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史記 / 秦始皇本紀

滅秦之後,各分其地為三,名曰雍王、塞王、翟王,號曰三秦。項羽為西楚霸王,主命分天下王諸侯,秦竟滅矣。後五年,天下定於漢。太史公曰:秦之先伯翳,嘗有勳於唐虞之際,受土賜姓。及殷夏之閒微散。至周之衰,秦興,邑于西垂。自繆公以來,稍蠶食諸侯,竟成始皇。始皇自以為功過五帝,地廣三王,而羞與之侔。善哉乎賈生推言之也!曰:秦并兼諸侯山東三十餘郡,繕津關,據險塞,修甲兵而守之。然陳涉以戍卒散亂之眾數百,奮臂大呼,不用弓戟之兵,鉏櫌白梃,望屋而食,橫行天下。秦人阻險不守,關梁不闔,長戟不刺,彊弩不射。楚師深入,戰於鴻門,曾無藩籬之艱。於是山東大擾,諸侯并起,豪俊相立。秦使章邯將而東征,章邯因以三軍之眾要市於外,以謀其上。群臣之不信,可見於此矣。子嬰立,遂不寤。藉使子嬰有庸主之材,僅得中佐,山東雖亂,秦之地可全而有,宗廟之祀未當絕也。秦地被山帶河以為固,四塞之國也。自繆公以來,至於秦王,二十餘君,常為諸侯雄。豈世世賢哉?其勢居然也。且天下嘗同心并力而攻秦矣。

新字:滅秦之後,各分其地為三,名曰雍王、塞王、翟王,号曰三秦。項羽為西楚覇王,主命分天下王諸侯,秦竟滅矣。後五年,天下定於漢。太史公曰:秦之先伯翳,嘗有勲於唐虞之際,受土賜姓。及殷夏之閒微散。至周之衰,秦興,邑于西垂。自繆公以来,稍蠶食諸侯,竟成始皇。始皇自以為功過五帝,地広三王,而羞与之侔。善哉乎賈生推言之也!曰:秦并兼諸侯山東三十余郡,繕津関,拠険塞,修甲兵而守之。然陳渉以戍卒散乱之衆数百,奮臂大呼,不用弓戟之兵,鉏櫌白梃,望屋而食,横行天下。秦人阻険不守,関梁不闔,長戟不刺,彊弩不射。楚師深入,戦於鴻門,曽無藩籬之艱。於是山東大擾,諸侯并起,豪俊相立。秦使章邯将而東征,章邯因以三軍之衆要市於外,以謀其上。群臣之不信,可見於此矣。子嬰立,遂不寤。藉使子嬰有庸主之材,僅得中佐,山東雖乱,秦之地可全而有,宗廟之祀未当絶也。秦地被山帯河以為固,四塞之国也。自繆公以来,至於秦王,二十余君,常為諸侯雄。豈世世賢哉?其勢居然也。且天下嘗同心并力而攻秦矣。

書き下し

秦を滅ぼしし後、各其の地を分かちて三と為し、名づけて雍王・塞王・翟王と曰ひ、号して三秦と曰ふ。項羽西楚の霸王と為り、命を主りて天下を分かちて諸侯を王とす。秦竟に滅ぶ。後五年、天下漢に定まる。太史公曰く、秦の先伯翳、嘗て勲を唐虞の際に有し、土を受け姓を賜はる。殷夏の間に及びて微散す。周の衰ふるに至りて、秦興り、西垂に邑す。繆公より以来、稍諸侯を蚕食し、竟に始皇を成す。始皇自ら以為へらく功は五帝に過ぎ、地は三王より広しと。而して之と侔しきを羞づ。善きかな賈生の之を推言するや。曰く、秦は諸侯を并兼し、山東三十余郡、津関を繕ひ、険塞に拠り、甲兵を修めて之を守る。然れども陳渉戍卒散乱の衆数百を以て、臂を奮ひて大呼し、弓戟の兵を用ゐず、鉏櫌白梃にて、屋を望みて食し、天下に横行す。秦人険を阻むも守らず、関梁闔ぢず、長戟刺さず、彊弩射ず。楚の師深く入り、鴻門に戦ふ、曾て藩籬の艱無し。是に於て山東大いに擾れ、諸侯并び起こり、豪俊相立つ。秦章邯をして将として東征せしむ。章邯因りて三軍の衆を以て外に要市し、以て其の上を謀る。群臣の信ならざること、此に見る可し。子嬰立ちて、遂に寤らず。藉使子嬰に庸主の材有りて、僅かに中佐を得ば、山東乱ると雖も、秦の地は全くして有つ可く、宗廟の祀未だ絶ゆるに当たらざらん。秦の地は山を被り河を帯びて以て固めと為す、四塞の国なり。繆公より以来、秦王に至るまで、二十余君、常に諸侯の雄為り。豈に世世賢ならんや。其の勢ひ居然たればなり。且つ天下嘗て心を同じくし力を并せて秦を攻む。

現代語訳

秦を滅ぼした後、(項羽は)その地を三つに分け、雍王・塞王・翟王を立てて、三秦と呼んだ。項羽は西楚の覇王となり、天下を分けて諸侯を王に封じる命令をつかさどった。秦はついに滅んだ。その五年後、天下は漢によって定まった。太史公は言う。秦の祖先の伯翳は、かつて堯・舜の時代に功績があり、領地を受けて姓を賜った。殷・夏の時代には衰えて散り散りになった。周が衰えると秦が興り、西の辺境に都を置いた。穆公以来、しだいに諸侯を蚕が桑の葉を食べるように侵し、ついに始皇帝が天下統一を成し遂げた。始皇帝は自分の功績は五帝を超え、領土は三王よりも広いと考え、彼らと並べられることを恥とした。賈誼(賈生)の論評はまことに見事である。(賈誼は)言う。秦は諸侯を併合し、山東の三十余りの郡を得て、渡し場や関所を修め、険しい要害に拠り、武器と兵を整えて守った。ところが陳渉は、辺境守備の兵のばらばらな数百人を率いて、腕を振り上げて大声で叫び、弓や戟といった武器も使わず、鍬や鋤、白木の棒を手に、人家を見つけては食糧を得ながら、天下を思うままに進んだ。秦の人々は険しい地形に頼りながら守らず、関所も橋も閉じず、長い戟は突かれず、強い弩も射られなかった。楚の軍は深く攻め込み、鴻門で戦ったが、垣根ほどの障害にも出会わなかった。こうして山東は大いに乱れ、諸侯は一斉に起こり、豪傑たちが次々に立った。秦は章邯を将として東へ征伐させた。章邯はその三軍の兵力を背景に外の諸侯と取引をして、主君を裏切ろうと謀った。群臣が信頼できなかったことは、これを見ればわかる。子嬰が立っても、ついに目覚めることはなかった。もし子嬰に平凡な君主程度の才能があり、せめて並の補佐役を得ていたなら、山東が乱れても秦の地は保つことができ、祖先の祭祀も絶えるには至らなかったであろう。秦の地は山を背負い黄河を帯として守りとし、四方を要害に囲まれた国である。穆公から秦王(始皇帝)に至るまでの二十余りの君主は、常に諸侯の中で最も強かった。それは代々の君主がみな賢かったからであろうか。その地勢がそうさせたのである。しかも天下はかつて心を一つにし、力を合わせて秦を攻めたことがあった。

解説

秦始皇本紀の結びとして、司馬遷が前漢の賈誼の『過秦論』を引いて秦の滅亡を論じる段の始まりです。司馬遷はまず、伯翳から始まる秦の長い歴史を振り返り、始皇帝が自らを五帝や三王より上と考えたと記します。そして「賈生の論は見事だ」として、賈誼の議論をそのまま載せました。賈誼が指摘するのは、あれほど強大だった秦が、武器すら持たない陳渉の数百人の反乱をきっかけに崩れたという事実です。要害の地にありながら守られず、関所は閉じられず、弩は射られなかった。将軍の章邯は主君を裏切り、群臣には信頼がなかった。子嬰にせめて並の才能と補佐役があれば、秦の地だけは守れただろうと言います。秦が長く強かったのは、代々の君主が賢かったからではなく、地の利があったからだという冷静な分析も加えています。組織の強さは、仕組みや地の利に支えられている部分も大きいものです。それを自分の実力と錯覚したとき、崩壊は思いがけない小さなきっかけから始まります。

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