史記 / 高祖本紀
負約,更立沛公為漢王,王巴、蜀、漢中,都南鄭。三分關中,立秦三將:章邯為雍王,都廢丘;司馬欣為塞王,都櫟陽;董翳為翟王,都高奴。楚將瑕丘申陽為河南王,都洛陽。趙將司馬卬為殷王,都朝歌。趙王歇徙王代。趙相張耳為常山王,都襄國。當陽君黥布為九江王,都六。懷王柱國共敖為臨江王,都江陵。番君吳芮為衡山王,都邾。燕將臧荼為燕王,都薊。故燕王韓廣徙王遼東。廣不聽,臧荼攻殺之無終。封成安君陳餘河閒三縣,居南皮。封梅鋗十萬戶。四月,兵罷戲下,諸侯各就國。漢王之國,項王使卒三萬人從,楚與諸侯之慕從者數萬人,從杜南入蝕中。去輒燒絕棧道,以備諸侯盜兵襲之,亦示項羽無東意。至南鄭,諸將及士卒多道亡歸,士卒皆歌思東歸。韓信說漢王曰:「項羽王諸將之有功者,而王獨居南鄭,是遷也。軍吏士卒皆山東之人也,日夜跂而望歸,及其鋒而用之,可以有大功。天下已定,人皆自寧,不可復用。不如決策東鄉,爭權天下。」項羽出關,使人徙義帝。曰:「古之帝者地方千里,必居上游。」乃使使徙義帝長沙郴縣,趣義帝行,群臣稍倍叛之,乃陰令衡山王、臨江王擊之,殺義帝江南。項羽怨田榮,立齊將田都為齊王。
新字:負約,更立沛公為漢王,王巴、蜀、漢中,都南鄭。三分関中,立秦三将:章邯為雍王,都廃丘;司馬欣為塞王,都櫟陽;董翳為翟王,都高奴。楚将瑕丘申陽為河南王,都洛陽。趙将司馬卬為殷王,都朝歌。趙王歇徙王代。趙相張耳為常山王,都襄国。当陽君黥布為九江王,都六。懐王柱国共敖為臨江王,都江陵。番君呉芮為衡山王,都邾。燕将臧荼為燕王,都薊。故燕王韓広徙王遼東。広不聴,臧荼攻殺之無終。封成安君陳余河閒三県,居南皮。封梅鋗十万戸。四月,兵罷戯下,諸侯各就国。漢王之国,項王使卒三万人従,楚与諸侯之慕従者数万人,従杜南入蝕中。去輒焼絶棧道,以備諸侯盗兵襲之,亦示項羽無東意。至南鄭,諸将及士卒多道亡帰,士卒皆歌思東帰。韓信説漢王曰:「項羽王諸将之有功者,而王独居南鄭,是遷也。軍吏士卒皆山東之人也,日夜跂而望帰,及其鋒而用之,可以有大功。天下已定,人皆自寧,不可復用。不如決策東郷,争権天下。」項羽出関,使人徙義帝。曰:「古之帝者地方千里,必居上游。」乃使使徙義帝長沙郴県,趣義帝行,群臣稍倍叛之,乃陰令衡山王、臨江王撃之,殺義帝江南。項羽怨田栄,立斉将田都為斉王。
書き下し
約に負き、更めて沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・漢中に王とし、南鄭に都せしむ。関中を三分し、秦の三将を立つ。章邯を雍王と為し、廃丘に都せしむ。司馬欣を塞王と為し、櫟陽に都せしむ。董翳を翟王と為し、高奴に都せしむ。楚の将瑕丘の申陽を河南王と為し、洛陽に都せしむ。趙の将司馬卬を殷王と為し、朝歌に都せしむ。趙王歇徙りて代に王たり。趙の相張耳を常山王と為し、襄国に都せしむ。当陽君黥布を九江王と為し、六に都せしむ。懐王の柱国共敖を臨江王と為し、江陵に都せしむ。番君呉芮を衡山王と為し、邾に都せしむ。燕の将臧荼を燕王と為し、薊に都せしむ。故の燕王韓広徙りて遼東に王たり。広聴かず、臧荼攻めて之を無終に殺す。成安君陳余を河間の三県に封じ、南皮に居らしむ。梅鋗を十万戸に封ず。四月、兵戯下に罷み、諸侯各々国に就く。漢王国に之く、項王卒三万人をして従はしむ、楚と諸侯の慕ひて従ふ者数万人、杜の南より蝕中に入る。去れば輒ち棧道を焼き絶ち、以て諸侯の盗兵の之を襲ふに備へ、亦項羽に東する意無きを示す。南鄭に至る、諸将及び士卒多く道に亡げ帰る、士卒皆歌ひて東帰を思ふ。韓信漢王に説きて曰く、「項羽諸将の功有る者を王とし、而して王独り南鄭に居る、是れ遷なり。軍吏士卒は皆山東の人なり、日夜跂ちて帰らんことを望む、其の鋒に及びて之を用ゐば、以て大功有るべし。天下已に定まらば、人皆自ら寧んじ、復た用ゐるべからず。策を決して東に郷ひ、天下に権を争ふに如かず。」と。項羽関を出で、人をして義帝を徙さしむ。曰く、「古の帝者は地方千里、必ず上游に居る。」と。乃ち使をして義帝を長沙の郴県に徙さしめ、義帝の行を趣す、群臣稍々之に倍叛す、乃ち陰かに衡山王・臨江王をして之を撃たしめ、義帝を江南に殺す。項羽田栄を怨み、斉の将田都を立てて斉王と為す。
現代語訳
(項羽は)約束に背き、あらためて沛公を漢王に立てて、巴・蜀・漢中の王とし、南鄭を都とさせた。関中を三分して秦の三人の将を王に立てた。章邯を雍王として廃丘を都とさせ、司馬欣を塞王として櫟陽を都とさせ、董翳を翟王として高奴を都とさせた。楚の将で瑕丘の人の申陽を河南王として洛陽を都とさせた。趙の将の司馬卬を殷王として朝歌を都とさせた。趙王歇は移されて代の王となった。趙の宰相の張耳を常山王として襄国を都とさせた。当陽君黥布を九江王として六を都とさせた。懐王の柱国の共敖を臨江王として江陵を都とさせた。番君呉芮を衡山王として邾を都とさせた。燕の将の臧荼を燕王として薊を都とさせた。もとの燕王の韓広は移されて遼東の王となった。韓広は従わなかったので、臧荼が攻めて無終で殺した。成安君陳余を河間の三県に封じ、南皮に住まわせた。梅鋗を十万戸に封じた。四月、戯水のほとりの本営で兵を解き、諸侯はそれぞれの国に赴いた。漢王が国に向かうとき、項王は兵三万人を従わせた。楚や諸侯の兵で漢王を慕って付いて行った者は数万人に上り、杜の南から蝕中の谷に入った。通り過ぎるとすぐに桟道(崖に架けた木の通路)を焼き落とし、諸侯の兵が背後から襲うのに備えるとともに、項羽に東へ戻る気がないことを示した。南鄭に着くと、将や兵士の多くが途中で逃げ帰り、兵士たちは皆歌を歌っては東の故郷に帰りたいと思っていた。韓信が漢王に説いた。「項羽は将たちのうち功績ある者を王にしたが、王(あなた)だけは南鄭に置かれた。これは流刑と同じだ。軍の役人も兵士も皆山東(函谷関より東)の人で、日夜つま先立ちして故郷に帰る日を待ち望んでいる。その鋭い気持ちが続くうちに彼らを用いれば、大きな功績を挙げられるだろう。天下が定まってしまえば、人々は皆落ち着いてしまい、二度と用いることはできない。策を決めて東に向かい、天下の覇権を争うに越したことはない」。項羽は函谷関を出ると、人をやって義帝を移らせようとして言った。「昔の帝は領地が千里四方あり、必ず川の上流に住んだものだ」。そこで使者を送って義帝を長沙の郴県に移らせ、出発を急がせた。臣下たちはしだいに義帝から離れていった。項羽はひそかに衡山王と臨江王に義帝を攻撃させ、長江の南で義帝を殺した。項羽は田栄を恨んでいたので、斉の将の田都を斉王に立てた。
解説
関連する章句
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史記 項羽本紀項王・范増沛公の天下を有せんことを疑ふ、業已に講解し、又約に負くを悪み、諸侯の之に叛かんことを恐る、乃ち陰かに謀りて曰く、「巴・蜀は道険しく、秦の遷人皆蜀に居る。」と。乃ち曰く、「巴・蜀も亦関中の地なり。」と。故に沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・漢中に王とし、南鄭に都せしむ。而して関中を三分し、秦の降将を王として以て漢王を距塞す。項王乃ち章邯を立てて雍王と為し、咸陽以西に王とし、廃邱に都せしむ。長史欣は、故櫟陽の獄掾為り、嘗て項梁に徳有り。都尉董翳は、本章邯に楚に降るを勧む。故に司馬欣を立てて塞王と為し、咸陽以東河に至るまでに王とし、櫟陽に都せしむ。董翳を立てて翟王と為し、上郡に王とし、高奴に都せしむ。魏王豹を徙して西魏王と為し、河東に王とし、平陽に都せしむ。瑕丘の申陽は、張耳の嬖臣なり、先づ河南(郡)を下し、楚を河上に迎ふ、故に申陽を立てて河南王と為し、雒陽に都せしむ。韓王成は故都に因り、陽翟に都す。趙の将司馬卬河内を定め、数(しばしば)功有り、故に卬を立てて殷王と為し、河内に王とし、朝歌に都せしむ。趙王歇を徙して代王と為す。趙の相張耳素より賢にして、又従ひて関に入る、故に耳を立てて常山王と為し、趙の地に王とし、襄国に都せしむ。当陽君黥布楚の将為りて、常に軍に冠たり、故に布を立てて九江王と為し、六に都せしむ。鄱君呉芮百越を率ゐて諸侯を佐け、又従ひて関に入る、故に芮を立てて衡山王と為し、邾に都せしむ。義帝の柱国共敖兵を将ゐて南郡を撃ち、功多し、因りて敖を立てて臨江王と為し、江陵に都せしむ。燕王韓広を徙して遼東王と為す。燕の将臧荼楚に従ひて趙を救ひ、因りて従ひて関に入る、故に荼を立てて燕王と為し、薊に都せしむ。斉王田市を徙して膠東王と為す。斉の将田都従ひて共に趙を救ひ、因りて従ひて関に入る、故に都を立てて斉王と為し、臨菑に都せしむ。
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史記 項羽本紀故の秦の滅ぼす所の斉王建の孫田安、項羽方に河を渡りて趙を救ふとき、田安済北の数城を下し、其の兵を引きて項羽に降る、故に安を立てて済北王と為し、博陽に都せしむ。田栄は、数(しばしば)項梁に負き、又肯へて兵を将ゐて楚に従ひて秦を撃たず、故を以て封ぜず。成安君陳余将印を棄てて去り、従ひて関に入らず、然れども素より其の賢を聞き、趙に功有り、其の南皮に在るを聞き、故に因りて環りの三県に封ず。番君の将梅鋗功多し、故に十万戸侯に封ず。項王自ら立ちて西楚の霸王と為り、九郡に王とし、彭城に都す。漢の元年四月、諸侯戯下より罷め、各々国に就く。項王出でて国に之き、人をして義帝を徙さしめて、曰く、「古の帝者は地方千里、必ず上游に居る。」と。乃ち使をして義帝を長沙の郴県に徙さしむ。義帝の行を趣(うなが)す、其の群臣稍稍之に背叛す、乃ち陰かに衡山・臨江王をして之を江中に撃殺せしむ。韓王成軍功無し、項王之をして国に之かしめず、与に倶に彭城に至り、廃して以て侯と為し、已にして又之を殺す。臧荼国に之き、因りて韓広を逐ひて遼東に之かしめんとす、広聴かず、荼広を無終に撃殺し、並せて其の地に王たり。田栄項羽の斉王市を膠東に徙し、而して斉の将田都を立てて斉王と為すを聞き、乃ち大いに怒り、斉王を遣はして膠東に之かしむるを肯ぜず、因りて斉を以て反し、田都を迎撃す。田都楚に走る。斉王市項王を畏れ、乃ち亡げて膠東に之きて国に就く。田栄怒り、追撃して之を即墨に殺す。栄因りて自ら立ちて斉王と為り、而して西のかた済北王田安を殺撃し、并せて三斉に王たり。栄彭越に将軍の印を与へ、梁の地に反せしむ。陳余陰かに張同・夏説をして斉王田栄に説かしめて曰く、「項羽天下の宰と為りて、平らかならず。今尽く故王を醜地に王とし、而して其の群臣諸将を善地に王とし、其の故主趙王を逐ひて、乃ち北のかた代に居らしむ、余以為へらく不可なりと。
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史記 高祖本紀群臣皆曰く、「大王微細より起こり、暴逆を誅し、四海を平定し、功有る者は輒ち地を裂きて封じて王侯と為す。大王号を尊ばずんば、皆疑ひて信ぜず。臣等死を以て之を守らん。」と。漢王三たび譲る、已むを得ずして、曰く、「諸君必ず以て便と為さば、国家に便ならん。」と。甲午、乃ち皇帝の位に汜水の陽に即く。皇帝曰く義帝後無しと。斉王韓信楚の風俗に習ふ、徙して楚王と為し、下邳に都せしむ。建成侯彭越を立てて梁王と為し、定陶に都せしむ。故の韓王信を韓王と為し、陽翟に都せしむ。衡山王呉芮を徙して長沙王と為し、臨湘に都せしむ。番君の将梅鋗功有り、従ひて武関に入る、故に番君を徳とす。淮南王布・燕王臧荼・趙王敖皆故の如し。天下大いに定まる。高祖雒陽に都す、諸侯皆臣属す。故の臨江王驩項羽の為に漢に叛く、盧綰・劉賈をして之を囲ましむ、下らず。数月にして降る、之を雒陽に殺す。五月、兵皆罷めて家に帰る。諸侯の子の関中に在る者は之を復すること十二歳、其の帰る者は之を復すること六歳、之に食ましむること一歳。高祖雒陽の南宮に置酒す。高祖曰く、「列侯諸将敢へて朕に隠す無く、皆其の情を言へ。吾の天下を有する所以の者は何ぞ。項氏の天下を失ふ所以の者は何ぞ。」と。
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史記 高祖本紀田栄怒り、因りて自ら立ちて斉王と為り、田都を殺して楚に反す。彭越に将軍の印を予へ、梁の地に反せしむ。楚蕭公角をして彭越を撃たしむ、彭越大いに之を破る。陳余項羽の己を王とせざるを怨み、夏説をして田栄に説かしめ、兵を請ひて張耳を撃たんとす。斉陳余に兵を予へ、常山王張耳を撃破す、張耳亡げて漢に帰す。趙王歇を代に迎へ、復た立てて趙王と為す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。項羽大いに怒り、北のかた斉を撃つ。八月、漢王韓信の計を用ゐ、故道より還り、雍王章邯を襲ふ。邯漢を陳倉に迎撃す、雍の兵敗れ、還り走る。止まりて好畤に戦ふ、又復た敗れ、廃丘に走る。漢王遂に雍の地を定む。東して咸陽に至り、兵を引きて雍王を廃丘に囲み、而して諸将を遣はして隴西・北地・上郡を略定せしむ。将軍薛欧・王吸をして武関を出でしめ、王陵の兵の南陽に在るに因り、以て太公・呂后を沛に迎へしむ。楚之を聞き、兵を発して之を陽夏に距ぐ、前むを得ず。故の呉の令鄭昌をして韓王と為し、漢の兵を距がしむ。二年、漢王東のかた地を略す、塞王欣・翟王翳・河南王申陽皆降る。韓王昌聴かず、韓信をして撃ちて之を破らしむ。是に於て隴西・北地・上郡・渭南・河上・中地の郡を置く。関外に河南郡を置く。更めて韓の太尉信を立てて韓王と為す。諸将の万人若しくは一郡を以て降る者は、万戸に封ず。河上の塞を繕治す。諸々の故の秦の苑囿園池は、皆人をして之を田(たがや)すを得しむ。正月、雍王の弟章平を虜にす。大いに罪人を赦す。漢王の関を出でて陝に至るや、関外の父老を撫し、還るに、張耳来り見ゆ、漢王厚く之を遇す。二月、秦の社稷を除き、更めて漢の社稷を立てしむ。三月、漢王臨晋より渡る、魏王豹兵を将ゐて従ふ。河内を下し、殷王を虜にし、河内郡を置く。南のかた平陰津を渡り、雒陽に至る。
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史記 項羽本紀沛公張良に謂ひて曰く、「此の道より吾が軍に至るは、二十里に過ぎざるのみ。我軍中に至るを度りて、公乃ち入れ。」と。沛公已に去り、間(ひそ)かに軍中に至る、張良入りて謝して、曰く、「沛公桮杓に勝へず、辞する能はず。謹みて臣良をして白璧一双を奉じ、再拝して大王の足下に献じ、玉斗一双もて、再拝して大将軍の足下に奉ぜしむ。」と。項王曰く、「沛公安くに在る。」と。良曰く、「大王之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去り、已に軍に至れり。」と。項王則ち璧を受け、之を坐上に置く。亜父玉斗を受け、之を地に置き、剣を抜きて撞きて之を破りて、曰く、「唉(ああ)、豎子与に謀るに足らず。項王の天下を奪ふ者は、必ず沛公ならん、吾が属今に之が虜と為らん。」と。沛公軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅殺す。居ること数日、項羽兵を引きて西のかた咸陽を屠り、秦の降王子嬰を殺し、秦の宮室を焼く、火三月滅せず。其の貨宝婦女を収めて東す。人或いは項王に説きて曰く、「関中は山河を阻てて四塞、地肥饒なり、都して以て霸たるべし。」と。項王秦の宮皆以に焼けて残破せるを見、又心に懐ひて東帰せんことを思欲し、曰く、「富貴にして故郷に帰らざるは、繡を衣て夜行くが如し、誰か之を知る者ぞ。」と。説く者曰く、「人言ふ楚人は沐猴にして冠するのみと、果たして然り。」と。項王之を聞き、説く者を烹る。項王人をして命を懐王に致さしむ。懐王曰く、「約の如くせよ。」と。乃ち懐王を尊びて義帝と為す。項王自ら王たらんと欲し、先づ諸将相を王とす。謂ひて曰く、「天下初めて難を発せし時、仮に諸侯の後を立てて以て秦を伐つ。然れども身堅を被り鋭を執りて事を首め、野に暴露すること三年、秦を滅ぼし天下を定むる者は、皆将相諸君と籍との力なり。義帝は功無しと雖も、故より当に其の地を分かちて之を王とすべし。」と。諸将皆曰く、「善し。」と。乃ち天下を分かち、諸将を立てて侯王と為す。
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『新序』善謀第十曰く、漢王項王と、力を戮せ西面して秦を擊つ。約すらく先に咸陽に入る者之に王たらしめん、と。漢王先に咸陽に入る。項王約に倍きて與えずして漢中に王たらしむ。項王義帝を遷殺す。漢王蜀漢の兵を起こして三秦を擊ち、關を出でて義帝の處を責め、天下の兵を收め、諸侯の後を立つ。城を降せば即ち以て其の將を侯とし、賂を得れば即ち以て其の士に予う。天下と其の利を同じくす。豪傑賢才皆な樂しみて其の用を爲す。諸侯の兵、四面より至り、蜀漢の粟、船を方べて下る。項王は約に倍くの名有り、義帝を殺すの實あり。人の功に於いて記す所無く、人の過ちに於いて忘るる所無し。戰い勝ちて其の賞を得ず、城を拔きて其の封を得ず。項氏に非ざれば事を用うるを得る莫し。人の爲に印を刻み、刓れて授くる能わず。城を攻めて賂を得るも、財を積みて賞する能わず。天下之に畔き、賢才之を怨みて、之が用を爲す莫し。故に天下の事、漢王に歸するは、坐して策す可きなり。夫れ漢王蜀漢を發し、三秦を定め、西河の外を涉り、上黨の兵に乘り、井陘を下し、成安を誅し、北魏を破り、三十二城を舉ぐ。此れ□尤の兵なり。人の力に非ざるなり。今已に敖倉の粟に據り、成皋の險を塞ぎ、白馬の津を守り、太行の阪を杜ぎ、蜚狐の口を距ぐ。天下後れて服する者は先ず亡びん。王疾かに漢王に下らば、齊國の社稷、得て保つ可きなり。漢王に下らずんば、危亡立ちどころに待つ可きなり、と。田橫以て然りと爲し、即ち酈生に聽き、歷下の兵戰守の備えを罷め、酈生と日ミ酒を縱にす。此れ酈生の謀なり。齊人蒯通韓信に說きて曰く、足下詔を受けて齊を擊つ。何の故に止まりて三軍の衆を將いて、一豎儒の功に如かざる。齊の備え無きに因りて之を擊つ可し、と。韓信之に從う。酈生田橫の害する所と爲る。後に信も通も亦た其の所を得ず。不仁に由るなり。
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