史記 / 高祖本紀
新城三老董公遮說漢王以義帝死故。漢王聞之,袒而大哭。遂為義帝發喪,臨三日。發使者告諸侯曰:「天下共立義帝,北面事之。今項羽放殺義帝於江南,大逆無道。寡人親為發喪,諸侯皆縞素。悉發關內兵,收三河士,南浮江漢以下,願從諸侯王擊楚之殺義帝者。」是時項王北擊齊,田榮與戰城陽。田榮敗,走平原,平原民殺之。齊皆降楚。楚因焚燒其城郭,系虜其子女。齊人叛之。田榮弟橫立榮子廣為齊王,齊王反楚城陽。項羽雖聞漢東,既已連齊兵,欲遂破之而擊漢。漢王以故得劫五諸侯兵,遂入彭城。項羽聞之,乃引兵去齊,從魯出胡陵,至蕭,與漢大戰彭城靈壁東睢水上,大破漢軍,多殺士卒,睢水為之不流。乃取漢王父母妻子於沛,置之軍中以為質。當是時,諸侯見楚彊漢敗,還皆去漢復為楚。塞王欣亡入楚。呂后兄周呂侯為漢將兵,居下邑。漢王從之,稍收士卒,軍碭。漢王乃西過梁地,至虞。使謁者隨何之九江王布所,曰:「公能令布舉兵叛楚,項羽必留擊之。得留數月,吾取天下必矣。」隨何往說九江王布,布果背楚。楚使龍且往擊之。漢王之敗彭城而西,行使人求家室,家室亦亡,不相得。
新字:新城三老董公遮説漢王以義帝死故。漢王聞之,袒而大哭。遂為義帝発喪,臨三日。発使者告諸侯曰:「天下共立義帝,北面事之。今項羽放殺義帝於江南,大逆無道。寡人親為発喪,諸侯皆縞素。悉発関内兵,収三河士,南浮江漢以下,願従諸侯王撃楚之殺義帝者。」是時項王北撃斉,田栄与戦城陽。田栄敗,走平原,平原民殺之。斉皆降楚。楚因焚焼其城郭,系虜其子女。斉人叛之。田栄弟横立栄子広為斉王,斉王反楚城陽。項羽雖聞漢東,既已連斉兵,欲遂破之而撃漢。漢王以故得劫五諸侯兵,遂入彭城。項羽聞之,乃引兵去斉,従魯出胡陵,至蕭,与漢大戦彭城霊壁東睢水上,大破漢軍,多殺士卒,睢水為之不流。乃取漢王父母妻子於沛,置之軍中以為質。当是時,諸侯見楚彊漢敗,還皆去漢復為楚。塞王欣亡入楚。呂后兄周呂侯為漢将兵,居下邑。漢王従之,稍収士卒,軍碭。漢王乃西過梁地,至虞。使謁者随何之九江王布所,曰:「公能令布舉兵叛楚,項羽必留撃之。得留数月,吾取天下必矣。」随何往説九江王布,布果背楚。楚使竜且往撃之。漢王之敗彭城而西,行使人求家室,家室亦亡,不相得。
書き下し
新城の三老董公遮りて漢王に説くに義帝の死せし故を以てす。漢王之を聞き、袒して大いに哭す。遂に義帝の為に喪を発し、臨すること三日。使者を発して諸侯に告げて曰く、「天下共に義帝を立て、北面して之に事ふ。今項羽義帝を江南に放殺す、大逆無道なり。寡人親ら為に喪を発す、諸侯皆縞素せよ。悉く関内の兵を発し、三河の士を収め、南のかた江漢に浮かびて以て下り、願はくは諸侯王に従ひて楚の義帝を殺せし者を撃たん。」と。是の時項王北のかた斉を撃つ、田栄与に城陽に戦ふ。田栄敗れ、平原に走る、平原の民之を殺す。斉皆楚に降る。楚因りて其の城郭を焚焼し、其の子女を系虜す。斉人之に叛く。田栄の弟横栄の子広を立てて斉王と為す、斉王楚に城陽に反す。項羽漢の東すと聞くと雖も、既已に斉の兵と連なる、遂に之を破りて漢を撃たんと欲す。漢王故を以て五諸侯の兵を劫かすを得て、遂に彭城に入る。項羽之を聞き、乃ち兵を引きて斉を去り、魯より胡陵に出で、蕭に至り、漢と彭城の霊壁の東睢水の上に大いに戦ひ、大いに漢の軍を破り、多く士卒を殺す、睢水之が為に流れず。乃ち漢王の父母妻子を沛に取り、之を軍中に置きて以て質と為す。是の時に当たりて、諸侯楚の彊く漢の敗るるを見て、還りて皆漢を去りて復た楚と為る。塞王欣亡げて楚に入る。呂后の兄周呂侯漢の為に兵を将ゐ、下邑に居る。漢王之に従ひ、稍々士卒を収め、碭に軍す。漢王乃ち西のかた梁の地を過ぎ、虞に至る。謁者随何をして九江王布の所に之かしめて、曰く、「公能く布をして兵を挙げて楚に叛かしめば、項羽必ず留まりて之を撃たん。留まること数月を得ば、吾天下を取ること必せり。」と。随何往きて九江王布に説く、布果たして楚に背く。楚龍且をして往きて之を撃たしむ。漢王の彭城に敗れて西するや、行くゆく人をして家室を求めしむ、家室も亦亡げ、相得ず。
現代語訳
新城の三老(村の長老)の董公が漢王の行く手をさえぎり、義帝が殺されたことを説いた。漢王はこれを聞くと、片肌を脱いで大声で泣いた。そして義帝のために喪を発し、三日間弔いの儀を行った。使者を送って諸侯に告げた。「天下はともに義帝を立て、北面して臣下としてお仕えしてきた。いま項羽は義帝を江南に追放して殺した。これは大逆無道である。私は自ら義帝のために喪を発する。諸侯も皆白い喪服を着けよ。私は関中の兵をすべて動員し、三河(河東・河内・河南)の兵士を集め、南は長江・漢水に船を浮かべて下り、諸侯王とともに義帝を殺した楚の者を討ちたい」。このとき項王は北の斉を攻めており、田栄はこれと城陽で戦った。田栄は敗れて平原に逃げたが、平原の民が田栄を殺した。斉は皆楚に降った。楚はそこで斉の城郭を焼き払い、その男女を縛って捕虜にした。斉の人々は楚に背いた。田栄の弟の田横が田栄の子の田広を斉王に立て、斉王は城陽で楚に反旗を翻した。項羽は漢が東へ進んでいると聞いたが、すでに斉の兵と戦いを交えていたので、斉を破ってから漢を撃とうとした。漢王はそのおかげで五つの諸侯の兵を従わせることができ、ついに彭城に入った。項羽はこれを聞くと、兵を率いて斉を離れ、魯から胡陵に出て蕭に至り、漢と彭城の霊壁の東、睢水のほとりで大いに戦って、漢の軍を大いに破り、多くの兵士を殺した。睢水はそのために流れがせき止められた。そして漢王の父母と妻子を沛で捕らえ、軍中に置いて人質とした。このとき、諸侯は楚が強く漢が敗れたのを見て、皆漢から離れて再び楚の側についた。塞王司馬欣は逃げて楚に入った。呂后の兄の周呂侯は漢のために兵を率いて下邑にいた。漢王はそこに身を寄せ、少しずつ兵士を集めて碭に陣を置いた。漢王はそこで西へ向かい梁の地を過ぎて虞に至った。謁者(取次ぎ役)の随何を九江王黥布のもとへ送ろうとして言った。「あなたが黥布に兵を挙げて楚に背かせることができれば、項羽は必ずとどまって黥布を攻めるだろう。数か月とどめておくことができれば、私が天下を取るのは確実だ」。随何は行って九江王黥布を説き、黥布は果たして楚に背いた。楚は龍且を送って黥布を攻めさせた。漢王は彭城で敗れて西へ向かう途中、人をやって家族を探させたが、家族もまた逃げていて、会うことができなかった。
解説
関連する章句
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史記 黥布列伝其の八月、布将をして義帝を撃たしめ、追ひて之を郴県に殺す。漢の二年、斉王田栄楚に畔く。項王往きて斉を撃ち、兵を九江に徴す。九江王布病と称して往かず、将をして数千人を将ゐて行かしむ。漢の楚を彭城に敗るや、布又病と称して楚を佐けず。項王此に由りて布を怨み、数々使者をして誚譲して布を召さしむ。布愈々恐れ、敢て往かず。項王方に北は斉・趙を憂へ、西は漢を患ふ。与する所の者は独り九江王のみ。又布の材を多とし、親しみて之を用ひんと欲す。故を以て未だ撃たず。漢の三年、漢王楚を撃ち、大いに彭城に戦ひて、利あらず。梁の地に出でて、虞に至り、左右に謂ひて曰く、「彼等の如き者は、与に天下の事を計るに足る無し」と。謁者隨何進みて曰く、「陛下の謂ふ所を審らかにせず」と。漢王曰く、「孰か能く我が為に淮南に使ひし、之をして兵を発して楚に倍かしめ、項王を斉に留むること数月ならしめん。我の天下を取ること以て百全なるべし」と。隨何曰く、「臣請ふ之に使ひせん」と。乃ち二十人と倶に、淮南に使ひす。至る。太宰に因りて之を主とせしむるも、三日見ゆるを得ず。隨何因りて太宰に説きて曰く、「王の何に見えざるは、必ず楚を以て彊と為し、漢を以て弱と為すならん。此れ臣の使ひを為す所以なり。何をして見ゆるを得しめ、之を言ひて是ならば、是れ大王の聞かんと欲する所なり。之を言ひて非ならば、何等二十人をして斧質に淮南の市に伏せしめ、以て王の漢に倍きて楚に与するを明らかにせよ」と。太宰乃ち之を王に言ふ。王之に見ゆ。隨何曰く、「漢王臣をして敬んで書を大王の御者に進めしむ。竊かに大王の楚と何ぞ親しきを怪しむ」と。淮南王曰く、「寡人北郷して之に臣事す」と。隨何曰く、「大王と項王と倶に列して諸侯と為る。北郷して之に臣事するは、必ず楚を以て彊と為し、以て国を託すべしとすればなり。項王斉を伐つに、身づから板築を負ひ、以て士卒の先と為る。大王宜しく淮南の衆を悉くし、身づから自ら之に将として、楚軍の前鋒と為るべし。今乃ち四千人を発して以て楚を助く。
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史記 項羽本紀漢の軍皆走り、相随ひて穀・泗水に入り、漢の卒十余万人を殺す。漢の卒皆南のかた山に走る、楚又追撃して霊壁の東睢水の上に至る。漢の軍卻き、楚の擠す所と為り、多く殺さる、漢の卒十余万人皆睢水に入り、睢水之が為に流れず。漢王を囲むこと三匝。是に於て大風西北より起こり、木を折り屋を発し、沙石を揚げ、窈冥にして昼晦く、楚の軍に逢迎す。楚の軍大いに乱れ、壊散す、而して漢王乃ち数十騎と遁れ去るを得たり、沛を過ぎ、家室を収めて西せんと欲す。楚も亦人をして之を沛に追はしめ、漢王の家を取らんとす。家皆亡げ、漢王と相見えず。漢王道に孝恵・魯元に逢ひ得て、乃ち載せて行く。楚の騎漢王を追ふ、漢王急にして、孝恵・魯元を車下に推し墮す、滕公常に下りて収めて之を載す。是くの如き者三たび。曰く、「急なりと雖も以て駆るべからず、柰何ぞ之を棄てん。」と。是に於て遂に脱するを得たり。太公・呂后を求むるも相遇はず。審食其太公・呂后に従ひて間行し、漢王を求む、反りて楚の軍に遇ふ。楚の軍遂に与に帰り、項王に報ず、項王常に軍中に置く。是の時呂后の兄周呂侯漢の為に兵を将ゐて下邑に居る、漢王間かに往きて之に従ひ、稍稍其の士卒を収む。滎陽に至り、諸々の敗軍皆会す、蕭何も亦関中の老弱の未だ傅せざる者を発して悉く滎陽に詣らしめ、復た大いに振るふ。楚彭城より起こり、常に勝ちに乗じて北ぐるを逐ひ、漢と滎陽の南京・索の間に戦ふ、漢楚を敗る、楚故を以て滎陽を過ぎて西する能はず。項王の彭城を救ひ、漢王を追ひて滎陽に至る、田横も亦斉を収むるを得て、田栄の子広を立てて斉王と為す。漢王の彭城に敗るるや、諸侯皆復た楚に与して漢に背く。漢滎陽に軍し、甬道を築きて之を河に属し、以て敖倉の粟を取る。漢の三年、項王数(しばしば)漢の甬道を侵奪す、漢王食乏しく、恐れ、和を請ひ、滎陽以西を割きて漢と為さんとす。
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史記 項羽本紀故の秦の滅ぼす所の斉王建の孫田安、項羽方に河を渡りて趙を救ふとき、田安済北の数城を下し、其の兵を引きて項羽に降る、故に安を立てて済北王と為し、博陽に都せしむ。田栄は、数(しばしば)項梁に負き、又肯へて兵を将ゐて楚に従ひて秦を撃たず、故を以て封ぜず。成安君陳余将印を棄てて去り、従ひて関に入らず、然れども素より其の賢を聞き、趙に功有り、其の南皮に在るを聞き、故に因りて環りの三県に封ず。番君の将梅鋗功多し、故に十万戸侯に封ず。項王自ら立ちて西楚の霸王と為り、九郡に王とし、彭城に都す。漢の元年四月、諸侯戯下より罷め、各々国に就く。項王出でて国に之き、人をして義帝を徙さしめて、曰く、「古の帝者は地方千里、必ず上游に居る。」と。乃ち使をして義帝を長沙の郴県に徙さしむ。義帝の行を趣(うなが)す、其の群臣稍稍之に背叛す、乃ち陰かに衡山・臨江王をして之を江中に撃殺せしむ。韓王成軍功無し、項王之をして国に之かしめず、与に倶に彭城に至り、廃して以て侯と為し、已にして又之を殺す。臧荼国に之き、因りて韓広を逐ひて遼東に之かしめんとす、広聴かず、荼広を無終に撃殺し、並せて其の地に王たり。田栄項羽の斉王市を膠東に徙し、而して斉の将田都を立てて斉王と為すを聞き、乃ち大いに怒り、斉王を遣はして膠東に之かしむるを肯ぜず、因りて斉を以て反し、田都を迎撃す。田都楚に走る。斉王市項王を畏れ、乃ち亡げて膠東に之きて国に就く。田栄怒り、追撃して之を即墨に殺す。栄因りて自ら立ちて斉王と為り、而して西のかた済北王田安を殺撃し、并せて三斉に王たり。栄彭越に将軍の印を与へ、梁の地に反せしむ。陳余陰かに張同・夏説をして斉王田栄に説かしめて曰く、「項羽天下の宰と為りて、平らかならず。今尽く故王を醜地に王とし、而して其の群臣諸将を善地に王とし、其の故主趙王を逐ひて、乃ち北のかた代に居らしむ、余以為へらく不可なりと。
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史記 項羽本紀大王兵を起こし、且つ不義を聴かずと聞く、願はくは大王余に兵を資し、請ふ以て常山を撃ち、以て趙王を復せん、請ふ国を以て捍蔽と為さん。」と。斉王之を許し、因りて兵を遣はして趙に之かしむ。陳余悉く三県の兵を発し、斉と力を并せて常山を撃ち、大いに之を破る。張耳走りて漢に帰す。陳余故の趙王歇を代に迎へ、之を趙に反す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。是の時、漢還りて三秦を定む。項羽漢王皆已に関中を并せ、且に東せんとし、斉・趙之に叛くを聞き、大いに怒る。乃ち故の呉の令鄭昌を以て韓王と為し、以て漢を距がしむ。蕭公角等をして彭越を撃たしむ。彭越蕭公角等を敗る。漢張良をして韓を徇へしめ、乃ち項王に書を遺りて曰く、「漢王職を失ふ、関中を得んと欲す、約の如くならば即ち止まり、敢へて東せず。」と。又斉・梁の反書を以て項王に遺りて曰く、「斉趙と并せて楚を滅ぼさんと欲す。」と。楚此の故を以て西する意無く、而して北のかた斉を撃つ。兵を九江王布に徴す。布疾と称して往かず、将をして数千人を将ゐて行かしむ。項王此に由りて布を怨むなり。漢の二年冬、項羽遂に北して城陽に至る、田栄も亦兵を将ゐて会戦す。田栄勝たず、走りて平原に至る、平原の民之を殺す。遂に北して斉の城郭室屋を焼夷し、皆田栄の降卒を阬にし、其の老弱婦女を系虜す。斉を徇へて北海に至り、残滅する所多し。斉人相聚まりて之に叛く。是に於て田栄の弟田横斉の亡卒を収めて数万人を得、城陽に反す。項王因りて留まり、連戦して未だ下す能はず。春、漢王五諸侯の兵を部し、凡そ五十六万人、東のかた楚を伐つ。項王之を聞き、即ち諸将をして斉を撃たしめ、而して自ら精兵三万人を以て南のかた魯より胡陵に出づ。四月、漢皆已に彭城に入り、其の貨宝美人を収め、日に置酒高会す。項王乃ち西のかた蕭より、晨に漢の軍を撃ちて東し、彭城に至り、日中、大いに漢の軍を破る。
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史記 高祖本紀約に負き、更めて沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・漢中に王とし、南鄭に都せしむ。関中を三分し、秦の三将を立つ。章邯を雍王と為し、廃丘に都せしむ。司馬欣を塞王と為し、櫟陽に都せしむ。董翳を翟王と為し、高奴に都せしむ。楚の将瑕丘の申陽を河南王と為し、洛陽に都せしむ。趙の将司馬卬を殷王と為し、朝歌に都せしむ。趙王歇徙りて代に王たり。趙の相張耳を常山王と為し、襄国に都せしむ。当陽君黥布を九江王と為し、六に都せしむ。懐王の柱国共敖を臨江王と為し、江陵に都せしむ。番君呉芮を衡山王と為し、邾に都せしむ。燕の将臧荼を燕王と為し、薊に都せしむ。故の燕王韓広徙りて遼東に王たり。広聴かず、臧荼攻めて之を無終に殺す。成安君陳余を河間の三県に封じ、南皮に居らしむ。梅鋗を十万戸に封ず。四月、兵戯下に罷み、諸侯各々国に就く。漢王国に之く、項王卒三万人をして従はしむ、楚と諸侯の慕ひて従ふ者数万人、杜の南より蝕中に入る。去れば輒ち棧道を焼き絶ち、以て諸侯の盗兵の之を襲ふに備へ、亦項羽に東する意無きを示す。南鄭に至る、諸将及び士卒多く道に亡げ帰る、士卒皆歌ひて東帰を思ふ。韓信漢王に説きて曰く、「項羽諸将の功有る者を王とし、而して王独り南鄭に居る、是れ遷なり。軍吏士卒は皆山東の人なり、日夜跂ちて帰らんことを望む、其の鋒に及びて之を用ゐば、以て大功有るべし。天下已に定まらば、人皆自ら寧んじ、復た用ゐるべからず。策を決して東に郷ひ、天下に権を争ふに如かず。」と。項羽関を出で、人をして義帝を徙さしむ。曰く、「古の帝者は地方千里、必ず上游に居る。」と。乃ち使をして義帝を長沙の郴県に徙さしめ、義帝の行を趣す、群臣稍々之に倍叛す、乃ち陰かに衡山王・臨江王をして之を撃たしめ、義帝を江南に殺す。項羽田栄を怨み、斉の将田都を立てて斉王と為す。
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史記 高祖本紀項王漢王の父母妻子を帰す、軍中皆万歳を呼ぶ、乃ち帰りて別れ去る。項羽解きて東帰す。漢王引きて西帰せんと欲す、留侯・陳平の計を用ゐ、乃ち兵を進めて項羽を追ひ、陽夏の南に至りて軍を止め、斉王信・建成侯彭越と期会して楚の軍を撃たんとす。固陵に至る、会せず。楚漢の軍を撃ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして之を守る。張良の計を用ゐ、是に於て韓信・彭越皆往く。劉賈楚の地に入り、寿春を囲むに及び、漢王碧陵に敗れ、乃ち使者をして大司馬周殷を召さしめ九江の兵を挙げて(之)武王を迎へ、行くゆく城父を屠り、(何)劉賈・斉梁の諸侯に随ひて皆大いに垓下に会す。武王布を立てて淮南王と為す。五年、高祖諸侯の兵と共に楚の軍を撃ち、項羽と勝ちを垓下に決す。淮陰侯三十万を将ゐて自ら之に当たり、孔将軍左に居り、費将軍右に居り、皇帝後に在り、絳侯・柴将軍皇帝の後に在り。項羽の卒十万可り。淮陰先づ合し、利あらず、卻く。孔将軍・費将軍縦(はな)つ、楚の兵利あらず、淮陰侯復た之に乗じ、大いに垓下に敗る。項羽の卒漢軍の楚歌するを聞き、以為へらく漢尽く楚の地を得たりと、項羽乃ち敗れて走る、是を以て兵大いに敗る。騎将灌嬰をして項羽を東城に追殺せしめ、斬首八万、遂に楚の地を略定す。魯楚の為に堅守して下らず。漢王諸侯の兵を引きて北し、魯の父老に項羽の頭を示す、魯乃ち降る。遂に魯公の号を以て項羽を穀城に葬る。還りて定陶に至り、馳せて斉王の壁に入り、其の軍を奪ふ。正月、諸侯及び将相相与に共に漢王を尊びて皇帝と為さんことを請ふ。漢王曰く、「吾聞く帝は賢者之を有つと、空言虚語は、守る所に非ざるなり、吾敢へて帝位に当たらず。」と。
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