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史記 / 秦始皇本紀

八年,王弟長安君成蟜將軍擊趙,反,死屯留,軍吏皆斬死,遷其民於臨洮。將軍壁死,卒屯留、蒲鶴反,戮其尸。河魚大上,輕車重馬東就食。嫪毐封為長信侯。予之山陽地,令毐居之。宮室車馬衣服苑囿馳獵恣毐。事無小大皆決於毐。又以河西太原郡更為毐國。九年,彗星見,或竟天。攻魏垣、蒲陽。四月,上宿雍。己酉,王冠,帶劍。長信侯毐作亂而覺,矯王御璽及太后璽以發縣卒及衛卒、官騎、戎翟君公、舍人,將欲攻蘄年宮為亂。王知之,令相國昌平君、昌文君發卒攻毐。戰咸陽,斬首數百,皆拜爵,及宦者皆在戰中,亦拜爵一級。毐等敗走。即令國中:有生得毐,賜錢百萬;殺之,五十萬。盡得毐等。衛尉竭、內史肆、佐弋竭、中大夫令齊等二十人皆梟首。車裂以徇,滅其宗。及其舍人,輕者為鬼薪。及奪爵遷蜀四千餘家,家房陵。是月寒凍,有死者。楊端和攻衍氏。彗星見西方,又見北方,從斗以南八十日。十年,相國呂不韋坐嫪毐免。桓齮為將軍。齊、趙來置酒。齊人茅焦說秦王曰:「秦方以天下為事,而大王有遷母太后之名,恐諸侯聞之,由此倍秦也。」秦王乃迎太后於雍而入咸陽,復居甘泉宮。

新字:八年,王弟長安君成蟜将軍撃趙,反,死屯留,軍吏皆斬死,遷其民於臨洮。将軍壁死,卒屯留、蒲鶴反,戮其尸。河魚大上,軽車重馬東就食。嫪毐封為長信侯。予之山陽地,令毐居之。宮室車馬衣服苑囿馳猟恣毐。事無小大皆決於毐。又以河西太原郡更為毐国。九年,彗星見,或竟天。攻魏垣、蒲陽。四月,上宿雍。己酉,王冠,帯剣。長信侯毐作乱而覚,矯王御璽及太后璽以発県卒及衛卒、官騎、戎翟君公、舎人,将欲攻蘄年宮為乱。王知之,令相国昌平君、昌文君発卒攻毐。戦咸陽,斬首数百,皆拝爵,及宦者皆在戦中,亦拝爵一級。毐等敗走。即令国中:有生得毐,賜銭百万;殺之,五十万。尽得毐等。衛尉竭、内史肆、佐弋竭、中大夫令斉等二十人皆梟首。車裂以徇,滅其宗。及其舎人,軽者為鬼薪。及奪爵遷蜀四千余家,家房陵。是月寒凍,有死者。楊端和攻衍氏。彗星見西方,又見北方,従斗以南八十日。十年,相国呂不韋坐嫪毐免。桓齮為将軍。斉、趙来置酒。斉人茅焦説秦王曰:「秦方以天下為事,而大王有遷母太后之名,恐諸侯聞之,由此倍秦也。」秦王乃迎太后於雍而入咸陽,復居甘泉宮。

書き下し

八年、王の弟長安君成蟜将軍として趙を撃ち、反き、屯留に死す。軍吏皆斬死せられ、其の民を臨洮に遷す。将軍壁死す。卒の屯留・蒲鶴反く。其の尸を戮す。河の魚大いに上り、軽車重馬東に食に就く。嫪毐封ぜられて長信侯と為る。之に山陽の地を予へ、毐をして之に居らしむ。宮室車馬衣服苑囿馳猟毐の恣にす。事小大と無く皆毐に決す。又河西の太原郡を以て更めて毐の国と為す。九年、彗星見え、或いは天を竟る。魏の垣・蒲陽を攻む。四月、上雍に宿す。己酉、王冠し、剣を帯ぶ。長信侯毐乱を作さんとして覚はる。王の御璽及び太后の璽を矯めて以て県卒及び衛卒・官騎・戎翟の君公・舎人を発し、将に蘄年宮を攻めて乱を為さんとす。王之を知り、相国昌平君・昌文君に令して卒を発して毐を攻めしむ。咸陽に戦ひ、首を斬ること数百、皆爵を拝す。宦者の皆戦中に在るに及ぶまで、亦爵一級を拝す。毐等敗走す。即ち国中に令す、毐を生け得る有らば、銭百万を賜ひ、之を殺さば、五十万と。尽く毐等を得たり。衛尉竭・内史肆・佐弋竭・中大夫令斉等二十人皆梟首せらる。車裂して以て徇へ、其の宗を滅ぼす。其の舎人に及ぶまで、軽き者は鬼薪と為す。及び爵を奪ひて蜀に遷すこと四千余家、房陵に家せしむ。是の月寒凍し、死する者有り。楊端和衍氏を攻む。彗星西方に見え、又北方に見え、斗より以南八十日。十年、相国呂不韋嫪毐に坐して免ぜらる。桓齮将軍と為る。斉・趙来たりて酒を置く。斉人茅焦秦王に説きて曰く、「秦方に天下を以て事と為す。而るに大王母太后を遷すの名有り。恐らくは諸侯之を聞き、此に由りて秦に倍かん」と。秦王乃ち太后を雍に迎へて咸陽に入れ、復た甘泉宮に居らしむ。

現代語訳

八年、王の弟の長安君成蟜が将軍として趙を攻めたが、背いて屯留で死んだ。配下の軍吏はみな斬られて死に、その地の民は臨洮に移された。将軍の壁が死んだ。屯留と蒲鶴の兵が背いたので、その死体をさらして辱めた。黄河の魚が大量に岸に打ち上げられ、人々は軽い車や頑丈な馬で東へ食べ物を求めて移った。嫪毐(ろうあい)が長信侯に封じられた。山陽の地を与えられ、そこに住まわされた。宮殿・車馬・衣服・庭園・狩りは嫪毐の思いのままであった。事の大小を問わず、すべて嫪毐が決めた。さらに河西の太原郡を改めて嫪毐の封国とした。九年、彗星が現れ、時には空一面にわたった。魏の垣と蒲陽を攻めた。四月、王は雍に宿泊した。己酉の日、王は冠をつける成人の儀を行い、剣を帯びた。長信侯の嫪毐は乱を起こそうとしたが発覚した。嫪毐は王の印と太后の印を偽って使い、県の兵や護衛兵、騎兵、戎狄の首長、食客たちを動員し、蘄年宮を攻めて乱を起こそうとした。王はこれを知り、相国の昌平君と昌文君に命じて兵を出させ、嫪毐を攻めさせた。咸陽で戦い、数百の首を斬った者たちはみな爵位を与えられた。宦官で戦いに加わった者もみな爵位一級を与えられた。嫪毐らは敗走した。そこで国中に命令を出した。嫪毐を生け捕りにした者には銭百万、殺した者には五十万を与える、と。こうして嫪毐らをことごとく捕らえた。衛尉の竭、内史の肆、佐弋の竭、中大夫令の斉ら二十人はみな首をさらされた。嫪毐は車裂きの刑に処されてさらされ、その一族は滅ぼされた。その食客に至るまで、罪の軽い者は宗廟の薪を刈る労役刑とした。さらに爵位を奪って蜀に移された者は四千余家に及び、房陵に住まわされた。この月は寒さが厳しく凍りつき、死者が出た。楊端和が衍氏を攻めた。彗星が西方に現れ、また北方に見え、北斗の南に八十日間見えた。十年、相国の呂不韋は嫪毐の事件に連座して罷免された。桓齮が将軍となった。斉と趙が来て酒宴を開いた。斉の人の茅焦が秦王に説いて言った。「秦はまさに天下の統一を事業としている。それなのに大王には母の太后を追放したという汚名がある。諸侯がこれを聞いて、そのために秦に背くのではないかと心配だ。」秦王はそこで太后を雍から迎えて咸陽に入れ、再び甘泉宮に住まわせた。

解説

若き秦王政が実権を握る転機となった、嫪毐の乱を描く段です。嫪毐は太后の寵愛を受けて長信侯に封じられ、宮殿や車馬を思いのままにし、国事の大小をすべて決めるほどの権勢を振るっていました。ところが王が二十二歳で成人の儀を行うと、嫪毐は王と太后の印を偽造して兵を集め、反乱を企てます。王は事前に察知して鎮圧し、嫪毐を車裂きにし、関係者を厳しく処罰しました。さらに嫪毐を宮中に送り込んだ宰相の呂不韋も連座して罷免されます。こうして王は、母の寵臣と自分の後見人をまとめて退け、名実ともに権力を手にしたのです。ただし怒りのあまり母の太后まで雍に追いやったことについては、斉の茅焦が「母を追放したという汚名は、天下を取るうえで諸侯の離反を招く」と諫め、王はこれを聞き入れて太后を都に迎えました。権力の掌握には果断さが必要ですが、怒りに任せた処分が評判を損なうと気づけば改める。若き王の決断力と柔軟さが表れた場面です。

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