講孟余話 / 萬章上 第三章
親之欲其貴也、身天子タリ弟匹夫タラハ、親シマント欲スト云トモ、貴賤懸隔ニシテ、勢相親ムコト能ハス、故ニ是ヲ貴スルトナリ、天子使吏治其國、而納其貢稅、明ノ王陽明象祠記ニ、漢ノ諸王天子ヨリ相ヲ置クハ、舜ノ象ニ於ケルニ倣フナラントアリ、是實ニ良法ト云フヘシ、德川氏三家其他ノ親藩ニ於ケル附家老アリ、亦此意ナラン、但シ漢ノ國相ハ時々ニテ轉移ス、德川氏ノ附家老ハ世襲トス、是ヲ異ナリトス、舜ノ吏如何ヲ知ヘカラスト云トモ、臆ヲ以テ是ヲ度ルニ、亦漢ノ國相ノ如クニシテ、世襲ニハ非ルヘシ、註吳氏曰、仁之至、義之盡也ト、之ヲ有庳ニ封シ以テ富貴ニスルハ、仁ノ至レルナリ、吏ヲシテ其國ヲ治メシメ、其國ニナスアル能ハサルハ、義ノ盡セルナリ、唐ノ明皇長枕大被ヲ作リ、兄弟同寢スルハ、仁ヲナサント欲シテ仁ニアラス、又漢ノ景帝ノ梁王ニ於ル、始メハ之ヲ縱ニスルコト太タ過ク、之ヲ仁ト云ヘカラス、後ニハ之ヲ窘ムルコト太タ峻シ、義又之ヲ失フ、明皇景帝ノ說ハ語類ニ原ツク
新字:親之欲其貴也、身天子タリ弟匹夫タラハ、親シマント欲スト云トモ、貴賤懸隔ニシテ、勢相親ムコト能ハス、故ニ是ヲ貴スルトナリ、天子使吏治其国、而納其貢税、明ノ王陽明象祠記ニ、漢ノ諸王天子ヨリ相ヲ置クハ、舜ノ象ニ於ケルニ倣フナラントアリ、是実ニ良法ト云フヘシ、徳川氏三家其他ノ親藩ニ於ケル附家老アリ、亦此意ナラン、但シ漢ノ国相ハ時々ニテ転移ス、徳川氏ノ附家老ハ世襲トス、是ヲ異ナリトス、舜ノ吏如何ヲ知ヘカラスト云トモ、臆ヲ以テ是ヲ度ルニ、亦漢ノ国相ノ如クニシテ、世襲ニハ非ルヘシ、註呉氏曰、仁之至、義之尽也ト、之ヲ有庳ニ封シ以テ富貴ニスルハ、仁ノ至レルナリ、吏ヲシテ其国ヲ治メシメ、其国ニナスアル能ハサルハ、義ノ尽セルナリ、唐ノ明皇長枕大被ヲ作リ、兄弟同寝スルハ、仁ヲナサント欲シテ仁ニアラス、又漢ノ景帝ノ梁王ニ於ル、始メハ之ヲ縦ニスルコト太タ過ク、之ヲ仁ト云ヘカラス、後ニハ之ヲ窘ムルコト太タ峻シ、義又之ヲ失フ、明皇景帝ノ説ハ語類ニ原ツク
書き下し
「之れを親しみて其の貴からんことを欲す」。身天子たり、弟匹夫たらば、親しまんと欲すと雖も、貴賤懸隔にして、勢ひ相親しむこと能はず、故に是れを貴くするとなり。「天子吏をして其の国を治めしめ、而して其の貢税を納めしむ」。明の王陽明の象祠記に、漢の諸王に天子より相を置くは、舜の象に於けるに倣ふならんとあり。是れ実に良法と云ふべし。徳川氏の三家其の他の親藩に於ける附家老あり、亦此の意ならん。但し漢の国相は時々にて転移す、徳川氏の附家老は世襲とす、是れを異なりとす。舜の吏如何を知るべからずと雖も、臆を以て是れを度るに、亦漢の国相の如くにして、世襲には非ざるべし。註に呉氏曰く、「仁の至り、義の尽くせるなり」と。之れを有庳に封じ以て富貴にするは、仁の至れるなり。吏をして其の国を治めしめ、其の国になすある能はざらしむるは、義の尽くせるなり。唐の明皇の長枕大被を作り、兄弟同寝するは、仁をなさんと欲して仁にあらず。又漢の景帝の梁王に於ける、始めは之れを縦にすること太だ過ぎ、之れを仁と云ふべからず。後には之れを窘むること太だ峻し、義又之れを失ふ。明皇・景帝の説は語類に原づく。
現代語訳
「弟を親しみ、その身分を高くしてやろうと願った」。自分が天子で弟が平民であれば、親しもうと思っても身分の差が大きすぎて、自然と親しむことができない。だから弟の身分を高くしたというのである。「天子は役人にその国を治めさせ、その貢ぎ物や税を納めさせた」。明の王陽明の「象祠記」に、漢の諸王に天子から相を置いたのは、舜が象に対してしたことに倣ったのだろう、とある。これはまことに良い方法というべきである。徳川氏の御三家やその他の親藩に付家老がいるのも、この意味であろう。ただし漢の国相は時々に異動したが、徳川氏の付家老は世襲である。ここが違う。舜の役人がどうであったかは分からないが、推し量れば、やはり漢の国相のようで、世襲ではなかっただろう。注に呉氏が「仁の極みであり、義を尽くしたものである」と言う。弟を有庳に封じて富貴にしたのは、仁の極みである。役人にその国を治めさせ、弟がその国で勝手なことをできないようにしたのは、義を尽くしたのである。唐の玄宗が長い枕と大きな布団を作って兄弟で共に寝たのは、仁をなそうとして仁ではなかった。また漢の景帝の梁王に対する扱いは、初めは好き放題にさせすぎて仁とは言えず、後には苦しめるのが厳しすぎて、義もまた失った。玄宗と景帝の話は『朱子語類』にもとづく。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 高祖本紀田栄怒り、因りて自ら立ちて斉王と為り、田都を殺して楚に反す。彭越に将軍の印を予へ、梁の地に反せしむ。楚蕭公角をして彭越を撃たしむ、彭越大いに之を破る。陳余項羽の己を王とせざるを怨み、夏説をして田栄に説かしめ、兵を請ひて張耳を撃たんとす。斉陳余に兵を予へ、常山王張耳を撃破す、張耳亡げて漢に帰す。趙王歇を代に迎へ、復た立てて趙王と為す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。項羽大いに怒り、北のかた斉を撃つ。八月、漢王韓信の計を用ゐ、故道より還り、雍王章邯を襲ふ。邯漢を陳倉に迎撃す、雍の兵敗れ、還り走る。止まりて好畤に戦ふ、又復た敗れ、廃丘に走る。漢王遂に雍の地を定む。東して咸陽に至り、兵を引きて雍王を廃丘に囲み、而して諸将を遣はして隴西・北地・上郡を略定せしむ。将軍薛欧・王吸をして武関を出でしめ、王陵の兵の南陽に在るに因り、以て太公・呂后を沛に迎へしむ。楚之を聞き、兵を発して之を陽夏に距ぐ、前むを得ず。故の呉の令鄭昌をして韓王と為し、漢の兵を距がしむ。二年、漢王東のかた地を略す、塞王欣・翟王翳・河南王申陽皆降る。韓王昌聴かず、韓信をして撃ちて之を破らしむ。是に於て隴西・北地・上郡・渭南・河上・中地の郡を置く。関外に河南郡を置く。更めて韓の太尉信を立てて韓王と為す。諸将の万人若しくは一郡を以て降る者は、万戸に封ず。河上の塞を繕治す。諸々の故の秦の苑囿園池は、皆人をして之を田(たがや)すを得しむ。正月、雍王の弟章平を虜にす。大いに罪人を赦す。漢王の関を出でて陝に至るや、関外の父老を撫し、還るに、張耳来り見ゆ、漢王厚く之を遇す。二月、秦の社稷を除き、更めて漢の社稷を立てしむ。三月、漢王臨晋より渡る、魏王豹兵を将ゐて従ふ。河内を下し、殷王を虜にし、河内郡を置く。南のかた平陰津を渡り、雒陽に至る。
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『塩鉄論』本議篇惟れ始元六年、詔書有りて丞相・御史をして舉ぐる所の賢良・文學と語らしめ、民間の疾苦する所を問わしむ。
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『墨子』號令國を安んずるの道は、道、地に任ずるより始まる。地、其の任を得れば則ち功成り、地、其の任を得ざれば則ち勞して功無し。人も亦た此を為す。備え、先に具えざる者は以て主を安んずる無し。吏卒民、多く心の一ならざる者は、皆な其の将長に在り。諸そ賞罰を行い及び治むること有る者は、必ず公より出づ。王、數しば人をして行き勞わしめ、邉城關塞を守り、蠻夷に備うるの勞苦なる者に賜い、其の守率の財用の餘り有ると足らざるとを舉げ、地形の當に邉を守るべき者、其の器備の常に多き者を舉ぐ。邉の縣邑は、其の樹木の惡しきを視れば、則ち用を少なくす。田、辟けざれば、食を少なくす。大屋・草盖無ければ、乗を用うるを少なくす。財多ければ、民、食を好む。内堞を為り、内に行棧し、器備を其の上に置く。城上の吏・卒・養は、皆な舍を道の内に為り、各おの其の隔部に當たる。養は十二人。符を為る者を養吏一人と曰い、諸門を辦護す。門者及び守禁有る者は、皆な事無き者をして其の旁らに稽留するを得しむる無かれ。令に従わざる者は戮す。敵人、但だ至らば、千丈の城は、必ず郭、之に近づき、主人、利し。千丈を盡くさざる者は迎うる勿かれ。敵の居曲、衆少を視て之に應ず。此れ守城の大體なり。其の此の中に在らざる者は、皆な心術と人事と之を參う。
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