことはない」。そこで張良を派遣し、印綬を持たせて韓信を斉王に立てた。項羽は龍且の軍が破れたと聞くと恐れ、盱台の人武渉を送って韓信を説得させたが、韓信は聞き入れなかった。楚と漢は長くにらみ合ったまま決着がつかず、壮年の男たちは従軍に苦しみ、老人や子どもは食糧の輸送に疲れ果てていた。漢王と項羽は広武の谷を挟んで向かい合い、言葉を交わした。項羽は漢王と一騎打ちで決着をつけようとした。
解説
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史記 淮陰侯列伝願はくは仮王と為らば便なり」と。是の時に当たり、楚方に急に漢王を滎陽に囲む。韓信の使者至り、書を発く。漢王大いに怒り、罵りて曰く、「吾此に困しみ、旦暮に若の来りて我を佐くるを望む。乃ち自ら立ちて王と為らんと欲す」と。張良・陳平漢王の足を躡み、因りて耳に附けて語りて曰く、「漢方に不利なり。寧ぞ能く信の王たるを禁ぜんや。如かず因りて立て、善く之を遇し、自ら守りを為さしめんには。然らずんば、変生ぜん」と。漢王も亦悟り、因りて復た罵りて曰く、「大丈夫諸侯を定むれば、即ち真王と為るのみ。何ぞ仮を以て為さん」と。乃ち張良を遣はして往きて信を立てて斉王と為し、其の兵を徴して楚を撃たしむ。楚已に龍且を亡ひ、項王恐れ、盱眙の人武渉をして往きて斉王信に説かしめて曰く、「天下共に秦に苦しむこと久し。相与に力を勠せて秦を撃つ。秦已に破れ、功を計りて地を割き、土を分かちて之に王とし、以て士卒を休む。今漢王復た兵を興して東し、人の分を侵し、人の地を奪ふ。已に三秦を破り、兵を引きて関を出で、諸侯の兵を収めて以て東のかた楚を撃つ。其の意は尽く天下を呑むに非ずんば休まず。其の厭足を知らざること是くの如く甚だし。且つ漢王は必とすべからず。身項王の掌握の中に居ること数しばなり。項王憐れみて之を活かす。然るに脱するを得れば、輒ち約に倍き、復た項王を撃つ。其の親信すべからざること此くの如し。今足下自ら以て漢王と厚交を為すと為し、之が為に力を尽くして兵を用ゐると雖も、終に之が禽とする所と為らん。足下の須臾を得て今に至る所以の者は、項王尚存するを以てなり。当今二王の事、権は足下に在り。足下右に投ずれば則ち漢王勝ち、左に投ずれば則ち項王勝つ。項王今日亡びば、則ち次に足下を取らん。足下は項王と故有り。何ぞ漢に反きて楚と連和し、天下を参分して之に王たらざる。今此の時を釈てて、自ら漢に必して以て楚を撃つ。且つ智者たる為すは固より此くの若きか」と。
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史記 田儋列伝斉初め華無傷・田解をして歴下に軍して以て漢を距がしむ。漢の使至るや、乃ち守戦の備へを罷め、酒を縦にし、且つ使を遣はして漢と平らがんとす。漢の将韓信已に趙・燕を平らげ、蒯通の計を用ひて、平原を度り、斉の歴下の軍を襲ひ破り、因りて臨淄に入る。斉王広・相横怒り、酈生己を売るを以て、酈生を亨る。斉王広東のかた高密に走り、相横博陽に走り、守相田光城陽に走り、将軍田既膠東に軍す。楚龍且をして斉を救はしめ、斉王与に軍を高密に合す。漢の将韓信曹参と龍且を破殺し、斉王広を虜にす。漢の将灌嬰追ひて斉の守相田光を得たり。博陽に至るに、横斉王の死せるを聞き、自立して斉王と為り、還りて嬰を撃つ。嬰横の軍を嬴下に敗る。田横亡げて梁に走り、彭越に帰す。彭越是の時梁の地に居り、中立して、且は漢の為にし、且は楚の為にす。韓信已に龍且を殺し、因りて曹参をして兵を進めて田既を膠東に破殺せしめ、灌嬰をして斉の将田吸を千乗に破殺せしむ。韓信遂に斉を平らげ、自立して斉の仮王と為らんことを乞ふ。漢因りて之を立つ。後歳余、
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史記 淮陰侯列伝且つ酈生は一士なり。軾に伏して三寸の舌を掉ひ、斉の七十余城を下す。将軍は数万の衆を将ゐ、歳余にして乃ち趙の五十余を下す。将と為ること数歳にして、反りて一豎儒の功に如かざるか」と。是に於て信之を然りとし、其の計に従ひ、遂に河を渡る。斉已に酈生に聴き、即ち留めて縦酒し、漢に備ふる守御を罷む。信因りて斉の歴下の軍を襲ひ、遂に臨菑に至る。斉王田広酈生を以て己を売れりとし、乃ち之を亨し、而して高密に走り、使をして楚に之きて救ひを請はしむ。韓信已に臨菑を定め、遂に東のかた広を追ひて高密の西に至る。楚も亦龍且をして将たらしめ、二十万と号して、斉を救はしむ。斉王広・龍且軍を并せて信と戦ふも、未だ合せず。人或ひと龍且に説きて曰く、「漢兵は遠く闘ひ窮まりて戦ふ。其の鋒当たるべからず。斉・楚は自ら其の地に居りて戦ふ。兵敗散し易し。如かず壁を深くし、斉王をして其の信臣をして亡ぐる所の城を招かしめんには。亡城其の王の在り、楚の来りて救ふを聞かば、必ず漢に反かん。漢兵は二千里の客居なり。斉の城皆之に反かば、其の勢ひ食を得る所無く、戦ふこと無くして降すべきなり」と。龍且曰く、「吾平生韓信の人と為りを知る。与し易きのみ。且つ夫れ斉を救ひて戦はずして之を降さば、吾何の功かあらん。今戦ひて之に勝たば、斉の半ば得べし。何為れぞ止めん」と。遂に戦ひ、信と濰水を夾みて陳す。韓信乃ち夜人をして万余の囊を為らしめ、満たすに沙を盛り、水の上流を壅ぎ、軍を引きて半ば渡り、龍且を撃ち、詳りて勝たずして、還り走る。龍且果たして喜びて曰く、「固より信の怯なるを知れり」と。遂に信を追ひて水を渡る。信人をして壅囊を決せしむ。水大いに至る。龍且の軍大半渡るを得ず。即ち急に撃ちて、龍且を殺す。龍且の水東の軍散走し、斉王広亡げ去る。信遂に北ぐるを追ひて城陽に至り、皆楚の卒を虜にす。漢の四年、遂に皆降りて斉を平らぐ。人をして漢王に言はしめて曰く、「斉は偽詐多変、反覆の国なり。南は楚に辺す。仮王と為りて以て之を鎮めずんば、其の勢ひ定まらず。
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史記 項羽本紀大王兵を起こし、且つ不義を聴かずと聞く、願はくは大王余に兵を資し、請ふ以て常山を撃ち、以て趙王を復せん、請ふ国を以て捍蔽と為さん。」と。斉王之を許し、因りて兵を遣はして趙に之かしむ。陳余悉く三県の兵を発し、斉と力を并せて常山を撃ち、大いに之を破る。張耳走りて漢に帰す。陳余故の趙王歇を代に迎へ、之を趙に反す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。是の時、漢還りて三秦を定む。項羽漢王皆已に関中を并せ、且に東せんとし、斉・趙之に叛くを聞き、大いに怒る。乃ち故の呉の令鄭昌を以て韓王と為し、以て漢を距がしむ。蕭公角等をして彭越を撃たしむ。彭越蕭公角等を敗る。漢張良をして韓を徇へしめ、乃ち項王に書を遺りて曰く、「漢王職を失ふ、関中を得んと欲す、約の如くならば即ち止まり、敢へて東せず。」と。又斉・梁の反書を以て項王に遺りて曰く、「斉趙と并せて楚を滅ぼさんと欲す。」と。楚此の故を以て西する意無く、而して北のかた斉を撃つ。兵を九江王布に徴す。布疾と称して往かず、将をして数千人を将ゐて行かしむ。項王此に由りて布を怨むなり。漢の二年冬、項羽遂に北して城陽に至る、田栄も亦兵を将ゐて会戦す。田栄勝たず、走りて平原に至る、平原の民之を殺す。遂に北して斉の城郭室屋を焼夷し、皆田栄の降卒を阬にし、其の老弱婦女を系虜す。斉を徇へて北海に至り、残滅する所多し。斉人相聚まりて之に叛く。是に於て田栄の弟田横斉の亡卒を収めて数万人を得、城陽に反す。項王因りて留まり、連戦して未だ下す能はず。春、漢王五諸侯の兵を部し、凡そ五十六万人、東のかた楚を伐つ。項王之を聞き、即ち諸将をして斉を撃たしめ、而して自ら精兵三万人を以て南のかた魯より胡陵に出づ。四月、漢皆已に彭城に入り、其の貨宝美人を収め、日に置酒高会す。項王乃ち西のかた蕭より、晨に漢の軍を撃ちて東し、彭城に至り、日中、大いに漢の軍を破る。
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史記 高祖本紀田栄怒り、因りて自ら立ちて斉王と為り、田都を殺して楚に反す。彭越に将軍の印を予へ、梁の地に反せしむ。楚蕭公角をして彭越を撃たしむ、彭越大いに之を破る。陳余項羽の己を王とせざるを怨み、夏説をして田栄に説かしめ、兵を請ひて張耳を撃たんとす。斉陳余に兵を予へ、常山王張耳を撃破す、張耳亡げて漢に帰す。趙王歇を代に迎へ、復た立てて趙王と為す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。項羽大いに怒り、北のかた斉を撃つ。八月、漢王韓信の計を用ゐ、故道より還り、雍王章邯を襲ふ。邯漢を陳倉に迎撃す、雍の兵敗れ、還り走る。止まりて好畤に戦ふ、又復た敗れ、廃丘に走る。漢王遂に雍の地を定む。東して咸陽に至り、兵を引きて雍王を廃丘に囲み、而して諸将を遣はして隴西・北地・上郡を略定せしむ。将軍薛欧・王吸をして武関を出でしめ、王陵の兵の南陽に在るに因り、以て太公・呂后を沛に迎へしむ。楚之を聞き、兵を発して之を陽夏に距ぐ、前むを得ず。故の呉の令鄭昌をして韓王と為し、漢の兵を距がしむ。二年、漢王東のかた地を略す、塞王欣・翟王翳・河南王申陽皆降る。韓王昌聴かず、韓信をして撃ちて之を破らしむ。是に於て隴西・北地・上郡・渭南・河上・中地の郡を置く。関外に河南郡を置く。更めて韓の太尉信を立てて韓王と為す。諸将の万人若しくは一郡を以て降る者は、万戸に封ず。河上の塞を繕治す。諸々の故の秦の苑囿園池は、皆人をして之を田(たがや)すを得しむ。正月、雍王の弟章平を虜にす。大いに罪人を赦す。漢王の関を出でて陝に至るや、関外の父老を撫し、還るに、張耳来り見ゆ、漢王厚く之を遇す。二月、秦の社稷を除き、更めて漢の社稷を立てしむ。三月、漢王臨晋より渡る、魏王豹兵を将ゐて従ふ。河内を下し、殷王を虜にし、河内郡を置く。南のかた平陰津を渡り、雒陽に至る。
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