史記 / 項羽本紀
項羽晨朝上將軍宋義,即其帳中斬宋義頭,出令軍中曰:「宋義與齊謀反楚,楚王陰令羽誅之。」當是時,諸將皆慴服,莫敢枝梧。皆曰:「首立楚者,將軍家也。今將軍誅亂。」乃相與共立羽為假上將軍。使人追宋義子,及之齊,殺之。使桓楚報命於懷王。懷王因使項羽為上將軍,當陽君、蒲將軍皆屬項羽。項羽已殺卿子冠軍,威震楚國,名聞諸侯。乃遣當陽君、蒲將軍將卒二萬渡河,救鉅鹿。戰少利,陳餘復請兵。
新字:項羽晨朝上将軍宋義,即其帳中斬宋義頭,出令軍中曰:「宋義与斉謀反楚,楚王陰令羽誅之。」当是時,諸将皆慴服,莫敢枝梧。皆曰:「首立楚者,将軍家也。今将軍誅乱。」乃相与共立羽為仮上将軍。使人追宋義子,及之斉,殺之。使桓楚報命於懐王。懐王因使項羽為上将軍,当陽君、蒲将軍皆属項羽。項羽已殺卿子冠軍,威震楚国,名聞諸侯。乃遣当陽君、蒲将軍将卒二万渡河,救鉅鹿。戦少利,陳余復請兵。
書き下し
項羽晨に上将軍宋義に朝し、即ち其の帳中にて宋義の頭を斬り、出でて軍中に令して曰く、「宋義斉と謀りて楚に反す、楚王陰かに羽をして之を誅せしむ。」と。是の時に当たりて、諸将皆慴服し、敢へて枝梧(しご)する莫し。皆曰く、「首めて楚を立てし者は、将軍の家なり。今将軍乱を誅す。」と。乃ち相与に共に羽を立てて仮の上将軍と為す。人をして宋義の子を追はしめ、之に斉に及びて、之を殺す。桓楚をして命を懐王に報ぜしむ。懐王因りて項羽をして上将軍たらしめ、当陽君・蒲将軍皆項羽に属す。項羽已に卿子冠軍を殺し、威楚国を震はせ、名諸侯に聞こゆ。乃ち当陽君・蒲将軍を遣はして卒二万を将ゐて河を渡り、鉅鹿を救はしむ。戦ひて少しく利あり、陳余復た兵を請ふ。
現代語訳
項羽は早朝、上将軍宋義のもとへ参上し、その幕舎の中で宋義の首を斬った。外に出て軍中に命令を出して言った。「宋義は斉と謀って楚に背いた。楚王がひそかに私に命じてこれを誅殺させたのだ」。このとき、将たちは皆恐れて服従し、逆らおうとする者はいなかった。皆が言った。「最初に楚の王家を立てたのは将軍の家だ。いま将軍は反乱者を誅殺されたのです」。そこで皆でともに項羽を立てて仮の上将軍とした。人をやって宋義の息子を追わせ、斉で追いついて殺した。桓楚を使者として懐王に報告させた。懐王はそれを受けて項羽を正式に上将軍とし、当陽君(黥布)と蒲将軍は皆項羽の配下に入った。項羽は卿子冠軍(宋義)を殺したことで、その威勢は楚の国中を震え上がらせ、名声は諸侯に知れわたった。そこで当陽君と蒲将軍に兵二万を率いさせて黄河を渡らせ、鉅鹿を救援させた。戦いは少し優勢だったが、陳余がさらに援軍を求めてきた。
解説
関連する章句
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史記 項羽本紀初め、宋義の遇ひし所の斉の使者高陵君顕楚の軍に在り、楚王に見えて曰く、「宋義武信君の軍必ず敗れんと論ず、居ること数日、軍果たして敗る。兵未だ戦はずして先づ敗徴を見る、此れ兵を知ると謂ふべし。」と。王宋義を召して与に事を計りて大いに之を説(よろこ)び、因りて置きて以て上将軍と為し、項羽を魯公と為し、次将と為し、范増を末将と為し、趙を救はしむ。諸別将皆宋義に属し、号して卿子冠軍と為す。行きて安陽に至り、留まること四十六日にして進まず。項羽曰く、「吾聞く、秦の軍趙王を鉅鹿に囲むと、疾く兵を引きて河を渡り、楚其の外を撃ち、趙其の内に応ぜば、秦の軍を破ること必せり。」と。宋義曰く、「然らず。夫れ牛を搏つの蝱(あぶ)は以て蟣蝨(きしつ)を破るべからず。今秦趙を攻む、戦ひ勝たば則ち兵罷(つか)る、我其の敝(つかれ)を承けん。勝たずんば、則ち我兵を引き鼓行して西せば、必ず秦を挙げん。故に先づ秦・趙を鬬はしむるに如かず。夫れ堅を被り鋭を執るは、義公に如かず。坐して策を運らすは、公義に如かず。」と。因りて軍中に令を下して曰く、「猛きこと虎の如く、很(もと)ること羊の如く、貪ること狼の如く、彊くして使ふべからざる者は、皆之を斬らん。」と。乃ち其の子宋襄を遣はして斉に相たらしめ、身ら之を送りて無塩に至り、飲酒高会す。天寒く大いに雨ふり、士卒凍え飢う。項羽曰く、「将に力を戮せて秦を攻めんとするに、久しく留まりて行かず。今歳饑ゑ民貧しく、士卒芋菽を食ひ、軍に見糧無し、乃ち飲酒高会し、兵を引きて河を渡り趙に因りて食ひ、趙と力を并せて秦を攻めず、乃ち『其の敝を承けん』と曰ふ。夫れ秦の彊きを以て、新造の趙を攻めば、其の勢必ず趙を挙げん。趙挙げられて秦彊くば、何の敝をか之れ承けん。且つ国の兵新たに破れ、王坐して席に安んぜず、境内を埽(はら)ひて専ら将軍に属す、国家の安危、此の一挙に在り。今士卒を恤(あはれ)まずして其の私に徇ふ、社稷の臣に非ず。」と。
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史記 項羽本紀西のかた秦の軍を濮陽の東に破る、秦の兵収まりて濮陽に入る。沛公・項羽乃ち定陶を攻む。定陶未だ下らず、去りて、西のかた地を略して雝丘に至り、大いに秦の軍を破り、李由を斬る。還りて外黄を攻む、外黄未だ下らず。項梁東阿より起こり、西して、(北)[比](ころほひ)定陶に至り、再び秦の軍を破り、項羽等又李由を斬り、益々秦を軽んじ、驕る色有り。宋義乃ち項梁を諫めて曰く、「戦ひ勝ちて将驕り卒惰るる者は敗る。今卒少しく惰る、秦の兵日に益す、臣君の為に之を畏る。」と。項梁聴かず。乃ち宋義をして斉に使ひせしむ。道に斉の使者高陵君顕に遇ひて、曰く、「公将に武信君に見えんとするか。」と。曰く、「然り。」と。曰く、「臣武信君の軍必ず敗れんと論ず。公徐ろに行かば即ち死を免れ、疾く行かば則ち禍に及ばん。」と。秦果たして悉く兵を起こして章邯に益し、楚の軍を撃ち、大いに之を定陶に破り、項梁死す。沛公・項羽外黄を去りて陳留を攻む、陳留堅守して下す能はず。沛公・項羽相与に謀りて曰く、「今項梁の軍破れ、士卒恐る。」と。乃ち呂臣の軍と倶に兵を引きて東す。呂臣は彭城の東に軍し、項羽は彭城の西に軍し、沛公は碭に軍す。章邯已に項梁の軍を破り、則ち以為へらく楚の地の兵は憂ふるに足らずと、乃ち河を渡りて趙を撃ち、大いに之を破る。此の時に当たりて、趙歇王為り、陳余将為り、張耳相為り、皆走りて鉅鹿城に入る。章邯王離・渉間をして鉅鹿を囲ましめ、章邯其の南に軍し、甬道を築きて之に粟を輸る。陳余将為り、卒数万人を将ゐて鉅鹿の北に軍す、此れ所謂河北の軍なり。楚の兵已に定陶に破れ、懐王恐れ、盱台より彭城に之き、項羽・呂臣の軍を并せて自ら之に将たり。呂臣を以て司徒と為し、其の父呂青を以て令尹と為す。沛公を以て碭郡の長と為し、封じて武安侯と為し、碭郡の兵に将たらしむ。
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『長短経』時宜羽曰く「将に力を戮せて秦を攻めんとするに、久しく留まりて行かず。今歳は饑え民は貧しく、士卒は半菽〔士卒は蔬菜を食い、菽を以て之に雑うること半ばなり〕、軍に見糧無し。乃ち飲酒高会して、兵を引きて河を渡り、趙の食に因りて、与に力を并せて秦を撃たず。乃ち曰く『其の弊を承けん』と。夫れ秦の強きを以て、新造の趙を攻めば、其の勢い必ず趙を挙げん。趙挙がりて秦強ければ、何の弊か之れ承けん。且つ国兵新たに破れ、王は席に安んぜず、境内を埽いて将軍に属す。国家の安危は此の一挙に在り。今、士卒を恤えずして私に狥うは、社稷の臣に非ざるなり」と。即ち夜、義の帳中に入りて義を斬る。悉く兵もて河を渡り、舟を沈め釡を破り、士卒に必死にして還る心無きを示し、大いに秦軍を破る。
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史記 項羽本紀沛公張良に謂ひて曰く、「此の道より吾が軍に至るは、二十里に過ぎざるのみ。我軍中に至るを度りて、公乃ち入れ。」と。沛公已に去り、間(ひそ)かに軍中に至る、張良入りて謝して、曰く、「沛公桮杓に勝へず、辞する能はず。謹みて臣良をして白璧一双を奉じ、再拝して大王の足下に献じ、玉斗一双もて、再拝して大将軍の足下に奉ぜしむ。」と。項王曰く、「沛公安くに在る。」と。良曰く、「大王之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去り、已に軍に至れり。」と。項王則ち璧を受け、之を坐上に置く。亜父玉斗を受け、之を地に置き、剣を抜きて撞きて之を破りて、曰く、「唉(ああ)、豎子与に謀るに足らず。項王の天下を奪ふ者は、必ず沛公ならん、吾が属今に之が虜と為らん。」と。沛公軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅殺す。居ること数日、項羽兵を引きて西のかた咸陽を屠り、秦の降王子嬰を殺し、秦の宮室を焼く、火三月滅せず。其の貨宝婦女を収めて東す。人或いは項王に説きて曰く、「関中は山河を阻てて四塞、地肥饒なり、都して以て霸たるべし。」と。項王秦の宮皆以に焼けて残破せるを見、又心に懐ひて東帰せんことを思欲し、曰く、「富貴にして故郷に帰らざるは、繡を衣て夜行くが如し、誰か之を知る者ぞ。」と。説く者曰く、「人言ふ楚人は沐猴にして冠するのみと、果たして然り。」と。項王之を聞き、説く者を烹る。項王人をして命を懐王に致さしむ。懐王曰く、「約の如くせよ。」と。乃ち懐王を尊びて義帝と為す。項王自ら王たらんと欲し、先づ諸将相を王とす。謂ひて曰く、「天下初めて難を発せし時、仮に諸侯の後を立てて以て秦を伐つ。然れども身堅を被り鋭を執りて事を首め、野に暴露すること三年、秦を滅ぼし天下を定むる者は、皆将相諸君と籍との力なり。義帝は功無しと雖も、故より当に其の地を分かちて之を王とすべし。」と。諸将皆曰く、「善し。」と。乃ち天下を分かち、諸将を立てて侯王と為す。
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史記 項羽本紀項羽是に由りて始めて諸侯の上将軍と為り、諸侯皆焉に属す。章邯棘原に軍し、項羽漳南に軍し、相持して未だ戦はず。秦の軍数(しばしば)卻(しりぞ)く、二世人をして章邯を譲(せ)めしむ。章邯恐れ、長史欣をして事を請はしむ。咸陽に至り、司馬門に留まること三日、趙高見ず、信ぜざるの心有り。長史欣恐れ、還りて其の軍に走る、敢へて故道に出でず、趙高果たして人をして之を追はしむるも、及ばず。欣軍に至り、報じて曰く、「趙高中に用事す、下に為すべき者無し。今戦ひて能く勝たば、高必ず吾が功を疾妒せん。戦ひて勝つ能はずんば、死を免れず。願はくは将軍孰(つらつら)之を計れ。」と。陳余も亦章邯に書を遺りて曰く、「白起秦の将為り、南のかた鄢郢を征し、北のかた馬服を阬にし、城を攻め地を略すること、勝げて計ふべからず、而るに竟に死を賜はる。蒙恬秦の将為り、北のかた戎人を逐ひ、楡中の地数千里を開くも、竟に陽周に斬らる。何となれば、功多くして、秦尽くは封ずる能はず、因りて法を以て之を誅すればなり。今将軍秦の将為ること三歳、亡失する所十万を以て数ふ、而るに諸侯并び起こること滋(ますます)益々多し。彼の趙高素より諛ふこと日久し、今事急にして、亦二世の之を誅せんことを恐る、故に法を以て将軍を誅して以て責を塞ぎ、人をして更に将軍に代はらしめて以て其の禍を脱せんと欲す。夫れ将軍外に居ること久しく、内に卻(ひま)多し、功有るも亦誅せられ、功無きも亦誅せらる。且つ天の秦を亡ぼすは、愚智と無く皆之を知る。今将軍内に直諫する能はず、外に亡国の将と為る、孤特独立して常に存せんと欲す、豈に哀しからずや。将軍何ぞ兵を還して諸侯と従を為し、約して共に秦を攻め、其の地を分かちて王とし、南面して孤と称せざる。此れ身鈇質(ふしつ)に伏し、妻子僇(りく)と為るに孰与(いづれ)ぞや。」と。章邯狐疑し、陰かに候始成をして項羽に使ひせしめ、約せんと欲す。約未だ成らず、項羽蒲将軍をして日夜兵を引きて三戸を度(わた)らしめ、漳南に軍し、秦と戦ひ、再び之を破る。項羽悉く兵を引きて秦の軍を汙水の上に撃ち、大いに之を破る。
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史記 項羽本紀故の秦の滅ぼす所の斉王建の孫田安、項羽方に河を渡りて趙を救ふとき、田安済北の数城を下し、其の兵を引きて項羽に降る、故に安を立てて済北王と為し、博陽に都せしむ。田栄は、数(しばしば)項梁に負き、又肯へて兵を将ゐて楚に従ひて秦を撃たず、故を以て封ぜず。成安君陳余将印を棄てて去り、従ひて関に入らず、然れども素より其の賢を聞き、趙に功有り、其の南皮に在るを聞き、故に因りて環りの三県に封ず。番君の将梅鋗功多し、故に十万戸侯に封ず。項王自ら立ちて西楚の霸王と為り、九郡に王とし、彭城に都す。漢の元年四月、諸侯戯下より罷め、各々国に就く。項王出でて国に之き、人をして義帝を徙さしめて、曰く、「古の帝者は地方千里、必ず上游に居る。」と。乃ち使をして義帝を長沙の郴県に徙さしむ。義帝の行を趣(うなが)す、其の群臣稍稍之に背叛す、乃ち陰かに衡山・臨江王をして之を江中に撃殺せしむ。韓王成軍功無し、項王之をして国に之かしめず、与に倶に彭城に至り、廃して以て侯と為し、已にして又之を殺す。臧荼国に之き、因りて韓広を逐ひて遼東に之かしめんとす、広聴かず、荼広を無終に撃殺し、並せて其の地に王たり。田栄項羽の斉王市を膠東に徙し、而して斉の将田都を立てて斉王と為すを聞き、乃ち大いに怒り、斉王を遣はして膠東に之かしむるを肯ぜず、因りて斉を以て反し、田都を迎撃す。田都楚に走る。斉王市項王を畏れ、乃ち亡げて膠東に之きて国に就く。田栄怒り、追撃して之を即墨に殺す。栄因りて自ら立ちて斉王と為り、而して西のかた済北王田安を殺撃し、并せて三斉に王たり。栄彭越に将軍の印を与へ、梁の地に反せしむ。陳余陰かに張同・夏説をして斉王田栄に説かしめて曰く、「項羽天下の宰と為りて、平らかならず。今尽く故王を醜地に王とし、而して其の群臣諸将を善地に王とし、其の故主趙王を逐ひて、乃ち北のかた代に居らしむ、余以為へらく不可なりと。
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