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史記 / 項羽本紀

聞大王起兵,且不聽不義,願大王資餘兵,請以擊常山,以復趙王,請以國為捍蔽。」齊王許之,因遣兵之趙。陳餘悉發三縣兵,與齊并力擊常山,大破之。張耳走歸漢。陳餘迎故趙王歇於代,反之趙。趙王因立陳餘為代王。是時,漢還定三秦。項羽聞漢王皆已并關中,且東,齊、趙叛之:大怒。乃以故吳令鄭昌為韓王,以距漢。令蕭公角等擊彭越。彭越敗蕭公角等。漢使張良徇韓,乃遺項王書曰:「漢王失職,欲得關中,如約即止,不敢東。」又以齊、梁反書遺項王曰:「齊欲與趙并滅楚。」楚以此故無西意,而北擊齊。徵兵九江王布。布稱疾不往,使將將數千人行。項王由此怨布也。漢之二年冬,項羽遂北至城陽,田榮亦將兵會戰。田榮不勝,走至平原,平原民殺之。遂北燒夷齊城郭室屋,皆阬田榮降卒,系虜其老弱婦女。徇齊至北海,多所殘滅。齊人相聚而叛之。於是田榮弟田橫收齊亡卒得數萬人,反城陽。項王因留,連戰未能下。春,漢王部五諸侯兵,凡五十六萬人,東伐楚。項王聞之,即令諸將擊齊,而自以精兵三萬人南從魯出胡陵。四月,漢皆已入彭城,收其貨寶美人,日置酒高會。項王乃西從蕭,晨擊漢軍而東,至彭城,日中,大破漢軍。

新字:聞大王起兵,且不聴不義,願大王資余兵,請以撃常山,以復趙王,請以国為捍蔽。」斉王許之,因遣兵之趙。陳余悉発三県兵,与斉并力撃常山,大破之。張耳走帰漢。陳余迎故趙王歇於代,反之趙。趙王因立陳余為代王。是時,漢還定三秦。項羽聞漢王皆已并関中,且東,斉、趙叛之:大怒。乃以故呉令鄭昌為韓王,以距漢。令蕭公角等撃彭越。彭越敗蕭公角等。漢使張良徇韓,乃遺項王書曰:「漢王失職,欲得関中,如約即止,不敢東。」又以斉、梁反書遺項王曰:「斉欲与趙并滅楚。」楚以此故無西意,而北撃斉。徴兵九江王布。布称疾不往,使将将数千人行。項王由此怨布也。漢之二年冬,項羽遂北至城陽,田栄亦将兵会戦。田栄不勝,走至平原,平原民殺之。遂北焼夷斉城郭室屋,皆阬田栄降卒,系虜其老弱婦女。徇斉至北海,多所残滅。斉人相聚而叛之。於是田栄弟田横収斉亡卒得数万人,反城陽。項王因留,連戦未能下。春,漢王部五諸侯兵,凡五十六万人,東伐楚。項王聞之,即令諸将撃斉,而自以精兵三万人南従魯出胡陵。四月,漢皆已入彭城,収其貨宝美人,日置酒高会。項王乃西従蕭,晨撃漢軍而東,至彭城,日中,大破漢軍。

書き下し

大王兵を起こし、且つ不義を聴かずと聞く、願はくは大王余に兵を資し、請ふ以て常山を撃ち、以て趙王を復せん、請ふ国を以て捍蔽と為さん。」と。斉王之を許し、因りて兵を遣はして趙に之かしむ。陳余悉く三県の兵を発し、斉と力を并せて常山を撃ち、大いに之を破る。張耳走りて漢に帰す。陳余故の趙王歇を代に迎へ、之を趙に反す。趙王因りて陳余を立てて代王と為す。是の時、漢還りて三秦を定む。項羽漢王皆已に関中を并せ、且に東せんとし、斉・趙之に叛くを聞き、大いに怒る。乃ち故の呉の令鄭昌を以て韓王と為し、以て漢を距がしむ。蕭公角等をして彭越を撃たしむ。彭越蕭公角等を敗る。漢張良をして韓を徇へしめ、乃ち項王に書を遺りて曰く、「漢王職を失ふ、関中を得んと欲す、約の如くならば即ち止まり、敢へて東せず。」と。又斉・梁の反書を以て項王に遺りて曰く、「斉趙と并せて楚を滅ぼさんと欲す。」と。楚此の故を以て西する意無く、而して北のかた斉を撃つ。兵を九江王布に徴す。布疾と称して往かず、将をして数千人を将ゐて行かしむ。項王此に由りて布を怨むなり。漢の二年冬、項羽遂に北して城陽に至る、田栄も亦兵を将ゐて会戦す。田栄勝たず、走りて平原に至る、平原の民之を殺す。遂に北して斉の城郭室屋を焼夷し、皆田栄の降卒を阬にし、其の老弱婦女を系虜す。斉を徇へて北海に至り、残滅する所多し。斉人相聚まりて之に叛く。是に於て田栄の弟田横斉の亡卒を収めて数万人を得、城陽に反す。項王因りて留まり、連戦して未だ下す能はず。春、漢王五諸侯の兵を部し、凡そ五十六万人、東のかた楚を伐つ。項王之を聞き、即ち諸将をして斉を撃たしめ、而して自ら精兵三万人を以て南のかた魯より胡陵に出づ。四月、漢皆已に彭城に入り、其の貨宝美人を収め、日に置酒高会す。項王乃ち西のかた蕭より、晨に漢の軍を撃ちて東し、彭城に至り、日中、大いに漢の軍を破る。

現代語訳

(陳余の使者は続けた。)「大王(田栄)が兵を起こし、しかも不義に従わないと聞いた。どうか大王、私に兵をお貸しいただきたい。それで常山を撃って趙王を元に戻し、趙の国を斉の防壁としたい」。斉王田栄はこれを許し、兵を趙に派遣した。陳余は三県の兵をすべて動員し、斉と力を合わせて常山を攻め、大いにこれを破った。張耳は逃げて漢に帰順した。陳余はもとの趙王歇を代から迎えて趙に戻した。趙王はそこで陳余を代王に立てた。このとき、漢は関中に引き返して三秦(雍・塞・翟の三国)を平定した。項羽は、漢王がすでに関中をすべて併せてさらに東へ向かおうとしており、斉と趙が背いたと聞いて、大いに怒った。そこでもとの呉県の県令の鄭昌を韓王として漢を防がせた。また蕭公角らに彭越を攻めさせたが、彭越は蕭公角らを打ち破った。漢は張良に韓の地を従えさせ、張良は項王に手紙を送って言った。「漢王は本来与えられるべき地位を失ったので、関中を得たいと望んだだけだ。約束通りにしてもらえればそこで止まり、東へ進むことはしない」。さらに斉と梁の反乱の書状を項王に送って言った。「斉は趙と連合して楚を滅ぼそうとしている」。楚はそのために西へ向かう気をなくし、北の斉を攻めた。九江王黥布に出兵を求めたが、黥布は病と称して行かず、部将に数千人を率いさせて行かせた。項王はこのことから黥布を恨むようになった。漢の二年(前205年)冬、項羽はついに北上して城陽に至り、田栄もまた兵を率いて迎え撃った。田栄は勝てず、逃げて平原に至ったが、平原の民が田栄を殺した。項羽はそのまま北上して斉の城郭や家屋を焼き払い、降伏した田栄の兵を皆生き埋めにし、老人・子ども・女性を縛って捕虜にした。斉の各地を攻め従えて北海に至るまで、多くの所を破壊し尽くした。斉の人々は集まって項羽に背いた。そこで田栄の弟の田横が斉の敗残兵を集めて数万人を得、城陽で反旗を翻した。項王はそのためにとどまって何度も戦ったが、落とすことができなかった。春、漢王は五つの諸侯の兵を率い、総勢五十六万人で東へ進み楚を討った。項王はこれを聞くと、すぐに将たちに斉を攻めさせ、自らは精兵三万人を率いて南へ向かい、魯から胡陵に出た。四月、漢軍はすでに皆彭城に入り、財宝や美女を奪い取り、毎日盛大な酒宴を開いていた。項王はそこで西の蕭から早朝に漢軍を攻撃して東へ進み、彭城に至って、日中までに漢軍を大いに破った。

解説

楚漢戦争の序盤、項羽が斉の反乱に足を取られるうちに劉邦が関中を奪い、東へ攻め上る段です。張良は項羽に手紙を送り、漢は約束通り関中だけを望み東へは来ないと油断させ、斉の反乱に目を向けさせました。項羽は斉で降伏兵を生き埋めにし、老人や女性まで捕虜にしたため、斉の人々は再び背き、田横の抵抗で身動きが取れなくなります。その間に劉邦は五諸侯の兵五十六万を率いて楚の都彭城を占領しました。しかし彭城で財宝と美女に浮かれて宴を続けた漢軍を、項羽はわずか三万の精兵で急襲し、半日で打ち破ります。この彭城の戦いは項羽の用兵の冴えを示す一方、敵の拠点を落として油断した大軍の脆さも示します。数の優位に安心した瞬間が最も危ういのです。

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