抱朴子外篇 / 詰鮑
然而士庶猶侯服鼎食,牛馬蓋澤,由於賦斂有節,不足損下也。至於季世,官失佃課之制,私務浮末之業,生谷之道不廣,而遊食之徒滋多,故上下同之,而犯非者眾,鮑生乃歸咎有君。若夫譏辨擇之過限,刺農課之不實,責牛飲之三千,貶履畝與太半,但使後宮依周禮,租調不橫加,斯則可矣。必無君乎!夫一日晏起,則事有失所,即鹿無虞,維入於林中,安可終已。靡所宗統,則君子失所仰,兇人得其誌,網疏猶漏,可都無網乎?」
新字:然而士庶猶侯服鼎食,牛馬蓋沢,由於賦斂有節,不足損下也。至於季世,官失佃課之制,私務浮末之業,生谷之道不広,而遊食之徒滋多,故上下同之,而犯非者衆,鮑生乃帰咎有君。若夫譏弁択之過限,刺農課之不実,責牛飲之三千,貶履畝与太半,但使後宮依周礼,租調不横加,斯則可矣。必無君乎!夫一日晏起,則事有失所,即鹿無虞,維入於林中,安可終已。靡所宗統,則君子失所仰,兇人得其誌,網疏猶漏,可都無網乎?」
書き下し
然れども士庶は猶お侯服鼎食し、牛馬沢を蓋う、賦斂に節有りて、下を損なうに足らざるに由る。季世に至りては、官は佃課の制を失い、私は浮末の業を務め、穀を生ずるの道広からず、而して遊食の徒滋ます多し。故に上下同じく之にして、非を犯す者衆し。鮑生乃ち咎を有君に帰す。若し夫れ辨擇の限りを過ぐるを譏り、農課の実ならざるを刺り、牛飲の三千を責め、履畝を太半に貶めば、但だ後宮をして周礼に依らしめ、租調横に加えざらしむれば、斯れ則ち可なり。必ず無君ならんや。夫れ一日晏く起くれば、則ち事に所を失う有り。即鹿に虞無くんば、維れ林中に入る、安くんぞ終に已む可けんや。宗統する所靡ければ、則ち君子は仰ぐ所を失い、兇人は其の志を得ん。網疏なるも猶お漏る、都て網無かる可けんや」と。
現代語訳
それでも士も庶民も、なお侯の服を着て鼎で食べ、牛馬は沢を覆うほどだったのは、賦役の取り立てに節度があって、下を損なうほどではなかったからである。末世に至っては、官は農事の課役の制を失い、私は枝葉の業に励み、穀物を生む道は広がらず、遊んで食べる者がいよいよ増えた。そのため上も下も同じようになり、法を犯す者が多くなった。鮑生はその咎を君主がいることに帰す。もし選び整えることが限度を超えるのを譏り、農事の課役が実質を欠くのを批判し、三千人の牛飲を責め、畝を履んで税を取るのを大半から減らすのならば、ただ後宮を周礼に従わせ、租税を不当に加えないようにすれば、それで足りる。君主がいなくてもよいと必ず言えるだろうか。一日でも遅く起きれば、事に所を失うことがある。鹿を追うのに虞人がいなければ、林の中に入るだけで、どうして終わることがあろうか。宗とする統べがなければ、君子は仰ぐところを失い、凶人は志を遂げる。網が粗くてもなお漏れるのだ。まったく網をなくしてよいものだろうか」と。
解説
この章句が説くこと
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史記 高祖本紀田栄怒り、因りて自ら立ちて斉王と為り、田都を殺して楚に反す。彭越に将軍の印を予へ、梁の地に反せしむ。楚蕭公角をして彭越を撃たしむ、彭越大いに之を破る。陳余項羽の己を王とせざるを怨み、夏説をして田栄に説かしめ、兵を請ひて張耳を撃たんとす。斉陳余に兵を予へ、常山王張耳を撃破す、張耳亡げて漢に帰す。趙王歇を代に迎へ、復た立てて趙王と為す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。項羽大いに怒り、北のかた斉を撃つ。八月、漢王韓信の計を用ゐ、故道より還り、雍王章邯を襲ふ。邯漢を陳倉に迎撃す、雍の兵敗れ、還り走る。止まりて好畤に戦ふ、又復た敗れ、廃丘に走る。漢王遂に雍の地を定む。東して咸陽に至り、兵を引きて雍王を廃丘に囲み、而して諸将を遣はして隴西・北地・上郡を略定せしむ。将軍薛欧・王吸をして武関を出でしめ、王陵の兵の南陽に在るに因り、以て太公・呂后を沛に迎へしむ。楚之を聞き、兵を発して之を陽夏に距ぐ、前むを得ず。故の呉の令鄭昌をして韓王と為し、漢の兵を距がしむ。二年、漢王東のかた地を略す、塞王欣・翟王翳・河南王申陽皆降る。韓王昌聴かず、韓信をして撃ちて之を破らしむ。是に於て隴西・北地・上郡・渭南・河上・中地の郡を置く。関外に河南郡を置く。更めて韓の太尉信を立てて韓王と為す。諸将の万人若しくは一郡を以て降る者は、万戸に封ず。河上の塞を繕治す。諸々の故の秦の苑囿園池は、皆人をして之を田(たがや)すを得しむ。正月、雍王の弟章平を虜にす。大いに罪人を赦す。漢王の関を出でて陝に至るや、関外の父老を撫し、還るに、張耳来り見ゆ、漢王厚く之を遇す。二月、秦の社稷を除き、更めて漢の社稷を立てしむ。三月、漢王臨晋より渡る、魏王豹兵を将ゐて従ふ。河内を下し、殷王を虜にし、河内郡を置く。南のかた平陰津を渡り、雒陽に至る。
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『講孟余話』萬章上 第三章「之れを親しみて其の貴からんことを欲す」。身天子たり、弟匹夫たらば、親しまんと欲すと雖も、貴賤懸隔にして、勢ひ相親しむこと能はず、故に是れを貴くするとなり。「天子吏をして其の国を治めしめ、而して其の貢税を納めしむ」。明の王陽明の象祠記に、漢の諸王に天子より相を置くは、舜の象に於けるに倣ふならんとあり。是れ実に良法と云ふべし。徳川氏の三家其の他の親藩に於ける附家老あり、亦此の意ならん。但し漢の国相は時々にて転移す、徳川氏の附家老は世襲とす、是れを異なりとす。舜の吏如何を知るべからずと雖も、臆を以て是れを度るに、亦漢の国相の如くにして、世襲には非ざるべし。註に呉氏曰く、「仁の至り、義の尽くせるなり」と。之れを有庳に封じ以て富貴にするは、仁の至れるなり。吏をして其の国を治めしめ、其の国になすある能はざらしむるは、義の尽くせるなり。唐の明皇の長枕大被を作り、兄弟同寝するは、仁をなさんと欲して仁にあらず。又漢の景帝の梁王に於ける、始めは之れを縦にすること太だ過ぎ、之れを仁と云ふべからず。後には之れを窘むること太だ峻し、義又之れを失ふ。明皇・景帝の説は語類に原づく。
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『政談』浪人並に道心者締り等の事寺の召使ひに刀指を召し置くこと、僧の供に刀脇指なしたるものを召しつるゝこと御門跡の外は院家たりとも禁制あるへきことなり、寺領に代官を差置くこと是亦あるましきことなり、近村の御領私領より支配して年貢はかりを其の寺に渡すへきことなり、寺社門跡を寺社奉行の支配とすること是亦一とうに町奉行の支配なるへし、仔細は殺生戒を第一とし、一大蔵経の内に国を治むる道は一句も之なく、公法の咎人をもちひのために命を貰ひ、或はかまひこれあるものをも詫言をすること当時僧の所作なり、土地を持ちて民を支配するときは刑罰なくては法は立たぬ事なり、刀指したるものを召し仕ふ上は事により切腹も申し付けすして叶はさること之あり、帯剣のものを供につれて供先にて何の用にか立つ、これによりて覚彦比丘は一生の間供のものに脇指をさゝせす、此等はたゝ武家の真似をすると云ふものにして全く仏法の衰廃なり、仏法を崇敬する上にても此等は制すへきことなり、寺領を寺より支配するゆゑ、寺社領に悪人多くかくれ居、田舎にても寺社領へは守護の手入り兼、これによりて災も起り、国主の政道も行きわたらす、兎角寺社領は近所の御領私領にあつけ支配すべきと也、
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人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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