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史記 / 秦本紀

莊襄王元年,大赦罪人,修先王功臣,施德厚骨肉而布惠於民。東周君與諸侯謀秦,秦使相國呂不韋誅之,盡入其國。秦不絕其祀,以陽人地賜周君,奉其祭祀。使蒙驁伐韓,韓獻成皋、鞏。秦界至大梁,初置三川郡。二年,使蒙驁攻趙,定太原。三年,蒙驁攻魏高都、汲,拔之。攻趙榆次、新城、狼孟,取三十七城。四月日食。王齕攻上黨。初置太原郡。魏將無忌率五國兵擊秦,秦卻於河外。蒙驁敗,解而去。五月丙午,莊襄王卒,子政立,是為秦始皇帝。秦王政立二十六年,初并天下為三十六郡,號為始皇帝。始皇帝立十一年而崩,子胡亥立,是為二世皇帝。三年,諸侯并起叛秦,趙高殺二世,立子嬰。子嬰立月餘,諸侯誅之,遂滅秦。其語在始皇本紀中。太史公曰:秦之先為嬴姓。其後分封,以國為姓,有徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、將梁氏、黃氏、江氏、修魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏。然秦以其先造父封趙城,為趙氏。

新字:荘襄王元年,大赦罪人,修先王功臣,施徳厚骨肉而布恵於民。東周君与諸侯謀秦,秦使相国呂不韋誅之,尽入其国。秦不絶其祀,以陽人地賜周君,奉其祭祀。使蒙驁伐韓,韓献成皋、鞏。秦界至大梁,初置三川郡。二年,使蒙驁攻趙,定太原。三年,蒙驁攻魏高都、汲,抜之。攻趙榆次、新城、狼孟,取三十七城。四月日食。王齕攻上党。初置太原郡。魏将無忌率五国兵撃秦,秦却於河外。蒙驁敗,解而去。五月丙午,荘襄王卒,子政立,是為秦始皇帝。秦王政立二十六年,初并天下為三十六郡,号為始皇帝。始皇帝立十一年而崩,子胡亥立,是為二世皇帝。三年,諸侯并起叛秦,趙高殺二世,立子嬰。子嬰立月余,諸侯誅之,遂滅秦。其語在始皇本紀中。太史公曰:秦之先為嬴姓。其後分封,以国為姓,有徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、将梁氏、黄氏、江氏、修魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏。然秦以其先造父封趙城,為趙氏。

書き下し

荘襄王の元年、大いに罪人を赦し、先王の功臣を修め、徳を施し骨肉を厚くして恵を民に布く。東周の君諸侯と秦を謀る。秦相国呂不韋をして之を誅せしめ、尽く其の国を入る。秦其の祀を絶たず、陽人の地を以て周の君に賜ひ、其の祭祀を奉ぜしむ。蒙驁をして韓を伐たしむ。韓成皋・鞏を献ず。秦の界大梁に至り、初めて三川郡を置く。二年、蒙驁をして趙を攻めしめ、太原を定む。三年、蒙驁魏の高都・汲を攻め、之を抜く。趙の楡次・新城・狼孟を攻め、三十七城を取る。四月日食す。王齕上党を攻む。初めて太原郡を置く。魏の将無忌五国の兵を率ゐて秦を撃ち、秦河外に却く。蒙驁敗れ、解きて去る。五月丙午、荘襄王卒し、子政立つ。是を秦の始皇帝と為す。秦王政立ちて二十六年、初めて天下を并せて三十六郡と為し、号して始皇帝と為す。始皇帝立ちて十一年にして崩じ、子胡亥立つ。是を二世皇帝と為す。三年、諸侯并び起こりて秦に叛き、趙高二世を殺し、子嬰を立つ。子嬰立ちて月余にして、諸侯之を誅し、遂に秦を滅ぼす。其の語は始皇本紀の中に在り。太史公曰く、秦の先は嬴姓為り。其の後分封せられ、国を以て姓と為す。徐氏・郯氏・莒氏・終黎氏・運奄氏・菟裘氏・将梁氏・黄氏・江氏・修魚氏・白冥氏・蜚廉氏・秦氏有り。然れども秦は其の先の造父の趙城に封ぜらるるを以て、趙氏と為る。

現代語訳

荘襄王の元年、罪人を大いに赦し、先王の功臣を顕彰し、恩徳を施して親族を手厚く遇し、民にも恵みを広く与えた。東周の君が諸侯と秦を攻める謀をめぐらした。秦は相国の呂不韋にこれを討たせ、その国をすべて取り上げた。しかし秦は東周の祭祀を絶やさず、陽人の地を周の君に与えて、その祭祀を続けさせた。蒙驁に韓を討たせた。韓は成皋と鞏を献上した。秦の国境は大梁にまで達し、はじめて三川郡を置いた。二年、蒙驁に趙を攻めさせ、太原を平定した。三年、蒙驁が魏の高都と汲を攻め、落とした。趙の楡次・新城・狼孟を攻め、三十七城を取った。四月、日食があった。王齕が上党を攻めた。はじめて太原郡を置いた。魏の将軍の無忌(信陵君)が五か国の兵を率いて秦を攻め、秦軍は黄河の外まで退いた。蒙驁は敗れ、囲みを解いて撤退した。五月丙午の日、荘襄王が亡くなり、子の政が立った。これが秦の始皇帝である。秦王政は即位して二十六年、はじめて天下を統一して三十六郡とし、始皇帝と号した。始皇帝は(皇帝となって)十一年で崩じ、子の胡亥が立った。これが二世皇帝である。三年、諸侯が一斉に起こって秦に背き、趙高が二世を殺して子嬰を立てた。子嬰が立って一か月余りで、諸侯がこれを誅殺し、ついに秦は滅んだ。その詳しいことは始皇本紀の中にある。太史公は言う。秦の祖先は嬴姓である。その子孫はそれぞれ封じられ、国名を姓とした。徐氏・郯氏・莒氏・終黎氏・運奄氏・菟裘氏・将梁氏・黄氏・江氏・修魚氏・白冥氏・蜚廉氏・秦氏がある。しかし秦の王家は、祖先の造父が趙城に封じられたことから、趙氏を称した。

解説

秦本紀の結びです。荘襄王は即位すると罪人を赦し、功臣を顕彰し、民に恩恵を施しました。東周が反抗すると宰相の呂不韋に討たせましたが、周の祭祀は絶やさず、わずかな土地を与えて続けさせています。力で屈服させても、祖先の祭りまでは奪わないという配慮でした。この時期、魏の信陵君が五か国の兵を率いて秦を破り、秦の東進は一時止められます。それでも荘襄王の死後、子の政、すなわち始皇帝が即位し、二十六年目に天下を統一しました。司馬遷はここで一気に秦の滅亡までを要約します。始皇帝の死後、二世皇帝は三年で趙高に殺され、子嬰も一か月余りで滅ぼされました。襄公が諸侯となってから五百年以上をかけて築いた秦が、統一からわずか十五年ほどで滅んだのです。司馬遷の評では、秦の王家がもともと趙氏を称したことを記しています。長い年月をかけた積み上げも、統一後の治め方を誤れば一瞬で崩れる。秦本紀全体がその教訓を語っています。

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