史記 / 高祖本紀
田榮怒,因自立為齊王,殺田都而反楚;予彭越將軍印,令反梁地。楚令蕭公角擊彭越,彭越大破之。陳餘怨項羽之弗王己也,令夏說說田榮,請兵擊張耳。齊予陳餘兵,擊破常山王張耳,張耳亡歸漢。迎趙王歇於代,復立為趙王。趙王因立陳餘為代王。項羽大怒,北擊齊。八月,漢王用韓信之計,從故道還,襲雍王章邯。邯迎擊漢陳倉,雍兵敗,還走;止戰好畤,又復敗,走廢丘。漢王遂定雍地。東至咸陽,引兵圍雍王廢丘,而遣諸將略定隴西、北地、上郡。令將軍薛歐、王吸出武關,因王陵兵南陽,以迎太公、呂后於沛。楚聞之,發兵距之陽夏,不得前。令故吳令鄭昌為韓王,距漢兵。二年,漢王東略地,塞王欣、翟王翳、河南王申陽皆降。韓王昌不聽,使韓信擊破之。於是置隴西、北地、上郡、渭南、河上、中地郡;關外置河南郡。更立韓太尉信為韓王。諸將以萬人若以一郡降者,封萬戶。繕治河上塞。諸故秦苑囿園池,皆令人得田之,正月,虜雍王弟章平。大赦罪人。漢王之出關至陜,撫關外父老,還,張耳來見,漢王厚遇之。二月,令除秦社稷,更立漢社稷。三月,漢王從臨晉渡,魏王豹將兵從。下河內,虜殷王,置河內郡。南渡平陰津,至雒陽。
新字:田栄怒,因自立為斉王,殺田都而反楚;予彭越将軍印,令反梁地。楚令蕭公角撃彭越,彭越大破之。陳余怨項羽之弗王己也,令夏説説田栄,請兵撃張耳。斉予陳余兵,撃破常山王張耳,張耳亡帰漢。迎趙王歇於代,復立為趙王。趙王因立陳余為代王。項羽大怒,北撃斉。八月,漢王用韓信之計,従故道還,襲雍王章邯。邯迎撃漢陳倉,雍兵敗,還走;止戦好畤,又復敗,走廃丘。漢王遂定雍地。東至咸陽,引兵囲雍王廃丘,而遣諸将略定隴西、北地、上郡。令将軍薛欧、王吸出武関,因王陵兵南陽,以迎太公、呂后於沛。楚聞之,発兵距之陽夏,不得前。令故呉令鄭昌為韓王,距漢兵。二年,漢王東略地,塞王欣、翟王翳、河南王申陽皆降。韓王昌不聴,使韓信撃破之。於是置隴西、北地、上郡、渭南、河上、中地郡;関外置河南郡。更立韓太尉信為韓王。諸将以万人若以一郡降者,封万戸。繕治河上塞。諸故秦苑囿園池,皆令人得田之,正月,虜雍王弟章平。大赦罪人。漢王之出関至陜,撫関外父老,還,張耳来見,漢王厚遇之。二月,令除秦社稷,更立漢社稷。三月,漢王従臨晋渡,魏王豹将兵従。下河内,虜殷王,置河内郡。南渡平陰津,至雒陽。
書き下し
田栄怒り、因りて自ら立ちて斉王と為り、田都を殺して楚に反す。彭越に将軍の印を予へ、梁の地に反せしむ。楚蕭公角をして彭越を撃たしむ、彭越大いに之を破る。陳余項羽の己を王とせざるを怨み、夏説をして田栄に説かしめ、兵を請ひて張耳を撃たんとす。斉陳余に兵を予へ、常山王張耳を撃破す、張耳亡げて漢に帰す。趙王歇を代に迎へ、復た立てて趙王と為す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。項羽大いに怒り、北のかた斉を撃つ。八月、漢王韓信の計を用ゐ、故道より還り、雍王章邯を襲ふ。邯漢を陳倉に迎撃す、雍の兵敗れ、還り走る。止まりて好畤に戦ふ、又復た敗れ、廃丘に走る。漢王遂に雍の地を定む。東して咸陽に至り、兵を引きて雍王を廃丘に囲み、而して諸将を遣はして隴西・北地・上郡を略定せしむ。将軍薛欧・王吸をして武関を出でしめ、王陵の兵の南陽に在るに因り、以て太公・呂后を沛に迎へしむ。楚之を聞き、兵を発して之を陽夏に距ぐ、前むを得ず。故の呉の令鄭昌をして韓王と為し、漢の兵を距がしむ。二年、漢王東のかた地を略す、塞王欣・翟王翳・河南王申陽皆降る。韓王昌聴かず、韓信をして撃ちて之を破らしむ。是に於て隴西・北地・上郡・渭南・河上・中地の郡を置く。関外に河南郡を置く。更めて韓の太尉信を立てて韓王と為す。諸将の万人若しくは一郡を以て降る者は、万戸に封ず。河上の塞を繕治す。諸々の故の秦の苑囿園池は、皆人をして之を田(たがや)すを得しむ。正月、雍王の弟章平を虜にす。大いに罪人を赦す。漢王の関を出でて陝に至るや、関外の父老を撫し、還るに、張耳来り見ゆ、漢王厚く之を遇す。二月、秦の社稷を除き、更めて漢の社稷を立てしむ。三月、漢王臨晋より渡る、魏王豹兵を将ゐて従ふ。河内を下し、殷王を虜にし、河内郡を置く。南のかた平陰津を渡り、雒陽に至る。
現代語訳
田栄は怒り、自ら立って斉王となり、田都を殺して楚に背いた。彭越に将軍の印綬を与え、梁の地で反乱を起こさせた。楚は蕭公角に彭越を攻めさせたが、彭越は大いにこれを破った。陳余は項羽が自分を王にしなかったことを恨み、夏説を田栄のもとにやって説かせ、兵を借りて張耳を攻めようとした。斉は陳余に兵を与え、陳余は常山王張耳を撃ち破った。張耳は逃げて漢に帰順した。陳余は趙王歇を代から迎えて、再び趙王に立てた。趙王はそこで陳余を代王に立てた。項羽は大いに怒り、北の斉を攻めた。八月、漢王は韓信の計略を用い、故道から関中に引き返して雍王章邯を襲った。章邯は漢軍を陳倉で迎え撃ったが、雍の兵は敗れて逃げ帰った。好畤でとどまって戦ったが、また敗れて廃丘へ逃げた。漢王はついに雍の地を平定した。東へ進んで咸陽に至り、兵を率いて雍王を廃丘で包囲するとともに、将たちを派遣して隴西・北地・上郡を攻め従えさせた。将軍の薛欧と王吸に武関を出させ、南陽にいた王陵の兵の力を借りて、太公と呂后を沛から迎えさせようとした。楚はこれを聞くと、兵を出して陽夏で防いだので、前へ進めなかった。楚はもとの呉県の県令の鄭昌を韓王として、漢の兵を防がせた。二年(前205年)、漢王は東へ土地を攻め取り、塞王司馬欣・翟王董翳・河南王申陽は皆降った。韓王鄭昌は従わなかったので、韓信(韓の王族の信)に攻めさせてこれを破った。こうして隴西・北地・上郡・渭南・河上・中地の郡を置き、函谷関の外には河南郡を置いた。あらためて韓の太尉の信を韓王に立てた。将たちのうち一万人あるいは一郡を率いて降った者は、一万戸に封じた。黄河沿いの要塞を修築した。もとの秦の狩猟場や庭園・池は、皆民に耕作させることにした。正月、雍王の弟の章平を捕虜にした。罪人たちに大赦を行った。漢王は関を出て陝に至ると、関外の父老たちをいたわり、帰ってくると、張耳が会いに来たので、漢王は手厚くもてなした。二月、秦の社稷(土地と穀物の神を祀る国家の祭壇)を取り除き、あらためて漢の社稷を立てさせた。三月、漢王は臨晋から黄河を渡り、魏王豹が兵を率いて従った。河内を降して殷王を捕虜にし、河内郡を置いた。南の平陰の渡し場を渡って雒陽に至った。
解説
関連する章句
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史記 項羽本紀大王兵を起こし、且つ不義を聴かずと聞く、願はくは大王余に兵を資し、請ふ以て常山を撃ち、以て趙王を復せん、請ふ国を以て捍蔽と為さん。」と。斉王之を許し、因りて兵を遣はして趙に之かしむ。陳余悉く三県の兵を発し、斉と力を并せて常山を撃ち、大いに之を破る。張耳走りて漢に帰す。陳余故の趙王歇を代に迎へ、之を趙に反す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。是の時、漢還りて三秦を定む。項羽漢王皆已に関中を并せ、且に東せんとし、斉・趙之に叛くを聞き、大いに怒る。乃ち故の呉の令鄭昌を以て韓王と為し、以て漢を距がしむ。蕭公角等をして彭越を撃たしむ。彭越蕭公角等を敗る。漢張良をして韓を徇へしめ、乃ち項王に書を遺りて曰く、「漢王職を失ふ、関中を得んと欲す、約の如くならば即ち止まり、敢へて東せず。」と。又斉・梁の反書を以て項王に遺りて曰く、「斉趙と并せて楚を滅ぼさんと欲す。」と。楚此の故を以て西する意無く、而して北のかた斉を撃つ。兵を九江王布に徴す。布疾と称して往かず、将をして数千人を将ゐて行かしむ。項王此に由りて布を怨むなり。漢の二年冬、項羽遂に北して城陽に至る、田栄も亦兵を将ゐて会戦す。田栄勝たず、走りて平原に至る、平原の民之を殺す。遂に北して斉の城郭室屋を焼夷し、皆田栄の降卒を阬にし、其の老弱婦女を系虜す。斉を徇へて北海に至り、残滅する所多し。斉人相聚まりて之に叛く。是に於て田栄の弟田横斉の亡卒を収めて数万人を得、城陽に反す。項王因りて留まり、連戦して未だ下す能はず。春、漢王五諸侯の兵を部し、凡そ五十六万人、東のかた楚を伐つ。項王之を聞き、即ち諸将をして斉を撃たしめ、而して自ら精兵三万人を以て南のかた魯より胡陵に出づ。四月、漢皆已に彭城に入り、其の貨宝美人を収め、日に置酒高会す。項王乃ち西のかた蕭より、晨に漢の軍を撃ちて東し、彭城に至り、日中、大いに漢の軍を破る。
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史記 高祖本紀敗れて後乃ち独り孝恵を得たり、六月、立てて太子と為し、大いに罪人を赦す。太子をして櫟陽を守らしめ、諸侯の子の関中に在る者皆櫟陽に集まりて衛と為る。水を引きて廃丘に灌ぐ、廃丘降り、章邯自殺す。廃丘を更名して槐里と為す。是に於て祠官をして天地四方上帝山川を祀らしめ、時を以て之を祀る。関内の卒を興して塞に乗らしむ。是の時九江王布龍且と戦ひ、勝たず、随何と間行して漢に帰す。漢王稍々士卒を収め、諸将及び関中の卒と益々出づ、是を以て兵大いに滎陽に振るひ、楚を京・索の間に破る。三年、魏王豹謁して帰りて親の疾を視んとす、至れば即ち河津を絶ち、反きて楚と為る。漢王酈生をして豹に説かしむ、豹聴かず。漢王将軍韓信を遣はして撃たしめ、大いに之を破り、豹を虜にす。遂に魏の地を定め、三郡を置く、河東・太原・上党と曰ふ。漢王乃ち張耳と韓信とをして遂に東のかた井陘を下りて趙を撃たしめ、陳余・趙王歇を斬る。其の明年、張耳を立てて趙王と為す。漢王滎陽の南に軍し、甬道を築きて之を河に属し、以て敖倉を取る。項羽と相距ぐこと歳余。項羽数(しばしば)漢の甬道を侵奪す、漢の軍食に乏し、遂に漢王を囲む。漢王和を請ひ、滎陽以西を割く者を漢と為さんとす。項王聴かず。漢王之を患ひ、乃ち陳平の計を用ゐ、陳平に金四万斤を予へ、以て楚の君臣を間疏せしむ。是に於て項羽乃ち亜父を疑ふ。亜父是の時項羽に遂に滎陽を下さんことを勧む、其の疑はるるに及び、乃ち怒り、老を辞し、骸骨を賜ひて卒伍に帰らんことを願ふ、未だ彭城に至らずして死す。漢の軍食を絶つ、乃ち夜女子を東門より出だすこと二千余人、甲を被らしむ、楚因りて四面より之を撃つ。将軍紀信乃ち王の駕に乗り、詐りて漢王と為り、楚を誑す、楚皆万歳を呼び、城東に之きて観る、故を以て漢王数十騎と西門より出でて遁るるを得たり。
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