塩鉄論 / 本議篇
惟始元六年、有詔書使丞相、御史與所舉賢良、文學語、問民間所疾苦。
新字:惟始元六年、有詔書使丞相、御史与所舉賢良、文学語、問民間所疾苦。
書き下し
惟れ始元六年、詔書有りて丞相・御史をして舉ぐる所の賢良・文學と語らしめ、民間の疾苦する所を問わしむ。
現代語訳
始元六年(紀元前八十一年)、詔が下って、丞相と御史大夫に、各地から推挙された賢良・文学の士と話し合わせ、民間が苦しんでいることを問わせた。
解説
『塩鉄論』はこの一行から始まります。政府が塩と鉄と酒を専売にし、均輸・平準という物流と価格の統制を敷いていた。その是非を、財政当局の責任者と、地方から呼ばれた学者たちが公開で討論する。国家がみずから政策の是非を議論の場に載せた記録として、これは世界的にも早い例です。しかも記録者の桓寛は、どちらか一方を勝たせる書き方をしていません。以後六十篇、財政の現実を説く大夫と、道義を説く文学が、噛み合わないまま延々と応酬します。読む側は、その噛み合わなさ自体を見ることになります。
この章句が説くこと
始元六年賢良文学民間の疾苦議論制度統治
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