史記 / 項羽本紀
漢將紀信說漢王曰:「事已急矣,請為王誑楚為王,王可以閒出。」於是漢王夜出女子滎陽東門被甲二千人,楚兵四面擊之。紀信乘黃屋車,傅左纛,曰:「城中食盡,漢王降。」楚軍皆呼萬歲。漢王亦與數十騎從城西門出,走成皋。項王見紀信,問:「漢王安在?」曰:「漢王已出矣。」項王燒殺紀信。漢王使御史大夫周苛、樅公、魏豹守滎陽。周苛、樅公謀曰:「反國之王,難與守城。」乃共殺魏豹。楚下滎陽城,生得周苛。項王謂周苛曰:「為我將,我以公為上將軍,封三萬戶。」周苛罵曰:「若不趣降漢,漢今虜若,若非漢敵也。」項王怒,烹周苛,井殺樅公。漢王之出滎陽,南走宛、葉,得九江王布,行收兵,復入保成皋。漢之四年,項王進兵圍成皋。漢王逃,獨與滕公出成皋北門,渡河走修武,從張耳、韓信軍。諸將稍稍得出成皋,從漢王。楚遂拔成皋,欲西。漢使兵距之鞏,令其不得西。是時,彭越渡河擊楚東阿,殺楚將軍薛公。項王乃自東擊彭越。漢王得淮陰侯兵,欲渡河南。鄭忠說漢王,乃止壁河內。使劉賈將兵佐彭越,燒楚積聚。項王東擊破之,走彭越。漢王則引兵渡河,復取成皋,軍廣武,就敖倉食。項王已定東海來,西,與漢俱臨廣武而軍,相守數月。
新字:漢将紀信説漢王曰:「事已急矣,請為王誑楚為王,王可以閒出。」於是漢王夜出女子滎陽東門被甲二千人,楚兵四面撃之。紀信乗黄屋車,傅左纛,曰:「城中食尽,漢王降。」楚軍皆呼万歳。漢王亦与数十騎従城西門出,走成皋。項王見紀信,問:「漢王安在?」曰:「漢王已出矣。」項王焼殺紀信。漢王使御史大夫周苛、樅公、魏豹守滎陽。周苛、樅公謀曰:「反国之王,難与守城。」乃共殺魏豹。楚下滎陽城,生得周苛。項王謂周苛曰:「為我将,我以公為上将軍,封三万戸。」周苛罵曰:「若不趣降漢,漢今虜若,若非漢敵也。」項王怒,烹周苛,井殺樅公。漢王之出滎陽,南走宛、葉,得九江王布,行収兵,復入保成皋。漢之四年,項王進兵囲成皋。漢王逃,独与滕公出成皋北門,渡河走修武,従張耳、韓信軍。諸将稍稍得出成皋,従漢王。楚遂抜成皋,欲西。漢使兵距之鞏,令其不得西。是時,彭越渡河撃楚東阿,殺楚将軍薛公。項王乃自東撃彭越。漢王得淮陰侯兵,欲渡河南。鄭忠説漢王,乃止壁河内。使劉賈将兵佐彭越,焼楚積聚。項王東撃破之,走彭越。漢王則引兵渡河,復取成皋,軍広武,就敖倉食。項王已定東海来,西,与漢倶臨広武而軍,相守数月。
書き下し
漢の将紀信漢王に説きて曰く、「事已に急なり、請ふ王の為に楚を誑(あざむ)きて王と為らん、王以て間より出づべし。」と。是に於て漢王夜女子の甲を被たる二千人を滎陽の東門より出だす、楚の兵四面より之を撃つ。紀信黄屋の車に乗り、左纛を傅けて、曰く、「城中食尽く、漢王降る。」と。楚の軍皆万歳を呼ぶ。漢王も亦数十騎と城の西門より出で、成皋に走る。項王紀信を見て、問ふ、「漢王安くに在る。」と。曰く、「漢王已に出でたり。」と。項王紀信を焼殺す。漢王御史大夫周苛・樅公・魏豹をして滎陽を守らしむ。周苛・樅公謀りて曰く、「反国の王は、与に城を守り難し。」と。乃ち共に魏豹を殺す。楚滎陽城を下し、周苛を生け得たり。項王周苛に謂ひて曰く、「我が為に将たれ、我公を以て上将軍と為し、三万戸に封ぜん。」と。周苛罵りて曰く、「若(なんぢ)趣(すみや)かに漢に降らずんば、漢今に若を虜にせん、若は漢の敵に非ざるなり。」と。項王怒り、周苛を烹、并せて樅公を殺す。漢王の滎陽を出づるや、南のかた宛・葉に走り、九江王布を得て、行くゆく兵を収め、復た入りて成皋を保つ。漢の四年、項王兵を進めて成皋を囲む。漢王逃れ、独り滕公と成皋の北門を出で、河を渡りて修武に走り、張耳・韓信の軍に従ふ。諸将稍稍成皋を出づるを得て、漢王に従ふ。楚遂に成皋を抜き、西せんと欲す。漢兵をして之を鞏に距がしめ、其れをして西するを得ざらしむ。是の時、彭越河を渡りて楚の東阿を撃ち、楚の将軍薛公を殺す。項王乃ち自ら東のかた彭越を撃つ。漢王淮陰侯の兵を得て、河を渡りて南せんと欲す。鄭忠漢王に説き、乃ち止まりて河内に壁す。劉賈をして兵を将ゐて彭越を佐け、楚の積聚を焼かしむ。項王東のかた撃ちて之を破り、彭越を走らす。漢王則ち兵を引きて河を渡り、復た成皋を取り、広武に軍し、敖倉に就きて食ふ。項王已に東海を定めて来り、西し、漢と倶に広武に臨みて軍し、相守ること数月。
現代語訳
漢の将軍紀信が漢王に説いた。「事態はもう切迫している。どうか私が王の身代わりとなって楚をだまさせてほしい。王はその間に抜け出せる」。そこで漢王は夜、鎧を着せた女性二千人を滎陽の東門から出した。楚の兵は四方からこれを攻撃した。紀信は王の乗る黄色い屋根の車に乗り、車の左に王の旗飾りを付けて、「城中の食糧は尽きた。漢王は降伏する」と言った。楚の軍は皆万歳を叫んだ。その間に漢王もまた数十騎とともに城の西門から出て、成皋へ逃げた。項王は紀信を見て、「漢王はどこにいる」と尋ねた。紀信は「漢王はもう出て行った」と答えた。項王は紀信を焼き殺した。漢王は御史大夫の周苛、樅公、魏豹に滎陽を守らせた。周苛と樅公は相談して「一度国を裏切った王とは、ともに城を守るのは難しい」と言い、二人で魏豹を殺した。楚は滎陽城を落とし、周苛を生け捕りにした。項王は周苛に言った。「私の将軍になれ。お前を上将軍にし、三万戸に封じてやろう」。周苛は罵って言った。「お前こそ早く漢に降らなければ、漢はいまにお前を捕虜にするぞ。お前は漢の敵ではない」。項王は怒って周苛を釜ゆでにし、樅公も一緒に殺した。漢王は滎陽を出ると、南の宛・葉へ逃れ、九江王黥布を味方に得て、道々兵を集め、再び成皋に入って守りを固めた。漢の四年(前203年)、項王は兵を進めて成皋を包囲した。漢王は逃れ、ただ一人滕公とともに成皋の北門を出て、黄河を渡って修武へ走り、張耳と韓信の軍に身を寄せた。将たちも少しずつ成皋を脱出し、漢王のもとに集まった。楚はついに成皋を落とし、西へ進もうとした。漢は兵を送って鞏でこれを防ぎ、西へ進めないようにした。このとき、彭越が黄河を渡って楚の東阿を攻め、楚の将軍薛公を殺した。項王はそこで自ら東へ向かい彭越を攻めた。漢王は淮陰侯(韓信)の兵を手に入れ、黄河を渡って南へ進もうとした。鄭忠が漢王に説いたので、とどまって河内に砦を築いた。劉賈に兵を率いさせて彭越を助けさせ、楚の蓄えた物資を焼かせた。項王は東へ向かってこれを攻め破り、彭越を敗走させた。漢王はそこで兵を率いて黄河を渡り、再び成皋を取り、広武に陣を置いて、敖倉の穀物で兵を養った。項王は東海の地を平定して戻ってくると、西へ進み、漢と同じく広武に臨んで陣を置き、互いににらみ合うこと数か月に及んだ。
解説
関連する章句
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史記 高祖本紀御史大夫周苛・魏豹・樅公をして滎陽を守らしむ。諸将卒の従ふ能はざる者、尽く城中に在り。周苛・樅公相謂ひて曰く、「反国の王は、与に城を守り難し。」と。因りて魏豹を殺す。漢王の滎陽を出でて関に入るや、兵を収めて復た東せんと欲す。袁生漢王に説きて曰く、「漢楚と滎陽に相距ぐこと数歳、漢常に困しむ。願はくは君王武関を出でよ、項羽必ず兵を引きて南に走らん、王壁を深くし、滎陽・成皋の間をして且く休むを得しめよ。韓信等をして河北の趙の地を輯め、燕・斉に連ならしめ、君王乃ち復た滎陽に走るも、未だ晩からざるなり。此くの如くせば、則ち楚の備ふる所の者多く、力分かれ、漢休むを得て、復た之と戦はば、楚を破ること必せり。」と。漢王其の計に従ひ、軍を宛・葉の間に出だし、黥布と行くゆく兵を収む。項羽漢王の宛に在るを聞き、果たして兵を引きて南す。漢王壁を堅くして与に戦はず。是の時彭越睢水を渡り、項声・薛公と下邳に戦ひ、彭越大いに楚の軍を破る。項羽乃ち兵を引きて東のかた彭越を撃つ。漢王も亦兵を引きて北し成皋に軍す。項羽已に彭越を破り走らせ、漢王復た成皋に軍すと聞き、乃ち復た兵を引きて西し、滎陽を抜き、周苛・樅公を誅し、而して韓王信を虜にし、遂に成皋を囲む。漢王跳(のが)れ、独り滕公と車を共にして成皋の玉門を出で、北のかた河を渡り、馳せて修武に宿す。自ら使者と称し、晨に馳せて張耳・韓信の壁に入り、而して其の軍を奪ふ。乃ち張耳をして北のかた益々兵を趙の地に収めしめ、韓信をして東のかた斉を撃たしむ。漢王韓信の軍を得て、則ち復た振るふ。兵を引きて河に臨み、南のかた軍を小修武の南に饗し、復た戦はんと欲す。郎中鄭忠乃ち説きて漢王を止め、塁を高くし塹を深くして、与に戦ふ勿からしむ。漢王其の計を聴き、盧綰・劉賈をして卒二万人、騎数百を将ゐて、白馬津を渡り、楚の地に入らしむ、彭越と復た楚の軍を燕郭の西に撃破し、遂に復た梁の地十余城を下す。淮陰已に命を受けて東す、未だ平原を渡らず。
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史記 高祖本紀敗れて後乃ち独り孝恵を得たり、六月、立てて太子と為し、大いに罪人を赦す。太子をして櫟陽を守らしめ、諸侯の子の関中に在る者皆櫟陽に集まりて衛と為る。水を引きて廃丘に灌ぐ、廃丘降り、章邯自殺す。廃丘を更名して槐里と為す。是に於て祠官をして天地四方上帝山川を祀らしめ、時を以て之を祀る。関内の卒を興して塞に乗らしむ。是の時九江王布龍且と戦ひ、勝たず、随何と間行して漢に帰す。漢王稍々士卒を収め、諸将及び関中の卒と益々出づ、是を以て兵大いに滎陽に振るひ、楚を京・索の間に破る。三年、魏王豹謁して帰りて親の疾を視んとす、至れば即ち河津を絶ち、反きて楚と為る。漢王酈生をして豹に説かしむ、豹聴かず。漢王将軍韓信を遣はして撃たしめ、大いに之を破り、豹を虜にす。遂に魏の地を定め、三郡を置く、河東・太原・上党と曰ふ。漢王乃ち張耳と韓信とをして遂に東のかた井陘を下りて趙を撃たしめ、陳余・趙王歇を斬る。其の明年、張耳を立てて趙王と為す。漢王滎陽の南に軍し、甬道を築きて之を河に属し、以て敖倉を取る。項羽と相距ぐこと歳余。項羽数(しばしば)漢の甬道を侵奪す、漢の軍食に乏し、遂に漢王を囲む。漢王和を請ひ、滎陽以西を割く者を漢と為さんとす。項王聴かず。漢王之を患ひ、乃ち陳平の計を用ゐ、陳平に金四万斤を予へ、以て楚の君臣を間疏せしむ。是に於て項羽乃ち亜父を疑ふ。亜父是の時項羽に遂に滎陽を下さんことを勧む、其の疑はるるに及び、乃ち怒り、老を辞し、骸骨を賜ひて卒伍に帰らんことを願ふ、未だ彭城に至らずして死す。漢の軍食を絶つ、乃ち夜女子を東門より出だすこと二千余人、甲を被らしむ、楚因りて四面より之を撃つ。将軍紀信乃ち王の駕に乗り、詐りて漢王と為り、楚を誑す、楚皆万歳を呼び、城東に之きて観る、故を以て漢王数十騎と西門より出でて遁るるを得たり。
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史記 高祖本紀漢王酈生をして往きて斉王田広に説かしむ、広楚に叛き、漢と和し、共に項羽を撃たんとす。韓信蒯通の計を用ゐ、遂に襲ひて斉を破る。斉王酈生を烹、東のかた高密に走る。項羽韓信已に河北の兵を挙げて斉・趙を破り、且に楚を撃たんと欲すと聞き、則ち龍且・周蘭をして往きて之を撃たしむ。韓信与に戦ふ、騎将灌嬰撃ちて、大いに楚の軍を破り、龍且を殺す。斉王広彭越に奔る。此の時に当たりて、彭越兵を将ゐて梁の地に居り、往来して楚の兵を苦しめ、其の糧食を絶つ。四年、項羽乃ち海春侯大司馬曹咎に謂ひて曰く、「謹みて成皋を守れ。若し漢挑戦すとも、慎みて与に戦ふ勿かれ、東するを得しむる無きのみ。我十五日にして必ず梁の地を定め、復た将軍に従はん。」と。乃ち行きて陳留・外黄・睢陽を撃ち、之を下す。漢果たして数(しばしば)楚の軍に挑む、楚の軍出でず、人をして之を辱めしむること五六日、大司馬怒り、兵を汜水に度す。士卒半ば渡る、漢之を撃ち、大いに楚の軍を破り、尽く楚国の金玉貨賂を得たり。大司馬咎・長史欣皆汜水の上に自剄す。項羽睢陽に至り、海春侯の破るるを聞き、乃ち兵を引きて還る。漢の軍方に鍾離眛を滎陽の東に囲む、項羽至る、尽く険阻に走る。韓信已に斉を破り、人をして言はしめて曰く、「斉は楚に辺し、権軽し、仮王と為らずんば、恐らくは斉を安んずる能はざらん。」と。漢王之を攻めんと欲す。留侯曰く、「因りて之を立て、自ら守りを為さしむるに如かず。」と。乃ち張良を遣はして印綬を操りて韓信を立てて斉王と為す。項羽龍且の軍の破るるを聞き、則ち恐れ、盱台の人武渉をして往きて韓信に説かしむ。韓信聴かず。楚漢久しく相持して未だ決せず、丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転饟に罷る。漢王・項羽相与に広武の間に臨みて語る。項羽漢王と独身にて挑戦せんと欲す。
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史記 項羽本紀漢の軍皆走り、相随ひて穀・泗水に入り、漢の卒十余万人を殺す。漢の卒皆南のかた山に走る、楚又追撃して霊壁の東睢水の上に至る。漢の軍卻き、楚の擠す所と為り、多く殺さる、漢の卒十余万人皆睢水に入り、睢水之が為に流れず。漢王を囲むこと三匝。是に於て大風西北より起こり、木を折り屋を発し、沙石を揚げ、窈冥にして昼晦く、楚の軍に逢迎す。楚の軍大いに乱れ、壊散す、而して漢王乃ち数十騎と遁れ去るを得たり、沛を過ぎ、家室を収めて西せんと欲す。楚も亦人をして之を沛に追はしめ、漢王の家を取らんとす。家皆亡げ、漢王と相見えず。漢王道に孝恵・魯元に逢ひ得て、乃ち載せて行く。楚の騎漢王を追ふ、漢王急にして、孝恵・魯元を車下に推し墮す、滕公常に下りて収めて之を載す。是くの如き者三たび。曰く、「急なりと雖も以て駆るべからず、柰何ぞ之を棄てん。」と。是に於て遂に脱するを得たり。太公・呂后を求むるも相遇はず。審食其太公・呂后に従ひて間行し、漢王を求む、反りて楚の軍に遇ふ。楚の軍遂に与に帰り、項王に報ず、項王常に軍中に置く。是の時呂后の兄周呂侯漢の為に兵を将ゐて下邑に居る、漢王間かに往きて之に従ひ、稍稍其の士卒を収む。滎陽に至り、諸々の敗軍皆会す、蕭何も亦関中の老弱の未だ傅せざる者を発して悉く滎陽に詣らしめ、復た大いに振るふ。楚彭城より起こり、常に勝ちに乗じて北ぐるを逐ひ、漢と滎陽の南京・索の間に戦ふ、漢楚を敗る、楚故を以て滎陽を過ぎて西する能はず。項王の彭城を救ひ、漢王を追ひて滎陽に至る、田横も亦斉を収むるを得て、田栄の子広を立てて斉王と為す。漢王の彭城に敗るるや、諸侯皆復た楚に与して漢に背く。漢滎陽に軍し、甬道を築きて之を河に属し、以て敖倉の粟を取る。漢の三年、項王数(しばしば)漢の甬道を侵奪す、漢王食乏しく、恐れ、和を請ひ、滎陽以西を割きて漢と為さんとす。
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史記 魏豹彭越列伝千余人を得たり。沛公の碭より北のかた昌邑を撃つや、彭越之を助く。昌邑未だ下らず、沛公兵を引きて西す。彭越も亦其の衆を将ゐて鉅野の中に居り、魏の散卒を収む。項籍関に入り、諸侯に王とし、還り帰る。彭越の衆万余人属する所毋し。漢の元年秋、斉王田栄項王に畔き、乃ち人をして彭越に将軍の印を賜はしめ、済陰を下して以て楚を撃たしむ。楚、蕭公角をして兵を将ゐて越を撃たしむ。越大いに楚軍を破る。漢王の二年春、魏王豹及び諸侯と東のかた楚を撃つ。彭越其の兵三万余人を将ゐて漢に外黄に帰す。漢王曰く、「彭将軍魏の地を収めて十余城を得、急ぎ魏の後を立てんと欲す。今西魏王豹も亦魏王咎の従弟なり。真の魏の後なり」と。乃ち彭越を拝して魏の相国と為し、其の兵を擅に将ゐて、梁の地を略定せしむ。漢王の彭城に敗れて解けて西するや、彭越皆復た其の下す所の城を亡ひ、独り其の兵を将ゐて北のかた河上に居る。漢王の三年、彭越常に往来して漢の游兵と為り、楚を撃ち、其の後糧を梁の地に絶つ。漢の四年冬、項王と漢王と滎陽に相距ぐ。彭越睢陽・外黄の十七城を攻め下す。項王之を聞き、乃ち曹咎をして成皋を守らしめ、自ら東して彭越の下す所の城邑を収め、皆復た楚と為す。越其の兵を将ゐて北のかた穀城に走る。漢の五年秋、項王の南のかた陽夏に走るや、彭越復た昌邑の旁の二十余城を下し、穀十余万斛を得て、以て漢王の食に給す。漢王敗れ、使をして彭越を召して力を并せて楚を撃たしめんとす。越曰く、「魏の地初めて定まり、尚ほ楚を畏る。未だ去るべからず」と。漢王楚を追ひ、項籍の為に碧陵に敗らる。乃ち留侯に謂ひて曰く、「諸侯の兵従はず。之を為すこと柰何」と。留侯曰く、「斉王信の立つは、君王の意に非ず。信も亦自ら堅からず。
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史記 項羽本紀曰く、「此れ天下の辯士なり、居る所国を傾く、故に号して平国君と為す。」と。項王已に約し、乃ち兵を引きて解きて東帰す。漢西帰せんと欲す、張良・陳平説きて曰く、「漢天下の太半を有ち、而して諸侯皆之に附く。楚の兵罷れ食尽く、此れ天の楚を亡ぼすの時なり、其の機に因りて遂に之を取るに如かず。今釈きて撃たずんば、此れ所謂『虎を養ひて自ら患ひを遺す』なり。」と。漢王之を聴く。漢の五年、漢王乃ち項王を追ひて陽夏の南に至り、軍を止め、淮陰侯韓信・建成侯彭越と期会して楚の軍を撃たんとす。固陵に至り、而して信・越の兵会せず。楚漢の軍を撃ち、大いに之を破る。漢王復た壁に入り、塹を深くして自ら守る。張子房に謂ひて曰く、「諸侯約に従はず、之を為すこと柰何。」と。対へて曰く、「楚の兵且に破れんとす、信・越未だ分地有らず、其の至らざること固より宜なり。君王能く与に天下を共分せば、今立ちどころに致すべきなり。即し能はずんば、事未だ知るべからざるなり。君王能く陳より以東海に傅(つ)くまでを、尽く韓信に与へ、睢陽以北穀城に至るまでを、以て彭越に与へ、各々自ら戦ひを為さしめば、則ち楚敗り易きなり。」と。漢王曰く、「善し。」と。是に於て乃ち使者を発して韓信・彭越に告げて曰く、「力を并せて楚を撃て。楚破れば、陳より以東海に傅くまでを斉王に与へ、睢陽以北穀城に至るまでを彭相国に与へん。」と。使者至る、韓信・彭越皆報じて曰く、「請ふ今兵を進めん。」と。韓信乃ち斉より往き、劉賈の軍寿春より并行し、城父を屠りて、垓下に至る。大司馬周殷楚に叛き、舒を以て六を屠り、九江の兵を挙げ、劉賈・彭越に随ひて皆垓下に会し、項王に詣る。項王の軍垓下に壁す、兵少なく食尽く、漢の軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重。夜漢の軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや。」と。項王則ち夜起きて、帳中に飲む。
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