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史記 / 秦始皇本紀

秦始皇帝者,秦莊襄王子也。莊襄王為秦質子於趙,見呂不韋姬,悅而取之,生始皇。以正月生於邯鄲。及生,名為政,姓趙氏。年十三歲,莊襄王死,政代立為秦王。當是之時,秦地已并巴、蜀、漢中,越宛有郢,置南郡矣;北收上郡以東,有河東、太原、上黨郡;東至滎陽,滅二周,置三川郡。呂不韋為相,封十萬戶,號曰文信侯。招致賓客游士,欲以并天下。李斯為舍人。蒙驁、王齮、麃公等為將軍。王年少,初即位,委國事大臣。晉陽反。將軍蒙驁擊定之。二年,麃公將卒攻卷,斬首三萬。三年,蒙驁攻韓,取十三城。王齮死。十月,將軍蒙驁攻魏氏暢、有詭。歲大饑。四年,拔暢、有詭。三月,軍罷。秦質子歸自趙,趙太子出歸國。十月庚寅,蝗蟲從東方來,蔽天。天下疫。百姓內粟千石,拜爵一級。五年,將軍驁攻魏,定酸棗、燕、虛、長平、雍丘、山陽城,皆拔之,取二十城。初置東郡。冬雷。六年,韓、魏、趙、衛、楚共擊秦,取壽陵。秦出兵,五國兵罷。拔衛,迫東郡,其君角率其支屬徙居野王,阻其山以保魏之河內。七年,彗星先出東方,見北方,五月見西方。將軍驁死。以攻龍、孤、慶都,還兵攻汲。彗星復見西方十六日。夏太后死。

新字:秦始皇帝者,秦荘襄王子也。荘襄王為秦質子於趙,見呂不韋姫,悦而取之,生始皇。以正月生於邯鄲。及生,名為政,姓趙氏。年十三歳,荘襄王死,政代立為秦王。当是之時,秦地已并巴、蜀、漢中,越宛有郢,置南郡矣;北収上郡以東,有河東、太原、上党郡;東至滎陽,滅二周,置三川郡。呂不韋為相,封十万戸,号曰文信侯。招致賓客游士,欲以并天下。李斯為舎人。蒙驁、王齮、麃公等為将軍。王年少,初即位,委国事大臣。晋陽反。将軍蒙驁撃定之。二年,麃公将卒攻巻,斬首三万。三年,蒙驁攻韓,取十三城。王齮死。十月,将軍蒙驁攻魏氏暢、有詭。歳大饑。四年,抜暢、有詭。三月,軍罷。秦質子帰自趙,趙太子出帰国。十月庚寅,蝗虫従東方来,蔽天。天下疫。百姓内粟千石,拝爵一級。五年,将軍驁攻魏,定酸棗、燕、虚、長平、雍丘、山陽城,皆抜之,取二十城。初置東郡。冬雷。六年,韓、魏、趙、衛、楚共撃秦,取寿陵。秦出兵,五国兵罷。抜衛,迫東郡,其君角率其支属徙居野王,阻其山以保魏之河内。七年,彗星先出東方,見北方,五月見西方。将軍驁死。以攻竜、孤、慶都,還兵攻汲。彗星復見西方十六日。夏太后死。

書き下し

秦の始皇帝は、秦の荘襄王の子なり。荘襄王秦の為に趙に質子たりしとき、呂不韋の姫を見、悦びて之を取り、始皇を生む。秦の昭王の四十八年正月を以て邯鄲に生まる。生まるるに及び、名づけて政と為し、姓は趙氏なり。年十三歳にして、荘襄王死し、政代はりて立ちて秦王と為る。是の時に当たり、秦の地已に巴・蜀・漢中を并せ、宛を越えて郢を有ち、南郡を置けり。北は上郡以東を収め、河東・太原・上党郡を有つ。東は滎陽に至り、二周を滅ぼし、三川郡を置く。呂不韋相と為り、十万戸に封ぜられ、号して文信侯と曰ふ。賓客游士を招致し、以て天下を并せんと欲す。李斯舎人と為る。蒙驁・王齮・麃公等将軍と為る。王年少く、初めて位に即き、国事を大臣に委ぬ。晋陽反く。将軍蒙驁撃ちて之を定む。二年、麃公卒を将ゐて卷を攻め、首を斬ること三万。三年、蒙驁韓を攻め、十三城を取る。王齮死す。十月、将軍蒙驁魏氏の暢・有詭を攻む。歳大いに饑う。四年、暢・有詭を抜く。三月、軍罷む。秦の質子趙より帰り、趙の太子出でて国に帰る。十月庚寅、蝗蟲東方より来たり、天を蔽ふ。天下疫す。百姓粟千石を内るれば、爵一級を拝す。五年、将軍驁魏を攻め、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽城を定め、皆之を抜き、二十城を取る。初めて東郡を置く。冬雷あり。六年、韓・魏・趙・衛・楚共に秦を撃ち、寿陵を取る。秦兵を出だし、五国の兵罷む。衛を抜き、東郡に迫る。其の君角其の支属を率ゐて徙りて野王に居り、其の山を阻みて以て魏の河内を保つ。七年、彗星先づ東方に出で、北方に見え、五月西方に見る。将軍驁死す。以て龍・孤・慶都を攻め、還りて兵もて汲を攻む。彗星復た西方に見ゆること十六日。夏太后死す。

現代語訳

秦の始皇帝は秦の荘襄王の子である。荘襄王が秦の人質として趙にいたとき、呂不韋の愛妾を見て気に入り、妻に迎えて始皇帝を生んだ。秦の昭王の四十八年正月に邯鄲で生まれた。生まれると政と名づけられ、姓は趙氏であった。十三歳のとき荘襄王が亡くなり、政が代わって即位して秦王となった。このとき秦の領土はすでに巴・蜀・漢中を併せ、宛を越えて楚の郢を領有し、南郡を置いていた。北は上郡から東を収め、河東・太原・上党の郡を領有していた。東は滎陽に至り、東西の周を滅ぼして三川郡を置いていた。呂不韋が宰相となり、十万戸の領地に封じられて文信侯と号した。呂不韋は賓客や遊説の士を招き集め、天下を併合しようとしていた。李斯はその食客であった。蒙驁・王齮・麃公らが将軍であった。王は若く、即位したばかりだったので、国事を大臣たちに任せていた。晋陽が背いた。将軍の蒙驁がこれを討って平定した。二年、麃公が兵を率いて卷を攻め、三万の首を斬った。三年、蒙驁が韓を攻め、十三の城を取った。王齮が死んだ。十月、将軍の蒙驁が魏の暢と有詭を攻めた。この年は大飢饉であった。四年、暢と有詭を落とした。三月、軍を解散した。趙にいた秦の人質が帰り、秦にいた趙の太子も出国して帰った。十月庚寅の日、イナゴが東方から飛来し、空を覆った。天下に疫病が流行した。民が穀物千石を納めれば、爵位を一級与えた。五年、将軍の蒙驁が魏を攻め、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽の城を平定し、すべて落として二十の城を取った。はじめて東郡を置いた。冬に雷が鳴った。六年、韓・魏・趙・衛・楚がともに秦を攻め、寿陵を取った。秦が兵を出すと、五か国の兵は撤退した。衛を落とし、東郡に迫った。衛の君主の角は一族を率いて野王に移り住み、山の険しさを頼りに魏の河内を守った。七年、彗星がまず東方に現れ、次に北方に見え、五月には西方に見えた。将軍の蒙驁が死んだ。龍・孤・慶都を攻め、引き返して汲を攻めた。彗星が再び西方に十六日間見えた。夏太后が亡くなった。

解説

秦始皇本紀の書き出しです。始皇帝は、荘襄王が趙で人質となっていた時に、呂不韋の愛妾を妻として生まれた子とされます。十三歳で即位したとき、秦はすでに巴・蜀から南郡、上党、三川郡に至る広大な領土を持っていました。天下統一の土台は、祖先たちの長い積み重ねによってほぼ整っていたのです。ただし若い王は国事を大臣に任せ、実権は宰相の呂不韋が握っていました。呂不韋は賓客を集め、後に始皇帝の右腕となる李斯もその食客の一人でした。この時期の秦は、蝗害や疫病、大飢饉にも見舞われ、民が穀物を納めれば爵位を与えるという方法で財政を補っています。五か国の連合軍に攻められる場面もありました。華々しい統一事業の前に、若い君主が実権を持たないまま、災害や外敵に対処しなければならない時期があったことが淡々と記されています。偉大な事業も、多くは先人の積み上げと、目立たない忍耐の時期の上に成り立っているのです。

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