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史記 / 秦始皇本紀

秦每破諸侯,寫放其宮室,作之咸陽北阪上,南臨渭,自雍門以東至涇、渭,殿屋複道周閣相屬。所得諸侯美人鐘鼓,以充入之。二十七年,始皇巡隴西、北地,出雞頭山,過回中。焉作信宮渭南,已更命信宮為極廟,象天極。自極廟道通酈山,作甘泉前殿。筑甬道,自咸陽屬之。是歲,賜爵一級。治馳道。二十八年,始皇東行郡縣,上鄒嶧山。立石,與魯諸儒生議,刻石頌秦德,議封禪望祭山川之事。乃遂上泰山,立石,封,祠祀。下,風雨暴至,休於樹下,因封其樹為五大夫。禪梁父。刻所立石,其辭曰:皇帝臨位,作制明法,臣下修飭。二十有六年,初并天下,罔不賓服。親巡遠方黎民,登茲泰山,周覽東極。從臣思跡,本原事業,祗誦功德。治道運行,諸產得宜,皆有法式。大義休明,垂于後世,順承勿革。皇帝躬聖,既平天下,不懈於治。夙興夜寐,建設長利,專隆教誨。訓經宣達,遠近畢理,咸承聖志。貴賤分明,男女禮順,慎遵職事。昭隔內外,靡不清凈,施于後嗣。化及無窮,遵奉遺詔,永承重戒。於是乃并勃海以東,過黃、腄,窮成山,登之罘,立石頌秦德焉而去。南登瑯邪,大樂之,留三月。乃徙黔首三萬戶瑯邪臺下,復十二歲。作瑯邪臺,立石刻,頌秦德,明得意。

新字:秦毎破諸侯,写放其宮室,作之咸陽北阪上,南臨渭,自雍門以東至涇、渭,殿屋複道周閣相属。所得諸侯美人鐘鼓,以充入之。二十七年,始皇巡隴西、北地,出鶏頭山,過回中。焉作信宮渭南,已更命信宮為極廟,象天極。自極廟道通酈山,作甘泉前殿。筑甬道,自咸陽属之。是歳,賜爵一級。治馳道。二十八年,始皇東行郡県,上鄒嶧山。立石,与魯諸儒生議,刻石頌秦徳,議封禅望祭山川之事。乃遂上泰山,立石,封,祠祀。下,風雨暴至,休於樹下,因封其樹為五大夫。禅梁父。刻所立石,其辞曰:皇帝臨位,作制明法,臣下修飭。二十有六年,初并天下,罔不賓服。親巡遠方黎民,登茲泰山,周覧東極。従臣思跡,本原事業,祗誦功徳。治道運行,諸産得宜,皆有法式。大義休明,垂于後世,順承勿革。皇帝躬聖,既平天下,不懈於治。夙興夜寐,建設長利,専隆教誨。訓経宣達,遠近畢理,咸承聖志。貴賤分明,男女礼順,慎遵職事。昭隔内外,靡不清浄,施于後嗣。化及無窮,遵奉遺詔,永承重戒。於是乃并勃海以東,過黄、腄,窮成山,登之罘,立石頌秦徳焉而去。南登瑯邪,大楽之,留三月。乃徙黔首三万戸瑯邪台下,復十二歳。作瑯邪台,立石刻,頌秦徳,明得意。

書き下し

秦諸侯を破る毎に、其の宮室を写放し、之を咸陽の北阪の上に作る。南は渭に臨み、雍門より以東涇・渭に至るまで、殿屋・複道・周閣相属す。得る所の諸侯の美人・鐘鼓、以て之に充入す。二十七年、始皇隴西・北地を巡り、雞頭山に出で、回中を過ぐ。焉に信宮を渭南に作り、已にして更めて信宮を命じて極廟と為し、天極に象る。極廟より道酈山に通じ、甘泉の前殿を作る。甬道を築き、咸陽より之に属す。是の歳、爵一級を賜ふ。馳道を治む。二十八年、始皇東のかた郡県を行り、鄒の嶧山に上る。石を立て、魯の諸儒生と議し、石に刻して秦の徳を頌し、封禅・望祭山川の事を議す。乃ち遂に泰山に上り、石を立て、封じ、祠祀す。下るとき、風雨暴かに至り、樹下に休む。因りて其の樹を封じて五大夫と為す。梁父に禅す。立つる所の石に刻す。其の辞に曰く、皇帝位に臨み、制を作り法を明らかにし、臣下修飭す。二十有六年、初めて天下を并せ、賓服せざる罔し。親しく遠方の黎民を巡り、茲の泰山に登り、周く東極を覧る。従臣跡を思ひ、事業を本原し、祗みて功徳を誦す。治道運行し、諸産宜しきを得、皆法式有り。大義休明にして、後世に垂れ、順承して革むる勿かれ。皇帝躬ら聖にして、既に天下を平らげ、治に懈らず。夙に興き夜に寐ね、長利を建設し、専ら教誨を隆くす。訓経宣達し、遠近畢く理まり、咸聖志を承く。貴賤分明にして、男女礼順し、慎みて職事に遵ふ。内外を昭隔し、清浄ならざる靡く、後嗣に施す。化は無窮に及び、遺詔を遵奉し、永く重戒を承けよ。是に於て乃ち勃海に并ひて以東し、黄・腄を過ぎ、成山を窮め、之罘に登り、石を立てて秦の徳を頌して去る。南のかた瑯邪に登り、大いに之を楽しみ、留まること三月。乃ち黔首三万戸を瑯邪台の下に徙し、復すること十二歳。瑯邪台を作り、石刻を立て、秦の徳を頌し、意を得たるを明らかにす。

現代語訳

秦は諸侯を破るたびに、その国の宮殿を写し取って、咸陽の北の丘の上に同じものを建てた。南は渭水に臨み、雍門から東の涇水・渭水に至るまで、宮殿や二重の渡り廊下、回廊が連なっていた。諸侯から得た美女や鐘・太鼓を、そこに満たした。二十七年、始皇帝は隴西と北地を巡り、雞頭山に出て、回中を通った。そこで渭水の南に信宮を造ったが、やがて信宮を極廟と改名し、天の北極星になぞらえた。極廟から道を酈山に通じ、甘泉宮の前殿を造った。両側に壁を立てた専用道路を築き、咸陽から甘泉宮までつないだ。この年、民に爵位一級を与えた。天子専用の馳道(幹線道路)を整備した。二十八年、始皇帝は東方の郡県を巡り、鄒の嶧山に登った。石碑を立て、魯の儒者たちと議論して、石に秦の徳をたたえる文を刻み、封禅や山川を望み祭る儀式について議論した。そしてついに泰山に登り、石碑を立て、土を盛って天を祭った。下山するとき、突然暴風雨に見舞われ、木の下で雨宿りをした。そこでその木に五大夫の爵位を与えた。梁父山で地を祭った。立てた石碑に文を刻んだ。その文にいう。皇帝は位に臨み、制度を作り法を明らかにし、臣下は身を修め慎む。二十六年、はじめて天下を統一し、服従しない者はない。自ら遠方の民を巡視し、この泰山に登り、東の果てまでを見渡す。従う臣下たちは足跡を思い起こし、事業の根本をたずね、謹んで功徳をたたえる。統治の道はよく行われ、あらゆる産業はそのところを得て、すべてに法と規範がある。大いなる道義は輝かしく、後世にまで伝えられ、これに従って改めてはならない。皇帝は自ら聖明であり、天下を平定してもなお治世を怠らない。朝早く起き夜遅く寝て、長く続く利益を打ち立て、ひたすら教化を重んじる。教えと法は広く行きわたり、遠くも近くもすべて治まり、みな皇帝の志を受け継ぐ。貴賤の別は明らかで、男女は礼に従い、慎んで職務に励む。内と外の別を明らかにし、清らかでないものはなく、それを子孫に伝える。教化は永遠に及び、遺された詔を守り、重い戒めを永く受け継げ。そこで渤海に沿って東へ進み、黄・腄を過ぎ、成山の果てまで行き、之罘山に登って、石碑を立てて秦の徳をたたえて去った。南へ向かって瑯邪に登り、大いにこの地を気に入って、三か月とどまった。そこで民三万戸を瑯邪台のふもとに移住させ、十二年間の賦役を免除した。瑯邪台を造営し、石碑を立てて秦の徳をたたえ、天下を得た満足を明らかにした。

解説

統一を果たした始皇帝が、宮殿の造営と全国巡幸に乗り出す段です。秦は諸侯を破るたびにその国の宮殿を写して咸陽に建て、美女や楽器で満たしました。天下の富と権威を都に集める象徴です。そして始皇帝は幹線道路の馳道を整え、東方を巡って泰山で封禅の儀式を行いました。封禅は天地に天下統一を報告する最高の祭祀で、始皇帝はその石碑に自らの功徳を刻ませます。碑文には、法と制度を明らかにし、朝早くから夜遅くまで政務に励み、貴賤や男女の秩序を正したと記されています。自らの統治理念を石に刻んで全国に示したのです。ただし、泰山を下りる途中で暴風雨にあい、雨宿りした木に爵位を与えたという逸話は、儒者の意見を十分に聞かずに儀式を強行したとして、後に儒者たちの批判の種にもなりました。自分の実績を記録して示すことは大切ですが、それが自賛に偏りすぎると、かえって周囲の反感を買うこともあるのです。

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