史記 / 秦始皇本紀
曰:「古之帝者,地不過千里,諸侯各守其封域,或朝或否,相侵暴亂,殘伐不止,猶刻金石,以自為紀。古之五帝三王,知教不同,法度不明,假威鬼神,以欺遠方,實不稱名,故不久長。其身未歿,諸侯倍叛,法令不行。今皇帝并一海內,以為郡縣,天下和平。昭明宗廟,體道行德,尊號大成。群臣相與誦皇帝功德,刻于金石,以為表經。」既已,齊人徐巿等上書,言海中有三神山,名曰蓬萊、方丈、瀛洲,僊人居之。請得齋戒,與童男女求之。於是遣徐巿發童男女數千人,入海求僊人。始皇還,過彭城,齋戒禱祠,欲出周鼎泗水。使千人沒水求之,弗得。乃西南渡淮水,之衡山、南郡。浮江,至湘山祠。逢大風,幾不得渡。上問博士曰:「湘君神?」博士對曰:「聞之,堯女,舜之妻,而葬此。」於是始皇大怒,使刑徒三千人皆伐湘山樹,赭其山。上自南郡由武關歸。二十九年,始皇東游。至陽武博狼沙中,為盜所驚。求弗得,乃令天下大索十日。登之罘,刻石。其辭曰:維二十九年,時在中春,陽和方起。皇帝東游,巡登之罘,臨照于海。從臣嘉觀,原念休烈,追誦本始。大聖作治,建定法度,顯箸綱紀。外教諸侯,光施文惠,明以義理。六國回辟,貪戾無厭,虐殺不已。皇帝哀眾,遂發討師,奮揚武德。
新字:曰:「古之帝者,地不過千里,諸侯各守其封域,或朝或否,相侵暴乱,残伐不止,猶刻金石,以自為紀。古之五帝三王,知教不同,法度不明,仮威鬼神,以欺遠方,実不称名,故不久長。其身未歿,諸侯倍叛,法令不行。今皇帝并一海内,以為郡県,天下和平。昭明宗廟,体道行徳,尊号大成。群臣相与誦皇帝功徳,刻于金石,以為表経。」既已,斉人徐巿等上書,言海中有三神山,名曰蓬萊、方丈、瀛洲,僊人居之。請得斎戒,与童男女求之。於是遣徐巿発童男女数千人,入海求僊人。始皇還,過彭城,斎戒祷祠,欲出周鼎泗水。使千人没水求之,弗得。乃西南渡淮水,之衡山、南郡。浮江,至湘山祠。逢大風,幾不得渡。上問博士曰:「湘君神?」博士対曰:「聞之,堯女,舜之妻,而葬此。」於是始皇大怒,使刑徒三千人皆伐湘山樹,赭其山。上自南郡由武関帰。二十九年,始皇東游。至陽武博狼沙中,為盗所驚。求弗得,乃令天下大索十日。登之罘,刻石。其辞曰:維二十九年,時在中春,陽和方起。皇帝東游,巡登之罘,臨照于海。従臣嘉観,原念休烈,追誦本始。大聖作治,建定法度,顕箸綱紀。外教諸侯,光施文恵,明以義理。六国回辟,貪戻無厭,虐殺不已。皇帝哀衆,遂発討師,奮揚武徳。
書き下し
曰く、「古の帝者は、地千里に過ぎず、諸侯各其の封域を守り、或いは朝し或いは否ず、相侵して暴乱し、残伐止まず。猶ほ金石に刻して、以て自ら紀と為す。古の五帝三王は、知教同じからず、法度明らかならず、威を鬼神に仮りて、以て遠方を欺く。実名に称はず、故に久長ならず。其の身未だ歿せずして、諸侯倍叛し、法令行はれず。今皇帝海内を并一し、以て郡県と為し、天下和平なり。宗廟を昭明にし、道を体し徳を行ひ、尊号大いに成る。群臣相与に皇帝の功徳を誦し、金石に刻して、以て表経と為す」と。既に已はり、斉人徐巿等上書して言ふ、海中に三神山有り、名を蓬萊・方丈・瀛洲と曰ふ、僊人之に居る。請ふ斎戒して、童男女と之を求むることを得んと。是に於て徐巿を遣はして童男女数千人を発し、海に入りて僊人を求めしむ。始皇還り、彭城を過ぎ、斎戒禱祠して、周の鼎を泗水より出ださんと欲す。千人をして水に没して之を求めしむるも、得ず。乃ち西南のかた淮水を渡り、衡山・南郡に之く。江に浮かび、湘山祠に至る。大風に逢ひ、幾ど渡るを得ず。上博士に問ひて曰く、「湘君は何の神ぞ」と。博士対へて曰く、「之を聞く、堯の女、舜の妻にして、此に葬ると」と。是に於て始皇大いに怒り、刑徒三千人をして皆湘山の樹を伐り、其の山を赭くせしむ。上南郡より武関に由りて帰る。二十九年、始皇東游す。陽武の博狼沙中に至り、盗の驚かす所と為る。求むるも得ず、乃ち天下に令して大いに索むること十日。之罘に登り、石に刻す。其の辞に曰く、維れ二十九年、時は中春に在り、陽和方に起こる。皇帝東游し、巡りて之罘に登り、海に臨照す。従臣嘉観し、休烈を原念し、本始を追誦す。大聖治を作し、法度を建定し、綱紀を顕著す。外は諸侯を教へ、光かに文恵を施し、明らかにするに義理を以てす。六国回辟にして、貪戻厭く無く、虐殺已まず。皇帝衆を哀れみ、遂に討師を発し、武徳を奮揚す。
現代語訳
(群臣は)言った。「古の帝王は、領地が千里を越えず、諸侯はそれぞれの封地を守り、朝見したりしなかったりで、互いに侵し合い乱暴を働き、殺し合いがやまなかった。それでもなお金属や石に文字を刻んで、自らの記録とした。古の五帝・三王は、知識や教えがまちまちで、法や制度も明らかでなく、鬼神の威光を借りて遠方の者をだましていた。実際がその名にふさわしくなかったので、長くは続かなかった。その身がまだ生きているうちに諸侯は背き、法令は行われなかった。今、皇帝は天下を一つにし、郡県とし、天下は平和である。祖先の廟を明らかにし、道を身につけ徳を行い、尊い称号は大いに成った。群臣はともに皇帝の功徳をたたえ、金属や石に刻んで、永く手本とする。」それが終わると、斉の人の徐巿(徐福)らが上書して言った。海の中に三つの神山があり、蓬萊・方丈・瀛洲という。仙人がそこに住んでいる。どうか身を清めて斎戒し、少年少女を連れて仙人を探しに行かせてほしい、と。そこで徐巿を遣わし、少年少女数千人を集めて海に入り、仙人を探させた。始皇帝は帰途、彭城を通り、斎戒して祈り、泗水に沈んだ周の鼎を引き上げようとした。千人を水に潜らせて探させたが、見つからなかった。そこで西南へ淮水を渡り、衡山・南郡に行った。長江に舟を浮かべ、湘山の祠に至った。大風に遭い、ほとんど渡れないところであった。皇帝は博士に尋ねた。「湘君とはどういう神か。」博士は答えた。「聞くところでは、堯の娘で舜の妻であり、ここに葬られているという。」すると始皇帝は大いに怒り、囚人三千人に湘山の木をすべて伐らせ、山を赤はだかにした。皇帝は南郡から武関を通って帰った。二十九年、始皇帝は東方に巡遊した。陽武の博狼沙に至ったとき、盗賊(刺客)に襲われて驚かされた。探したが捕まらず、天下に命じて十日間の大捜索を行わせた。之罘山に登り、石に文を刻んだ。その文にいう。二十九年、時は仲春、陽気がまさに起こる。皇帝は東方に巡遊し、之罘山に登って、海を照らし臨む。従う臣下たちは美しい眺めを見て、偉大な功業を思い起こし、その始まりをたたえる。偉大な聖人が政治を行い、法と制度を打ち立て、綱紀を明らかにした。外に対しては諸侯を教え導き、文と恵みを輝かしく施し、道義によって明らかにした。六国はよこしまで、むさぼり道にもとって飽くことなく、虐殺をやめなかった。皇帝は民衆を哀れみ、ついに討伐の軍を起こし、武の徳を奮い立てた。
解説
関連する章句
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史記 秦始皇本紀秦諸侯を破る毎に、其の宮室を写放し、之を咸陽の北阪の上に作る。南は渭に臨み、雍門より以東涇・渭に至るまで、殿屋・複道・周閣相属す。得る所の諸侯の美人・鐘鼓、以て之に充入す。二十七年、始皇隴西・北地を巡り、雞頭山に出で、回中を過ぐ。焉に信宮を渭南に作り、已にして更めて信宮を命じて極廟と為し、天極に象る。極廟より道酈山に通じ、甘泉の前殿を作る。甬道を築き、咸陽より之に属す。是の歳、爵一級を賜ふ。馳道を治む。二十八年、始皇東のかた郡県を行り、鄒の嶧山に上る。石を立て、魯の諸儒生と議し、石に刻して秦の徳を頌し、封禅・望祭山川の事を議す。乃ち遂に泰山に上り、石を立て、封じ、祠祀す。下るとき、風雨暴かに至り、樹下に休む。因りて其の樹を封じて五大夫と為す。梁父に禅す。立つる所の石に刻す。其の辞に曰く、皇帝位に臨み、制を作り法を明らかにし、臣下修飭す。二十有六年、初めて天下を并せ、賓服せざる罔し。親しく遠方の黎民を巡り、茲の泰山に登り、周く東極を覧る。従臣跡を思ひ、事業を本原し、祗みて功徳を誦す。治道運行し、諸産宜しきを得、皆法式有り。大義休明にして、後世に垂れ、順承して革むる勿かれ。皇帝躬ら聖にして、既に天下を平らげ、治に懈らず。夙に興き夜に寐ね、長利を建設し、専ら教誨を隆くす。訓経宣達し、遠近畢く理まり、咸聖志を承く。貴賤分明にして、男女礼順し、慎みて職事に遵ふ。内外を昭隔し、清浄ならざる靡く、後嗣に施す。化は無窮に及び、遺詔を遵奉し、永く重戒を承けよ。是に於て乃ち勃海に并ひて以東し、黄・腄を過ぎ、成山を窮め、之罘に登り、石を立てて秦の徳を頌して去る。南のかた瑯邪に登り、大いに之を楽しみ、留まること三月。乃ち黔首三万戸を瑯邪台の下に徙し、復すること十二歳。瑯邪台を作り、石刻を立て、秦の徳を頌し、意を得たるを明らかにす。
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史記 封禅書秦の始皇天下を并するに至るに及び、海上に至れば、則ち方士之を言ふこと勝げて数ふ可からず。始皇自ら以為へらく海上に至りて及ばざらんことを恐ると、人をして乃ち童男女を齎して海に入りて之を求めしむ。船交々海中にあるも、皆風を以て解と為し、曰く未だ至る能はざるも、之を望見すと。其の明年、始皇復た海上に游び、瑯邪に至り、恒山を過ぎ、上党より帰る。後三年、碣石に游び、海に入る方士を考へ、上郡より帰る。後五年、始皇南のかた湘山に至り、遂に会稽に登り、海上に并ひ、海中の三神山の奇薬に遇はんことを冀ふ。得ず、還りて沙丘に至りて崩ず。二世元年、東のかた碣石を巡り、海に并ひて南し、泰山を歴て会稽に至り、皆之を礼祠し、而して始皇の立つる所の石書の旁に刻勒し、以て始皇の功徳を章らかにす。其の秋、諸侯秦に畔く。三年にして二世弑されて死す。始皇封禅の後十二歳にして秦亡ぶ。諸儒生、秦の詩書を焚き、文学を誅僇するを疾み、百姓は其の法を怨み、天下之に畔き、皆訛りて曰く、「始皇泰山に上り、暴風雨の撃つ所と為り、封禅するを得ず」と。此れ豈に所謂其の徳無くして事を用ふる者か。昔、三代の君は皆河・洛の間に在り、故に嵩高を中岳と為し、而して四岳各々其の方の如く、四瀆咸な山東に在り。秦の帝と称し、咸陽に都するに至りて、則ち五岳・四瀆皆并せて東方に在り。五帝より以て秦に至るまで、軼いに興り軼いに衰へ、名山大川或いは諸侯に在り、或いは天子に在り、其の礼の損益は世々殊にして、勝げて記す可からず。秦の天下を并するに及びて、祠官をして常に奉ずる所の天地・名山大川・鬼神を得て序づ可からしむ。是に於て殽より以東、名山五、大川の祠二。曰く太室、太室は嵩高なり。恒山、泰山、会稽、湘山。水は済と曰ひ、淮と曰ふ。春は脯酒を以て歳祠と為し、因りて凍を泮き、秋は凍を涸し、冬は塞禱して祠る。
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史記 秦始皇本紀御府をして璧を視しむるに、乃ち二十八年に行きて江を渡りしときに沈めし所の璧なり。是に於て始皇之を卜するに、卦游徙に吉なるを得たり。北河・楡中に三万家を遷す。爵一級を拝す。三十七年十月癸丑、始皇出游す。左丞相斯従ひ、右丞相去疾守る。少子胡亥愛慕して従はんことを請ひ、上之を許す。十一月、行きて雲夢に至り、虞舜を九疑山に望祀す。江に浮かびて下り、籍柯を観、海渚を渡る。丹陽を過ぎ、銭唐に至る。浙江に臨むに、水波悪し。乃ち西のかた百二十里、狭中より渡る。会稽に上り、大禹を祭り、南海を望み、而して石を立てて秦の徳を刻頌す。其の文に曰く、皇帝の休烈、宇内を平一し、徳恵修長なり。三十有七年、親しく天下を巡り、周く遠方を覧る。遂に会稽に登り、習俗を宣省し、黔首斎荘す。群臣功を誦し、事跡を本原し、高明を追首す。秦の聖国に臨み、始めて刑名を定め、旧章を顕陳す。初めて法式を平らかにし、職任を審別し、以て恒常を立つ。六王専倍し、貪戻傲猛にして、衆を率ゐて自ら彊しとす。暴虐恣に行ひ、力を負みて驕り、数甲兵を動かす。陰かに間使を通じ、以て合従を事とし、行ひは辟方を為す。内は詐謀を飾り、外は来たりて辺を侵し、遂に禍殃を起こす。義威もて之を誅し、暴悖を殄熄し、乱賊滅亡す。聖徳広密にして、六合の中、沢を被ること疆り無し。皇帝宇を并せ、兼ねて万事を聴き、遠近畢く清し。群物を運理し、事実を考験し、各其の名を載す。貴賤并び通じ、善否前に陳なり、隠情有る靡し。飾省して義を宣べ、子有りて嫁するは、死に倍きて貞ならず。内外を防隔し、淫泆を禁止し、男女絜誠なり。夫の寄豭を為すは、之を殺すも罪無く、男は義程を秉る。妻の逃嫁を為すは、子母を得ず、咸廉清に化す。大いに治めて俗を濯ひ、天下風を承け、休経を蒙被す。皆度軌に遵ひ、和安敦勉にして、令に順はざる莫し。
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史記 秦始皇本紀義もて誅し信もて行ひ、威は旁く達し、賓服せざる莫し。彊暴を烹滅し、黔首を振救し、周く四極を定む。普く明法を施し、天下を経緯し、永く儀則と為す。大なるかな、宇県の中、聖意に承順す。群臣功を誦し、石に刻さんことを請ひ、常式に表垂す。其の東観に曰く、二十九年、皇帝春に游び、遠方を覧省す。海隅に逮び、遂に之罘に登り、朝陽に昭臨す。広麗を観望し、従臣咸念ひ、道を原ぬること至明なり。聖法初めて興り、疆内を清理し、外は暴彊を誅す。武威旁く暢び、四極を振動し、六王を禽滅す。天下を闡并し、甾害絶息し、永く戎兵を偃す。皇帝の明徳、宇内を経理し、視聴怠らず。大義を作立し、備器を昭設し、咸章旗有り。職臣分に遵ひ、各行ふ所を知り、事に嫌疑無し。黔首化を改め、遠邇度を同じくし、古に臨みて絶尤なり。常職既に定まり、後嗣業に循ひ、長く聖治を承けん。群臣徳を嘉し、祗みて聖烈を誦し、之罘に刻さんことを請ふ。旋りて、遂に瑯邪に之き、上党に道して入る。三十年、事無し。三十一年十二月、臘を更名して「嘉平」と曰ふ。黔首に里ごとに米六石、羊二を賜ふ。始皇咸陽に微行を為し、武士四人と倶にし、夜出でて盗に蘭池に逢ひ、窘めらる。武士盗を撃ち殺す。関中大いに索むること二十日。米石千六百。三十二年、始皇碣石に之き、燕人盧生をして羨門・高誓を求めしむ。碣石の門に刻す。城郭を壊ち、隄防を決通す。其の辞に曰く、遂に師旅を興し、無道を誅戮し、逆を為す滅息す。武は暴逆を殄し、文は無罪を復し、庶心咸服す。恵みて功労を論じ、賞は牛馬に及び、恩は土域を肥やす。皇帝威を奮ひ、徳は諸侯を并せ、初めて一に泰平なり。城郭を墮壊し、川防を決通し、険阻を夷去す。地勢既に定まり、黎庶繇無く、天下咸撫す。男は其の疇を楽しみ、女は其の業を修め、事各序有り。
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史記 秦始皇本紀恵は諸産に被び、久しく并せて来たりて田し、所に安んぜざる莫し。群臣烈を誦し、此の石に刻さんことを請ひ、儀矩を垂著す。因りて韓終・侯公・石生をして僊人不死の薬を求めしむ。始皇北辺を巡り、上郡より入る。燕人盧生使ひして海に入りて還り、鬼神の事を以て、因りて録図書を奏す。曰く「秦を亡ぼす者は胡なり」と。始皇乃ち将軍蒙恬をして兵三十万人を発して北のかた胡を撃たしめ、河南の地を略取す。三十三年、諸の嘗て逋亡せし人・贅婿・賈人を発して陸梁の地を略取し、桂林・象郡・南海と為し、以て適遣して戍らしむ。西北のかた匈奴を斥逐す。楡中より河に并ひて以東、之を陰山に属し、以て三十四県と為し、河上に城きて塞と為す。又蒙恬をして河を渡りて高闕・陽山・北仮の中を取り、亭障を築きて以て戎人を逐はしむ。謫を徙して、之を初県に実たす。禁じて祠るを得ざらしむ。明星西方に出づ。三十四年、獄吏の直ならざる者を適して、長城及び南越の地を築かしむ。始皇酒を咸陽宮に置き、博士七十人前みて寿を為す。僕射周青臣進みて頌して曰く、「他時秦の地千里に過ぎず。陛下の神霊明聖に頼り、海内を平定し、蛮夷を放逐し、日月の照らす所、賓服せざる莫し。諸侯を以て郡県と為し、人人自ら安楽にして、戦争の患ひ無く、之を万世に伝ふ。上古より陛下の威徳に及ばず」と。始皇悦ぶ。博士の斉人淳于越進みて曰く、「臣聞く、殷・周の王たること千余歳、子弟功臣を封じ、自ら枝輔と為すと。今陛下海内を有つも、而も子弟匹夫と為る。卒に田常・六卿の臣有らば、輔拂無くして、何を以て相救はんや。事古を師とせずして能く長久なる者は、聞く所に非ざるなり。今青臣又面諛して以て陛下の過ちを重ぬ、忠臣に非ず」と。始皇其の議を下す。
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史記 秦始皇本紀曰く、維れ二十八年、皇帝作始す。法度を端平にし、万物の紀なり。以て人事を明らかにし、父子を合同す。聖智仁義、道理を顕白す。東のかた東土を撫し、以て卒士を省る。事已に大いに畢はり、乃ち海に臨む。皇帝の功、本事を勧労す。農を上び末を除き、黔首是れ富む。普天の下、心を摶め志を揖む。器械量を一にし、書文字を同じくす。日月の照らす所、舟輿の載する所、皆其の命を終へ、意を得ざる莫し。時に応じて事を動かす、是れ維れ皇帝。異俗を匡飭し、水を陵え地を経る。黔首を憂恤し、朝夕懈らず。疑ひを除き法を定め、咸辟くる所を知る。方伯職を分かち、諸治経易なり。挙錯必ず当たり、画くが如くならざる莫し。皇帝の明、四方を臨察す。尊卑貴賤、次行を踰えず。姦邪容れず、皆貞良を務む。細大力を尽くし、敢へて怠荒する莫し。遠邇辟隠、専ら粛荘を務む。端直敦忠、事業常有り。皇帝の徳、四極を存定す。乱を誅し害を除き、利を興し福を致す。事を節するに時を以てし、諸産繁殖す。黔首安寧にして、兵革を用ゐず。六親相保ち、終に寇賊無し。驩欣して教へを奉じ、尽く法式を知る。六合の内は、皇帝の土。西は流沙を渉り、南は北戸を尽くす。東は東海を有ち、北は大夏を過ぐ。人跡の至る所、臣たらざる者無し。功は五帝を蓋ひ、沢は牛馬に及ぶ。徳を受けざる莫く、各其の宇に安んず。維れ秦王天下を兼有し、名を立てて皇帝と為し、乃ち東土を撫し、瑯邪に至る。列侯武城侯王離・列侯通武侯王賁・倫侯建成侯趙亥・倫侯昌武侯成・倫侯武信侯馮毋択・丞相隗林・丞相王綰・卿李斯・卿王戊・五大夫趙嬰・五大夫楊樛従ひ、与に海上に議す。
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